目 次
目 次
初版への序
第二版への序から
第四版への序
略語表
凡例
本書の目標と基礎
叙述の方法
第一章 基礎的な事柄
第一節 啓示された名
第二節 エジプト以来のイスラエルの神、ヤハウェ
第三節 族長の神、ヤハウェ:約束
第四節 創造者であり王であるヤハウェ
第五節 イスラエルの選び
第六節 シナイの神、ヤハウェ:契約と戒め
第二章 ヤハウェの賜物
第七節 戦いとその勝利
第八節 土地とその祝福
第九節 神の現臨の賜物
第一〇節 指導と教示のカリスマ
a モーセとヨシュア
b 士師とナジル人
c 王
d 祭司
e 預言者
f 賢者
第三章 ヤハウェの戒め
第一一節 戒めの場所、名称、性質
第一二節 第一戒
第一三節 像の禁止
第一四節 神礼拝と儀式の戒め
第一五節 人と財産に関するヤハウェの戒め
第四章 神の前における生
第一六節 服従の応答
第一七節 イスラエルの犠牲礼拝、賛美と助けの叫び
第一八節 熟達した日常生活と具体的生活の秘訣(知恵)
第五章 危機と希望
第一九節 裁きと救いの間の人間(原歴史)
第二〇節 物語記事によるイスラエルの危機
第二一節 重要な記述預言者の告知による裁きと救い
a 八世紀の記述預言者
b バビロニア捕囚の転換期における預言
c 捕囚後期及び捕囚後の預言
第二二節 旧約の黙示文学
第二三節 旧約聖書の告知の開放性
事項索引
ヘブライ語索引
聖句索引
訳者あとがき
第一章 基礎的な事柄
「わたしはヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」。(出エジプト記二〇・二ー三、申命記五・六ー七)
神の山シナイにおけるイスラエルに対する重大な神の啓示の冒頭に、上に引用された非常に重要な命題によって導入される十戒の宣言がある。ここで嵐の中に現れた神は、ご自分の名において、同時にイスラエルが夫役奴隷から解放された行為を示しながら、自らを知らせた。この行為によって、彼の民は彼を知ることができるし、知るべきである。
後の歴史概要や信仰告白的命題に反響されているこの解放とそれに続くカナンへの導き入れについての記憶は、今では途方もなく拡大されてしまった正典の第一部である五書の中心要素をも形成した。そこで最初の部分の基礎的な事柄の解説において適切なのは、ヤハウェ(第一節)とエジプト以来のイスラエルの神(第二節)から初めて、次に中心要素に先行する父祖たちの神についての見解(第三節)と原歴史において告知された世界の創造者(第四節)について考察し、それとの関連で、ヤハウェとイスラエルとの関係をより詳細に述べる選び(第五節)と契約(第六節)の神学についての考察で締めくくることである。
第一節 啓示された名
旧約聖書の信仰は、ヤハウェという固有名詞によって、その神を知っている。この四文字の発音(hwhyヤハウェ)は、マソラの母音符号ではもはや確認することができないが、教父たちの報告によってかなり確かなものが示されるかも知れない。
. ヤハウェの名が意識的に避けられている箇所は、原則として一定の考えによっているものと理解することができる。EとPがモーセ時代以前にヤハウェの名を避けていることは、すぐ後に述べられる啓示の歴史の一定の見解から説明される。いわゆるエロヒストの詩編(詩編四二ー八三編)においてヤハウェの名が減退しているのは、聖なる神の名を発音することを恐れなければならないという改訂の結果である。その後ユダヤ教では、四文字の発音は完全に避けられるに至った。エステル記においてもこの傾向が強くあるように思われる。ヨブ記においてヤハウェの名は、三ー三七章の対論の部分では避けられ、一般的なhwla(エローア)あるいはydv(シャダイ)に代えられている。それはここではイスラエル人でない人がお互いに語っているからである。神が語り始めると、そして一、二、四二章の物語の枠では、ヤハウェの名がとらわれなしに使われている。他の箇所でも(例えばヨセフ物語)、イスラエル人でない人の口にはヤハウェの名は避けられている。コヘレトの言葉の場合、ヤハウェの名が避けられているのは、この知者が神に対して自らを隔てているからである(以下 ページを見よ)。ダニエル書においても後半の諸章は次のことを明らかにしている。すなわち、「天の神」あるいは「いと高き神」あるいは単に「神」と呼ばれている主は、ヤハウェという固有名詞で呼びかけられるお方以外のものが決して意味されていないのである。ダニエル書九章の祈りでは、「ヤハウェ」という名が全く自然に使われている。.
