書評:水野隆一著『アブラハム物語を読む 文芸批評的アプローチ』
樋口 進
本書は、文芸批評的アプローチをアブラハム物語全体に適用したものである。文芸批
評的アプローチを用いての本格的な注解書は日本においてはまだなく、先駆的役割を果
たしていると評価できる。著者の水野隆一教授は、これまでも『神学研究』などにおい
て、この研究方法を用いた読みを次々と発表してこられ、この方法の紹介を精力的に行
っておられる。また、「アブラハム物語」に関しては、3年間にわたって『福音と世界』
に連載してこられた。本書は、この連載がもとになっている。われわれもようやく文芸
批評的アプローチがいかなるものかということが分かってきたが、氏の果たしてきた役
割は大きい。
さて、本書は、創世記の中の14の章の「アブラハム物語」だけを扱っているが、486ペ
ージという大部であり、非常に詳細である。まず最初に、「文芸批評的アプローチ」と
は何かということが詳細に論じられている。これは英語では“literary criticism”と
言うが、この語は歴史的批判的研究では「文献批評」を指して用いられてきた。その混
乱を避けるために、文芸批評の方を“new literary criticism”と呼ぶこともある、と
紹介されている(10ページ)。そして著者は、文芸批評を「テクストを『純文学』と見
なし、文彩や登場人物、プロットの展開といった、文学的な要素に注目しながらテクス
トを読み進めていく方法である」と説明する。ここにおいては、歴史的批判的研究で扱
われてきたテクストを生み出した社会的状況や伝承といったものがほとんど顧みられな
い。構造主義や文芸批評などの方法が出てきた背景の1つには、歴史的批判的研究の行
き詰まりというのがあるであろう。著者は(というより「文芸批評」は)、歴史的批判
的研究には批判的であり、実際のテクスト解釈においても(注で言及されることはあっ
ても)その成果はほとんど無視されている。そして著者は、文芸批評は、「テクストの
成立状況や著者といったテクストの『外』にあることではなく、テクストの『内部』に
関心を集中させる」と自らの立場を表明している(10ページ)。さらに、このアプロー
チを「テクストの『外』にではなく、『内部』に固着する、テクストを成立状況から切
り離して無時間的に受け止める、客観的な読みという主張をしない」と特徴づけている。
そこで著者はまず、自らのテクストの読みの政略(ポリティクス)を表明する(13ペ
ージ)。それは、テクストを精密に読み、修辞批評などの方法を用いてテクストの戦略
(ストラテジー)を解明し、物語の中に複数の「声」を聞き、「脱構築的」に批評する、
ということであろうか。
次に著者は、アブラハム物語の範囲と構成について探求する。通常「アブラハム物語」
は、創世記12章から始まると考えられているが、著者はtdol.AT(系図)という語に着目
して、その始まりを11:27としているが説得的である。また、構成に関しては、X「サラ
からの子どもの誕生」を中心にして、その前にAからGの7つの部分、その後にG’から
A’の7つの部分というきれいな囲い込みの構成を提示している。そして、全体は4部に
分けられている。ただし、第3部だけが一つの部分(22:1-19)であって、少しアンバラ
ンスの感がする。
さて、各部分の注解であるが、上段と下段の二つの部分に分けて論じていくというス
タイルをとっているが、非常にユニークである。上段では、著者がそのテクストをどう
解釈したかが述べられている。そして下段には、そのテクストの読みについてのかなり
詳細な議論が展開されている。いろんな読者層を念頭に置いた著者の工夫である。
各部分には、最初に私訳がもうけられている。この私訳は、BHSを精確に訳しているが、
逐語的であって、物語として読んでいくという場合、もう少し普通の日本文にした方が
いいように思う。例えば22:2は、「どうか取ってください、あなたの息子を、ひとり子
を、あなたの愛する者を、イサクを。モリヤの地に行き、彼をそこで、焼き尽くす献げ
ものとして捧げてください、山々のひとつの上で、わたしがあなたに言う(山の上
で)。」と訳されている。ちなみに岩波訳では「あなたの息子、あなたの愛するひとり
子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがそこで示す山の一つで、
彼を全焼の供犠として献げなさい。」と普通の日本文に訳されている。
さて、各部分の読みであるが、まずヘブライ語の原文を非常に精密に読み、さまざま
な解釈の可能性を提示するというのが本書の特徴となっている。「こんな解釈もあるの
か」と驚かされることも多い。そこで読者はそれではどう解釈したらいいのか、と迷わ
されるが、それが著者の目的かも知れない。すなわち、自分で自分なりの解釈を見いだ
していくということであろう。例えば、創世記22:1-19の部分において、「エロヒームは
