目 次
序
第1章 カナン定着以前の時代
a、族長時代
b、出エジプト、荒野時代
第2章 カナン定着時代
a、土地取得
b、士師時代(部族連合時代)
第3章 統一王国時代
a、サウル
b、ダビデ
c、ソロモン
d、ダビデ・ソロモン時代の精神生活
e、王国の分裂
第4章 北イスラエルの歴史
a、ヤロブアム
b、オムリ王朝
c、エリヤ
d、イエフ王朝
e、アモス
f、北イスラエルの滅亡
g、ホセア
第5章 南ユダの歴史
a、イザヤの時代
b、ヨシヤの時
c、エレミヤの時代
d、ユダ王国の滅亡
第6章 バビロン捕囚時代
a、エゼキエル
b、申命記的歴史
c、第二イザヤ
第7章 ペルシア時代
a、神殿の再建(ハガイ、ゼカリヤ、第三イザヤ)
b、エズラ、ネヘミヤ
第8章 ヘレニズム時代
a、マカバイの反乱(ダニエル書)
b、ハスモン王朝
第9章 ローマ時代
a、ヘロデの支配
b、ユダヤ戦争
c、旧約から新約へ
あとがき
第1章 カナン定着以前の時代
古代イスラエルにおいて、歴史的な記録を残すということは、王国時代にはじめてなされた。従って、王国以前の歴史を再構成することは非常に困難である。しかし、古代イスラエル人は、歴史意識の非常に強い民であり、自分たちの先祖の歴史を物語という形で伝え、特に主要な歴史的出来事は、各地の聖所において、主に祭りの時に伝承されていった。それ故に、五書に伝えられている物語を厳密に検討した上で、その時代の歴史について推定することは可能である。
a、族長時代
旧約聖書に出てくるアブラハム、イサク、ヤコブは、イスラエルの民の先祖とされ、一般に「族長」と呼ばれている。
G・フォン・ラートが「小信仰告白」と呼んだ申命記26章5-10節には、古い時代の歴史が記憶されている。その5節には、
わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴 ってエジプトに下り、そこに寄留しました。
とある。この「アラム人」とは、族長ヤコブのことである。ここには、イスラエルの先祖たちの置かれていた状況と、彼らがアラム語族に属するものであったという記憶がある。そして、「族長物語」(創世記12-50章)には、そのようなことが反映されている。
アラム人の集団は、二つの移動群の波をなして沃地に侵入した。第一波は前19・18世紀頃、アラビア半島から北に向かって流れだし、メソポタミアと沃地の周辺をなすシリアに定着し、そこでたちまち新しい支配層を形成した。聖書で「カナン人」とか「アモリ人」と言われているのは、そのような移動集団であった。アブラハムの父テラが家族を連れてカルデアのウルからユーフラテス河上流のハランまで旅をした記事は(創世記11:31)、この移動と関係があったであろう。また、この移動群は、当時ユーフラテス河流域の南部に住んでいたシュメール人を征服し、バビロンを都とする強大な王国を建設した。これがバビロン第一王朝である(前1894〜1595年)。
第二波は、前14・13世紀に活動し、これに乗ってエドム人、モアブ人、アンモン人そしてイスラエル人などがパレスチナの沃地に侵入した。アブラハムがユーフラテス河上流の古代都市ハランを出発してカナンに移動した記事は、この移動と関係があるであろう。
先ほどの申命記26章に「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり」とあったが、イスラエルの先祖は、アラム(ユーフラテス河上流)から羊や山羊などの小家畜を連れてカナンに移動して来た集団であった。彼らは大家族の集団を形成し、牧草を追いながら移動していた半遊牧民であった。アブラハム、イサク、ヤコブというのは、そのような大家族の長の名前であったであろう。そしてそれぞれの集団は、それぞれ自分たちの先祖の神を崇拝していた。それらは「アブラハムの神」、「イサクの神」(「イサクの畏れ敬う方」創世記31:42)、「ヤコブの神」(「ヤコブの勇者」創世記49:24)として記憶されているが(出エジプト記3:6)、後にヤハウェに同一視されていったので、どのような神であったかはもはや分からない。しかし、古代オリエントの多くの神々のように、一定の土地に結びついたものではなかった。さらに、この族長の神には像もなかったようである。しばらく滞在する所に祭壇を築いて、焼き尽くす献げ物を献げていたようである。アブラハムは、シケムとベテルとヘブロンで祭壇を築いた、と記されている(創世記12:7、13:4、13:18)。
彼らの集団は、小家畜の群れを飼育しながら、沃地の周辺部をさすらったが、一定の土地に定住することは余りなかった。しかし、なかには沃地に定住した集団もあったであろう。しかし平野には堅固な城壁に囲まれた先住民(「カナン人」とか「アモリ人」と言われている)が住んでいたので、たいていの場合は人の余り住んでいなかった山地が中心であった。乾期になると彼らは沃地に移動して、家畜の食物を手に入れねばならなかった。そして、そのまま沃地に定住するというケースもあったようである。ロトがアブラハムと別れて、低地の町に住んだという記事は(創世記13章)、そのようなケースの記憶であろう。定住すると次第に農耕に移行していったものと思われる。農耕の方が生活が安定的であったからである。