旧約の人々にとって「名前」は、交換のできる札といったものではない。名前をつけられたものは、その名で関わりをもち、その名で呼びかけることができる。この関連で二つの問いが生じる。
1、旧約聖書の信仰は、その神の名をどこから知ったのか。これについては、旧約聖書の中からいろいろな答えを聞くことができる。 a)Jは、既に原歴史と族長物語において、ヤハウェの名をとらわれなく使っている。
. Jの脈絡では創世記四章二六節の論評が注意を引く。それによ ると、三世代目の人物エノシュの時代にヤハウェという名を呼び 始めた、というのである。エノシュはアダムと同様に、単に「人 間」を意味するので、その背後に、原人の世代にすでにヤハウェ が呼びかけられていたという一つの版があったことが予想される。 ホルスト(Horst)によれば、現在のテキストは、最初からの高 き神(すなわち創造者)と現実の歴史における祭儀において呼び かけられた神との、宗教史によって知られている区別から理解す ることができる。そこで旧約聖書の特殊性は、創造者と神礼拝で 呼びかけられるものとが、同じヤハウェである、ということにあ る。.
b)EとPは、それとは違っている。両者は、それぞれ違ったやり方で、ヤハウェの名の啓示について一定の見解を主張している。両者によると、この啓示は、モーセの時代に、すなわち前述のあのイスラエルの歴史の始まりの時代になされたのである。Eによると、モーセは神の山で神の呼びかけを聞いた。この神は、それ以前の物語では常に、イスラエル以外の神にも使われていた神の名!yhla(エロヒーム)、すなわち「神」と言い表されていた。奴隷の民をエジプトから導けと命じられた時、モーセはその名でこのことが起こることになる神の名を尋ねた。そして隠されたやり方で(これについてはすぐ後にもっと詳しく考察されるであろうが)、ヤハウェの名が伝えられたのである(出エジプト記三・一、四b、六、九ー一五)。
c)Pは(イスラエルに対する神の歴史についてのPの特有な時代区分については、後にもっと詳しく語られるであろう、 ページを見よ)、神の名が啓示された三つの段階の経過を示している。Eと同様にPも、まず第一に、原初時代の神の行為については、
!yhla(エロヒーム)という一般的な名称で語っている。けれども神は、創世記一七章一節によれば、イスラエルの最古の父祖アブラハムには、ydv la(エール・シャダイ)の名で自らを表している(以下 ページを見よ)。その後神は、出エジプト記六章二節以下によると、全く同じように自由意志でモーセに向かい合っている。すなわちここでは、創世記一七章とのはっきりした関連において、自由な新しい自己表現で、すなわちヤハウェという名で、自らを知らせているのである。「わたしはヤハウェである。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブにydv la(エール・シャダイ)として現れたが、ヤハウェというわたしの名を知らせなかった」。ここで特に強調して言い表されているのは、ヤハウェの名の啓示の自由意志と新しさである。イスラエルがその神に呼びかけることの出来た名前は、人間が容易に持ち合わせるものではない。Eとは違ってここではその名は、人間によって問われるのではなく、自分の民に解放者を送り、そのことによってこの民と関係を結ぶという神の自由な賜物なのである(出エジプト記六・七)。
2、イスラエルにおいて呼びかけられたヤハウェという名前から、この神の性質と本質について何らかのことを知ることが出来るであろうか。