アブラハムの何を『試し』たかったのか。」という設問に対して、@「アブラハムが自
分の下す理不尽な命令に従うかどうかを『試し』たかったのか。」、A「ソドムを擁護
したときのように、エロヒームの企図を止めようとするかどうかを『試し』たかったの
か。」、B「イサクでなく他の何かで代用しようとするかどうかを『試し』たかったの
か。」、C「アブラハムがエロヒームを試すかどうか『試し』たかったのか。」と考え
られ得るだけの問いを提出している。
また、ヘブライ語の頻度や使われ方に注目して、物語全体の整合性を論証していくや
り方は、なるほどと思わせるものがある。例えば、^l.-%l,(「行け」)という語の使
い方が創世記12:1と22:2にしか出ないことに着目し、二つのテクストの関連性が指摘さ
れている。また、14章に於いて、ソドム・ゴモラ連合を攻撃した連合の中に「ゴイム」
という都市国家が含まれているが、著者はこの~yIAGを「諸国」を意味すると取って、12
:2でのヤハウェのアブラハムに対する約束「わたしはあなたを大きな国(yIAG)とする」
と関係づけ、アブラハムが都市国家連合を破ったことにおいて、ヤハウェの「大きな国
とする」という約束が実現したとする。果たして実現したかどうかは疑問であるが、著
者はそう理解して、普通アブラハム物語とは別の独立資料とされるこの14章を、第1部
(11:27-14:24)を締めくくるにふさわしい統一ある物語とする。
また著者はしばしば、原文を精確に読むことによって従来の解釈とは違う解釈を提示
する。例えば、パウロがロマ4:3で信仰義認の根拠とした「アブラハムは神を信じた。そ
れが、彼の義と認められた」の創15:6の引用を「ヤハウェの約束が契約に忠実な、誠実
なものだと、ここでアブラハムが認定した」とアブラハムがヤハウェの義を認めたと解
釈する。これでは信仰義認の根拠とはならず、困惑を覚えるが、原文を精確に読むとこ
の読みは蓋然性が高いのかと思わされる。また、アブラハム物語のクライマックスとし
て、ことにアブラハムの「絶対的服従」を表すものとして読まれてきた創22:1-19(著者
はユダヤ教の伝統にならって「アケーダー」[縛り]というタイトルをつける)におい
て、イサクが犠牲の動物について尋ねたとき、多くの聖書の訳ではアブラハムは「神が
備えてくださる」と答え、最終的にそれが備えられたので「主の山に備えあり」と言っ
た、ということになっている。この箇所を著者は、「エロヒームが自分のために見るだ
ろう」「ヤハウェの山で、彼は現れる」と訳す。これは原文の精確な訳であるが、この
テキストからどんな困難にあっても神は最終的に備えてくださるのだというメッセージ
をしてきた者にとっては戸惑いを感じるであろう。
その他、どきっとさせられるような大胆な表現が随所に見られる。例えば、「語り手
を信頼してよいか」(P.54) 、「登場人物としてのヤハウェ」(P.55)、「読者は語り手
の罠にはめられてしまった」(P.113)、「次々と試練を与えるエロヒームという問題あ
るキャラクター」(P.344)などである。しかし、文芸批評的アプローチを理解するに従っ
て、このような表現も違和感を覚えなくなってくるのが不思議である。
本書の特徴は、文芸批評的アプローチをもちいて「アブラハム物語」を精密に読んで
いき、実にさまざまな読みの可能性を提示することであり、1つの解釈を絶対化せず、
対話の可能性を開いていることである。ただ、「アブラハム物語」全体を統一ある物語
として捉えるには多少無理があるようにも思われる。歴史的批判的研究(伝承史)におい
ては、「アブラハム物語」は一人の著者によって統一あるものとして書かれたのではな
く、各地に伝わっていたいろいろな伝承が徐々に編集されて最終的に1つの物語にされ
たという理解である。それゆえ1つひとつのテクストには必ずしも統一がなく、矛盾す
ることも内包されている。例えば、同じ神があるところではヤハウェと言われ、あると
ころではエロヒームと言われ、またあるところではエール・シャダイと言われる(別々の
登場人物ではないであろう)。地名や年齢などにも矛盾が出てくる。アケーダーのところ
では、最後のところで山から下りたのがアブラハムだけなので、「イサクは縛られたま
ま祭壇の上に忘れられた」という解釈も出てくる(P.353)。このような矛盾に関しては、
やはり歴史的批判的研究の成果を取り入れる方がいいように思う。すなわち、創22:1-14
はエローヒストの資料であって、彼はアブラハムの信仰にのみ関心があって、イサクが
どうなったかには関心がなかったのであろう。一方歴史的批判的研究も次から次へと仮
説が提示され、行き詰まり感はぬぐえない。今後ますます対論が必要となって来るであ
ろう。そういう意味でも、この水野氏の著作の今後の聖書学への貢献は非常に大きいも
のがあるであろう。