アブラハムの集団は、ヘブロンを中心としてユダの地方で遊牧し、イサクの集団は、南方のベエル・シェバ周辺で遊牧生活をしたようである。創世記26章には、イサクが井戸掘りをした記事があるが(ベエル・シェバは「七つの井戸」の意)、遊牧民にとって水を確保することは生死にかかわる重要な事柄であった。ヤコブの集団は、ヨルダン川の東側の中央、及びエフライムの山地において遊牧生活をした。
遊牧生活は、乾期には家畜に食べさせる食糧が不足したので、しばらく沃地に移動しなければならなかった。そのような牧場交換の経過の中で、次第に沃地に定着するということも起こった。アブラハム、イサク、ヤコブの族長たちに、「子孫に土地が与えられる」という約束がなされているが(創世記12:7、26:3、28:13)、これは遊牧民の定住生活への未来志向である。また、ひどい旱魃の時には、食糧の豊富なエジプトのナイル・デルタ地方に移動するということもあった。アブラハムが一時エジプトに移動した記事(創世記12:10-20)やヨセフ物語におけるエジプトへの移動の記事(創世記46章)は、このような事情が背景になっている。これは多分、エジプトがヒクソスによって支配されていた時代であろう。
前18-16世紀まで、エジプトはヒクソスの支配下にあった。このヒクソスは、エジプト語で「外国人の支配者」という意味であり、シリア・パレスチナから侵入したセム族の民であった。ヨセフ物語(創世記37、39-50章)において、ヤコブの家族がエジプトの王によって優遇を受けたという記事が何らかの歴史的事実を反映しているとするなら、当時のエジプトの王がイスラエルの先祖と同じセム族であったからということが考えられる。
b、出エジプト、荒野放浪時代
イスラエルの民がかつてエジプトで奴隷であったこと、そしてモーセによって導かれて助け出されたことは、旧約聖書の多くの箇所で証言されており、この出来事は歴史的事実に基づいていたことは確かであろう。ただし五書の記述の通りのことが起こったかどうかについては検討を要する。まず、この出来事を体験したのは、後のイスラエルを構成した全部族ではなく、その一部(多分ヨセフ族を中心とした集団)であったであろう。
エジプトは一時期ヒクソスの支配にあったが、紀元前16世紀にはエジプト人のアハネスI世(1552-1527年)がヒクソスを追い出して、エジプト人の王朝を再興した(新王国の第18王朝、1552-1306年)。それに伴って、セム族(ヨセフ族)への扱いも厳しいものになっていったものと思われる。
出エジプト記1章8節には、「ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配した」とあるが、これはラメセス二世(前1290−1224年)と思われる。この王の時代に、ヨセフの子孫は、厳しい強制労働によって虐げられたのである。この王は、国境線の防備のために、ピトムとラメセスの町を建造し(出エジプト記1:11)、そのために多くの外国人を強制労働につかせた。
出エジプト記において、エジプトで強制労働につかされていたイスラエルの先祖たちが「ヘブライ人」と言われている(1:15、16、19、2:11、13)。この「ヘブライ人」というのは人種を指すものではなく、当時のオリエントの他の資料からも「アピル」(メソポタミアで)とか「ハビル」(エジプトで)と呼ばれていたものと同じもので、一種の社会層を表すものであった。これは、自分の土地や市民権を持たず、外国に寄留し、そこの権力者によって強制労働などにつかされていた階層である。アブラハムもそう呼ばれている箇所があるが(創世記14:13)、彼もそのような階層に属していたのであろう。ただしカナンにおいてはエジプトのような強権を行使した支配者がいなく、彼は強制労働にはつかされなかった。しかし、土地における市民権はなく、寄留者として扱われた。
イスラエルの先祖は、エジプトにおいて、このような階層に属していたのである。彼らは、王の苛酷な扱いに耐えかねてエジプトから逃亡したのではないかと思われる。出エジプト記14章5節の「民が逃亡したとの報告を受けると」という記事がこれを暗示している。モーセがファラオと交渉し、10の奇跡を行ったというのは後代の拡張である。巨大建築をなしたエジプトにおいて、このような階層は貴重な労働力であったので、ファラオは逃亡者たちを追跡させた。その途中に何かの自然現象が起こって、ヘブライ人は助かったのであろう。この逃亡を指導したのがモーセである。ただし彼は、その名前(「子」を意味するメス)からして、エジプト人であったようである。
この「海の奇跡」については、伝承が複雑で、もはや元の形を再現することは不可能である。旧約聖書には、次の4つの伝承が保存されている。すなわち、14章のJ資料(14:21a,24,27)、14章のP資料(14:16、21b-23,26,28-29)、「モーセの歌)」(15:1-18)、「ミリアムの歌」(15:21)である。このうち最も古いのは次のように歌われている「ミリアムの歌」であろう。
主に向かって歌え。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