この第二の問いに答える際に、二つの問いの方向を区別しなければならない。(a)旧約のテキストの自己証言には全く依存せずに、ヤハウェの名の元来の意味についての答えを文献学的に究明することができるかどうか、ということを問うことが可能である。しかしその場合、はじめから次のことが明らかにされねばならない。すなわち、ここで仮に答えが見いだされたとしても、それは旧約の信仰にとって決して重要性をもっていない、ということである。この名前は、あるいは全く別の脈絡において形成されたのかも知れない。これは次の場合と同じように扱う訳にはいかない。すなわちそれは、(b)旧約の脈絡そのものがその名の意味について何らかを言い表しているかどうかと問う場合である。いずれにしてもそのような言い表しは、その言い表しが本来的に文献学的に正しい限り、旧約神学にとって意味をもつ旧約の固有の言い表しであるであろう。
a)ヤハウェの名の元来の意味について推測するものはある。
. 言語上の研究はその場合、長い形のヤハウェから、あるいは短縮されたヤフー(これは、why[vyエシャヤフー[イザヤ]とか、whymryイルミヤフー[エレミヤ]とか!yqywhyイェホヤキム[ヨヤキム]などの多くの名前の形成にあるが)から、あるいは一音節の形のヤー(これはhy wllhハレルヤという賛美などにあるが)から、出発すべきかどうかという予備的な問いを立てる。これについてドライヴァー(Driver)は、ヤーという短縮形は、恍惚的な興奮の叫びと解釈できる、と述べた。そしてそれは次に、神の名前になり、エジプトからの解放との関連で「存在する者」あるいは「存在へと呼び出す者」という意味において長い形になった、というのである。エアドマンス(Eerdmans)は、二音節の形が元来雷鳴の擬声的模倣であったかも知れない、と言う。確かな根拠から本来の形だと思われる長い形は、hwhハーヴァーという動詞の未完了形と見なすべきであろう。しかしこれは、アラビア語に従って、「風が吹く」あるいは「落ちる」を意味しているのだろうか。前者の場合は、嵐の神の名を示しているかもしれないし、後者の場合は、稲妻と雹の神を示しているかも知れない。あるいは、hwhハーヴァーはhyhハーヤーと同じであると考えて、これを「彼は存在する」ないし「彼は活動するものであることを示す」あるいは「彼は存在へと召す」と理解すべきであろうか。またわれわれは、クロス(Cross)に従って、より完全なtwabx hwhyヤハウェ・ツェヴァオート「(天の)万軍を存在へと召す方」の短縮形について考えるべきであろうか(以下の ページを見よ)。「存在」という意味における名詞形ではなさそうである。.
b)旧約聖書固有の言い表し。出エジプト記三章一四節によると、モーセが自分をイスラエルに遣わす神の名を尋ねた時、
hyha rva hyhaエフエー・アシェル・エフエー(「わたしはある。わたしはあるという者だ・・・イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』(hyhaエフエー)という方がわたしをあなたたちに遣わされた」)という答えを受け取った。ここではヤハウェという名は、hyhハーヤー(=hwhハーヴァー)という動詞から出ていることが非常に明確にされている。
. そういう訳で、旧約聖書の信仰に即した解釈としての神の名の 解釈が、とりわけこの箇所から試みられてきた。これについて、 εγω ειμι ο ων「わたしは存在する者である」と訳 した七十人訳(LXX)が指導的立場に立った。これは動詞の形 を名詞的分詞に置き換え、ギリシア語の例に従って、出エジプト 記三章一四節から存在論的な概念を引き出してしまったのである。 しかしながら、これは旧約聖書の思想の領域においては不適当で あるということが認められてきた。そしてそのために次のことが さらに問われてきた。すなわち、hyhハーヤーは、「活動的で ある」(Ratschow)、「存在する、現在する」(Vriezen)、「だ れかと共にいる」(Preuβ)と理解するのが正しいのではないか、 という問いである。.
