預言者は何を語るか
   目   次
1、正義と恵みの業 アモス書五章二一ー二七
2、主の言葉を聞け アモス書七章一〇ー一七
3、偽りの悔い改め ホセア書六章一ー六
4、神の愛 ホセア書一一章一ー一一
5、悔い改める者の贖い イザヤ書一章二一ー二八
6、聖なる万軍の主 イザヤ書六章一ー八
7、その日が来れば イザヤ書一一章一ー一〇
8、信頼することが力 イザヤ書三〇章八ー一七
9、主の求められること ミカ書六章一ー八
10、生まれる前から エレミヤ書一章四ー一〇
11、真実の礼拝 エレミヤ書七章一ー一一
12、エレミヤの告白 エレミヤ書二〇章七ー一三
13、新しい契約 エレミヤ書三一章三一ー三四
14、み言葉に立つ預言者 エゼキエル書三章一ー一一
15、新しい霊と肉の心 エゼキエル書一一章一四ー二一
16、汚れを清める神 エゼキエル書三六章二五ー三二
17、終わりの時の平安 エゼキエル書三九章二五ー二九
18、主を待ち望む人 イザヤ書四〇章二七ー三一
19、解放の預言 イザヤ書四四章二四ー二八
20、歴史を導く主 イザヤ書四八章一二ー一六
21、神の望みの成就 イザヤ書五五章六ー一三
22、主の恵みの年 イザヤ書六一章一ー三
23、神の計らい イザヤ書六四章一ー四
24、わたしに立ち帰れ ゼカリヤ書一章一ー六
25、ニネベを惜しむ神 ヨナ書四章一ー一一
1、正義と恵みの業 アモス書五章二一ー二七
 
  わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。
  祭りの献げ物の香りも喜ばない。
  たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても
  穀物の献げ物をささげても
  わたしは受け入れず
  肥えた動物の献げ物も顧みない。
  お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。
  竪琴の音もわたしは聞かない。
  正義を洪水のように
  恵みの業を大河のように
  尽きることなく流れさせよ。
  イスラエルの家よ
  かつて四十年の間、荒れ野にいたとき
  お前たちはわたしに
  いけにえや献げ物をささげただろうか。
  今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や
  神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。
  それはお前たちが勝手に造ったものだ。
  わたしは、お前たちを捕囚として
  ダマスコのかなたの地に連れ去らせると
  主は言われる。
  その御名は万軍の神。
 
 今日は、旧約聖書のアモス書を通して御言葉を学びます。アモスは、紀元前
八世紀(主イエスより七五〇年位前)に北イスラエルで活動した預言者です。
彼は、記述預言者の最初の人とされています。記述預言者というのは、その預
言者の預言が書物として書き残された預言者のことです。
 古代イスラエルには、アモス以前にも預言者はいました。例えば、列王記に
出てくるエリヤやエリシャなどがいます。しかし、彼らの預言は、ひとつの書
として書き残されてはいません。すなわち「エリヤ書」とか「エリシャ書」と
いうのはありません。
 これに対して、アモスの預言は、「アモス書」として残されています。同じよ
うに、ホセアの預言は「ホセア書」として書き残されています。また、イザヤ
の預言は「イザヤ書」として、エレミヤの預言は「エレミヤ書」として残され
ています。このような預言者を記述預言者と言います。そして、そのような記
述預言者の中で一番最初の人がアモスなのです。
 記述預言者は、誰一人自ら志願して預言者になった人はいません。ある時、
突然神によって召されて預言者になったのです。これを召命と言います。
 アモスは元々羊飼いをしていたと思われます。その羊を飼うという日常の仕
事をしていたときに、突然神によって召され、預言者として遣わされたのです。
彼は、南王国ユダのベツレヘムの近くのテコアという小さな村で羊を飼う仕事
をしていたときに、神によって突然召され、預言者として北隣のイスラエルに
遣わされたのです。
 聖書において、神に召された者は、その召しに従わざるを得ません。主イエ
スの弟子も自ら志願して弟子になった人は一人もなく、皆主イエスの側から声
をかけられて(すなわち召されて)弟子になったのです。最初の弟子となった
ペトロも、主イエスによって「人間を取る漁師にしよう」と言って召されたと
き、商売道具である舟も網もそこに置いてイエスに従った、とあります。
 ここでアモスも恐らく、生活の糧であった羊をそこに置いて、神の言葉を伝
えるために北イスラエルに行ったと思われます。今までの生活を捨てて、恐ら
く家族をも捨てて、しかも厳しい任務のために見知らない国に行くということ
には、恐らく不安や恐れもあったと思います。神に召された者は、このように、
強制的に神に従わさせられたのです。カール・バルトという人は、このような
召命を「強いられた恵みである」と言いました。神に召されるということは、
一面非常にしんどいことですが、他面それは非常に大きな恵みなのです。
 私たちがキリスト者になったのも、やはり神の召命によったと思います。そ
してそれもやはり「強いられた恵み」ではないでしょうか。日本の社会にあっ
てキリスト者になるということは、いろいろな戦いもあり、しんどい面もある
と思いますが、しかしそれに倍する恵みがあると思います。私も牧師に召され
て、やはり苦しいこと、しんどいことも多くありますが、これもやはりバルト
の言うように「強いられた恵み」と思って感謝しています。
 さてアモスは、神の召命を受けて、直ちに隣国の北イスラエルに行き、そこ
の中心的な聖所であったベテルの町で神の言葉を伝えました。このベテルの聖
所は、南のエルサレムに匹敵する北イスラエルの一番大きな宗教都市でした。
祭りの時には、各地から大勢の人が集まったのです。その大勢の人々を前にし
て、アモスは神の言葉を伝えたのです。それも非常に過激な言葉を伝えました。
二一ー二三節には次のようにあります。
 
  わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。
  祭りの献げ物の香りも喜ばない。
  たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても
  穀物の献げ物をささげても
  わたしは受け入れず
  肥えた動物の献げ物も顧みない。
  お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。
  竪琴の音もわたしは聞かない。
 
アモスは祭りの時、人々が大勢集まっている聖所でこのような激しい預言をし
たのです。この祭りは、秋の収穫感謝祭でした。人々は、収穫に感謝するため
に神に献げ物を携えて遠くからやってきたのです。その人たちにアモスは、祭
りをぶちこわしにするような預言をしたのです。すなわち、人々が神を礼拝す
るために集まってきたその祭りを神は憎む、と叫んだのです。そして人々がせ
っかく携えてきた献げ物を神は受け取らない、と叫んだのです。人々はびっく
りしたでしょう。そのような祭りをぶち壊しにするようなことを叫ぶアモスに
怒りを覚えた人も大勢いたことでしょう。しかし人々は、アモスに対して手出
しをすることが出来なかったようです。堂々と語るアモスの発言には、大いな
る威厳があったのでしょう。
 それにしてもアモスはなぜ、祭りを憎むとか、献げ物を受け入れない、と言
ったのでしょうか。それは、アモスの時代のイスラエルの人々の生き方に問題
があったからです。
 アモスの時代、イスラエルの国は非常に繁栄していました。当時のイスラエ
ルの王ヤロブアムは、政治的にまた経済的に非常に手腕があったようです。彼
が政治的にまた経済的に成功したおかげで、国は繁栄したのでしょう。しかし、
繁栄するということは、必ずその陰で犠牲になっている人がいます。
 現在、地球上において、日本も含めた欧米の先進国は経済的に富んでいます
が、アフリカやアジアなどの後進国は貧しいと言われています。それは、先進
国であるアメリカやヨーロッパの国々が後進国を犠牲にして富を手に入れてい
るからです。この経済的な不公平の問題が解決されないかぎり、真の世界の平
和はやって来ないでしょう。今度のイラク戦争や一昨年のアメリカでのテロ事
件の背後にも、このような世界における経済的な不公平の問題があります。
 アモスの時代のイスラエルでは、都市の支配者階級が、地方の農民や貧しい
人々を搾取して、不当な利益を得て、富み栄えていたのです。五章一一節には
次のようにあります。
 
  お前たちは弱い者を踏みつけ
  彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ
  切り石の家を建てても
  そこに住むことはできない。
  見事なぶどう畑を作っても
  その酒を飲むことはできない。
 
「切り石の家」というのは、当時の豪邸です。支配者階級は、貧しい者から搾
取して、自分たちは贅沢に暮らしていたのです。不当なやり方をして財産をだ
まし取られる貧しい者は、裁判に訴えても、裁判官は公平な裁きをしてくれな
かったのです。五章一二節には次のようにあります。
 
  お前たちの咎がどれほど多いか
  その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。
  お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り
  町の門で貧しい者の訴えを退けている。
 