しかし、この詩においては具体的なことはほとんど分からない。また問題の「海」がどこであったかについても、4つの伝承からも同定は困難である。掲載の地図は、多くの可能性のうちの一つに過ぎない。出エジプト記の記事によると、一行はスコト(13:20)から出発して、ミグドルを経由し(14:2)、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している時にファラオの軍隊に追いつかれた、とある(14:9)。ミグドルは「塔」を意味し、国境地帯に設けられていた見張りの塔であろう。しかしどの当たりかは分からない。またバアル・ツェフォンは「北の神」を意味し、北の地方を暗示しているが、同定されてはいない。出エジプト記14章21−31節が、「海の奇跡」の記事であるが、ここには古い伝承と新しい伝承が複雑にからみあっている。「海」は文字通りの海ではなく、元来は湿地帯であった可能性がある。14章の古い方の伝承と思われる資料(J資料)から想像すると、元来の出来事は、強い東風が吹いてきて(14:21)、海が浅瀬になり、軽装のヘブライ人はそこを渡ることが出来たが、戦車に乗って後から追跡してきたエジプト軍は重装備であり、ぬかるみに足を取られてしまった(「戦車の車輪をはずし、進みにくくされた」とある、14:25)。その間に、再び水が増し、エジプト軍は追撃を断念した、ということではなかったろうか。しかし彼らは、これを神の大いなる救いの奇跡と信じ、この出来事を語り伝えて行くうちにいろいろな要素が付け加えられていったのであろう。後代のPの記事になると「水は彼らの右と左に壁のようになった」とかなりおおがかりな表現となっている(14:22b)。そしてこの救いの奇跡を起こした神がヤハウェであると、ヤハウェ信仰が明確に意識されたのが、この時からであったようである。ホセアは、
わたしこそあなたの神、ヤハウェ。
エジプトの地からあなたを導き上った。
と言っているが(12:10、13:4)、これは非常に古い信仰告白であると思われる。ヤハウェは元来ミディアン人が崇拝していた神であった可能性があるが、この出エジプトの出来事によって、イスラエルの神として信じられるようになったのであろう。
さて、このエジプトを脱出した人々が、その後カナンに向かわずに、逆に南に向かいシナイに行き、そこでヤハウェと契約を結ぶという記事が続くが、本来は、出エジプトの出来事とシナイ契約は別々の出来事であり、恐らくそれを担った人々も異なっていたであろう。申命記26章の「最古の信仰告白」では、シナイ契約は言われていない。
シナイ伝承は、出エジプト記18章から民数記10章にわたって記されている。しかしこの伝承の大部分は、五書の資料のうち最も新しい層に属するものである。そして、この伝承の古い層は、シナイ山においてヤハウェなる神がイスラエルの民に顕現し、そこでヤハウェとイスラエルの間に契約が結ばれた(シナイ契約)、というものである(出エジプト記19-24、34章)。しかし、これを歴史的に明確にすることははなはだ困難である。契約は、イスラエルの民がヤハウェのみを唯一の神とする、というものであるが、これはむしろカナンの地で十二の部族連合が成立したシケムでの集会が反映されているように思われる(「シケム契約」ヨシュア記24章参照)。
シナイ山で十戒を授与されたという伝承も、後に形成されたものと思われる。それは、「家」や「牛、ろば」など(出エジプト記20:17)カナンでの定住生活が前提とされているからである。しかし、この伝承の背後には、イスラエルの先祖が遊牧生活の時代にパレスチナの南部の荒野の聖なる山に巡礼していたという習慣が反映されている。このシナイ山(E資料ではホレブ)がどこかということについてもいろいろな説があり、確定することはできない。キリスト教の伝統では、紀元4世紀頃からシナイ半島の南にあるジェベル・ムーサ(アラビア語で「モーセの山」という意味)がシナイ山とされ、巡礼が行われてきた。この山は、標高約2,300メートルで、その麓には紀元6世紀に聖カタリナ修道院も建てられた。
出エジプト記19章18節に、
シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られた からである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震 えた。
とあるが、この描写からシナイ山が火山であった、ということも提案されてきた。そしてそれならば、シナイ半島にはこの時代活火山はなく、アカバ湾の南東約200キロメートルの火山地帯ではないか、という意見もある。
さて、五書においては、シナイ山で十戒や「契約の書」(出エジプト記20:22-23:33)などのいろいろな法が授けられた後、シナイの荒野で約40年間放浪の生活をする記事が続く(民数記10:11以下)。それはイスラエルの民が、カレブとヨシュアの意見を聞かず、カナンの住民を恐れ、不平を言ったからである(民数記14:26-35)。ここの伝承には、後にイスラエルを構成する遊牧民の集団がカナンの南部にあるカデシュ・バルネアのオアシスで生活していたことが反映されている。このオアシスを中心として、かなりの制度を整えた社会が形成されていたと思われる。シナイ伝承における法の一部は、この社会のものであったであろう。ただし、この社会が後にイスラエルを構成した部族のどれであったかを確定することは困難である。