しかしここでヤハウェという名は、hyhハーヤーという動詞だけを取り出して解釈するのではなく、「わたしはある。わたしはあるという者だ」という言葉のあやから解釈されるべきなのである。これは、出エジプト記三三章一九節の「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」という高圧的な言葉と比較することができる。この言葉のあやには、ヤハウェの主権者としての自由が共鳴している。そのヤハウェは、その名において自らを現す時にも簡単には捉えることができないし、人間がもち合わせるものでもない。創世記三二章三〇節において、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と神の名を問うことが拒絶されたことも考慮すべきである。出エジプト記三章一四節の言い表しによると、ヤハウェは自分の本来の名を呼ばせ、人間に名前を啓示するその時に、自由なお方である。そして彼は自分の自己紹介をするという自由においてのみ正しく理解されるのである。
人間の問いによって出されたのではない出エジプト記六章二節(P)の自由な自己紹介の基礎にもなっているこの理解は、一定の祭司の言い回しにおいては、一層特徴的なやり方で述べられている。レビ記一八章以下の神聖法集の掟において、後置されている数多くの「わたしはヤハウェである」あるいは「わたしはあなたの神、ヤハウェである」という言葉によって掟が強調されている。ここに形式的に使用されている自己紹介定型は、この法の宣告の枠において、主人として人間に対面し、命令を与える者としての尊厳というものを、はっきり示しているのである。イスラエルは礼拝生活において、ヤハウェの名においてこの自由な自己紹介が(祭司の口を通して?)イスラエルになされた状況を知っていたかどうか、ということを、たとえはっきりとは答えられないとしても、問うことができる。^yhla hwhy yknaアノキー・ヤハウェ・エロヘ−カー(わたしはあなたの神・ヤハウェ)を含む十戒の前文も、それを示しているかも知れない。
この要素は、他方ではいわゆる証明の言葉(Erweiswort)という預言の定式に入れられたが(これはエゼキエル書に非常に多く見いだされる)、記述以前の預言、及びそこでのヤハウェの戦いにおける神からの通知において(列王記上二〇・一三、二八)、既に生じていたようである。ここでは、(理由が付加されて拡大された、あるいは全く理由なしに述べられた)民に対するヤハウェの将来の行為の告知に続いて、「こうしてあなたたち(あなた、彼、彼ら)は、わたしがヤハウェであることを知る」という結びの定型が語られたのかも知れない。そこでは、告知されたヤハウェの行為は、人間がヤハウェをその自己紹介において知るべきーーそして認めるべきーー場所で宣言されているのである。ヤハウェは、自らの行為において、自らを明言するのである。ヨエルと捕囚後期の第二イザヤの場合にも、この語りの様式が見られる(イザヤ書四九・二二ー二六を見よ)。さらに以下 ページを参照。
ヤハウェは恵みによって啓示された名においても決して単なる「対象」ではないが、このヤハウェの自由は、旧約聖書の信仰についてのあらゆる言い表しにおいて顧慮されたい。ーー十戒の第三の戒めは、全く特定のやり方で、「宗教的な」誤用に対してこの自由を守ろうとするものであるーー旧約聖書そのものがヤハウェの名を説明しようとしている唯一の箇所において、これを一つの定義のおりに閉じ込めるようなやり方でこの名を「説明すること」が拒絶されている。旧約聖書は以下のことを言い表すことを求めている。すなわち、ヤハウェについては、ヤハウェが自らを(その行為において、またその戒めにおいて)示しているものに耳を傾けて承認する時にのみ、語られるべきである、ということである。
[文献]
F.Baumgärtel, Elohim auβerhalb des Pentateuch, BWAT 19, 1914. - F,Horst, Die Notiz vom Anfang des Jahwekultes in Gen 4,26, Festschr. F.Delekat 1957, 68-74. - R.Mayer, Der Gottesname Jahwe im Lichte der neuesten Forschung. BZ 2(1958), 26-53. - O.Eiβfeldt, Jahwe, RGG3III515f.(Lit.bis 1959). - E.Jenni, Art. hwhyjhwh, THAT I, 1971, 701-797(lit.bis 1971), - N.Freednab-O'Conor, Art.hwhy Jhwh, ThWAT III 533-554(Lit. bis 1980). C.H.Ratschow, Werden und Wirken, BZAW 70, 1941. - H.D.Preuβ, 》...ich will mit dir sein《, ZAW 80, 1968, 139-173. - F.M.Cross, Yahweh and the God of the Patriarchs. HTR 55, 1962, 225-259. - W.Zimmerli, Ich bin Jahwe. Gottes Offenbarung, ThB 19, 19692, 11-40. - ders., Erkenntnis Gottes nach dem Buche Ezechiel, ebda. 41-119. - ders., Das Wort des göttlichen Selsterweises(Erweiswort), eine prophetische Gattung, ebda. 120-132. - K.Elliger, Ich bin der Herr - euer Gotte, Kleine Schrifen zum AT, ThB 32, 1966, 211-231.