門というのは、裁判所のことです。町は大体城壁に囲まれていたのですが、そ
の門の所は広場になっていて、公の集会や裁判が行われていたのです。「町の門
で貧しい者の訴えを退けている」というのは、貧しい者が不当な扱いをされて、
裁判所に訴えても、取り合ってもらえない、ということです。要するに、この
時代、社会正義が著しく踏みにじられ、弱い者、貧しい者は、虐げられていた
のです。
 弱者への配慮と言うことが聖書に基本的にある考えです。イスラエルの民は、
元々エジプトで奴隷という最も弱い立場でしたが、その苦しみの声を神が聞か
れ、エジプトから救い出されたのです。そこで旧約聖書の法では、寄留者や寡
婦や孤児など社会的弱者を苦しめてはならない、ということが規定されていま
す。また箴言には、「弱者を虐げる者は、造り主を嘲る」(一四・三一)という
諺があります。主イエスも、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にし
なかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(マタイによる福音
書二五・四〇)と言って、弱い立場の者を配慮しなければならないことを言わ
れました。
 さてアモスの時代、支配者階級は、そのような弱者を配慮しなければならな
い法を無視して、彼らから不当な利益を得て、贅沢の限りを尽くしていたので
す。その贅沢ぶりは、六章四ー六節に記されています。
 
  お前たちは象牙の寝台に横たわり
  長いすに寝そべり
  羊の群れから小羊を取り
  牛舎から子牛を取って宴を開き
  竪琴の音に合わせて歌に興じ
  ダビデのように楽器を考え出す。
  大杯でぶどう酒を飲み
  最高の香油を身に注ぐ。
  しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。
 
「象牙の寝台」というのは、非常に贅沢な品です。また一般庶民は、羊や牛の
肉を食べるることは年に一回あるかないかの贅沢でした。しかし、これらの支
配者階級は、その一般庶民から不当な利益を得て、それでもって非常なる贅沢
をしていた、というのです。
 そしてもっと悪いことは、これらの富裕な人たちは祭りの時には、いかにも
信仰深い人のように、沢山の献げ物をもって聖所に詣でていた、というのです。
普段は神を忘れ、神の御心とは全然逆の生き方をし、貧しい人を虐げて、自ら
は贅沢に暮らしていたのに、祭りの時には、多くの献げ物を携えて聖所に詣で
ても、神は喜ぶでしょうか。今日のテキストの二四節でアモスは、
 
  正義を洪水のように
  恵みの業を大河のように
  尽きることなく流れさせよ。
 
と言っています。アモスや他の預言者たちが主張したのは、表面的な敬虔や見
せかけの礼拝ではなく、真実の礼拝です。真に神の喜び給うことです。特にア
モスは、「正義と恵みの業」ということを強調しました。ここで「正義」と訳さ
れている語は、旧約聖書において非常に重要な語ですが、ヘブライ語ではミシ
ュパートと言います。この語は、文脈によって「法」とか「定め」とか「秩
序」とか「裁き」とか実にいろいろに訳されています。また、「恵みの業」は、
ヘブライ語ではツェダーカーという語ですが、これも正義と訳される場合があ
ります。そして正義も恵みの業も、神との正しい関係を表す語です。一言で言
えば、神の喜び給うことです。貧しい者を虐げて得た富でもって贅沢な献げ物
を神に捧げても神は喜ばれるでしょうか。富んだ者から賄賂を取って、富んだ
人に有利な裁判をしても神は喜ばれるでしょうか。
 アメリカのブッシュ大統領は、現在のイラクへの軍事攻撃を「正義の戦い」
と言っていますが、イラクの貧しい人々が犠牲になっている事態を神は果たし
て喜ばれているでしょうか。やはり、「おまえたちのすることを喜ばない」と言
われているのではないでしょうか。「わたしはおまえたちの祭りを憎み、退け
る」とアモスは言いましたが、アメリカの攻撃に対しても同じことが言われて
いるのではないでしょうか。本当の正義とは、神との正しい関係です。真に神
の喜び給うことです。
 ここでアモスは、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように」と言って
います。パレスチナの川は、一年中流れている川は余りなく、ほとんどはワデ
ィと言われる雨期だけ水が流れる川です。そのように、イスラエルの人々は、
時々思い出したように神の御心を行おうとするが、すぐにそれを忘れて、自分
の欲を満たすような歩みをしている、とアモスは言います。ここでアモスは、
そうではなく、洪水のように、大河のようにいつも大量の水が流れるごとく、
神の御心を行うべきだ、と言っているのです。
 私たちも、ややもすればこの世の生活において神を忘れ、神の御心から離れ
た生活をしがちです。洪水のように、大河のように、常に私たちは、神の御心
を覚え、神に喜ばれる歩みをしたいと思います。