預言書の正典化の諸問題
樋口 進
序
旧約聖書の預言書は、元来、各預言者がその時代に、それぞれの歴史状況において語ったもの(時には行為したもの)の記録が基になっていることは確かであろう。各預言者は、その時々に神から言葉が与えられ、それを民や権力者の前で語ったのである。預言者の使命は、神の言葉を語ることであるが、それはその時代の具体的な出来事に対する言葉であった。捕囚前の預言者の語りの傾向は、民に対する罪の告発(叱責の言葉)と裁きの宣告(威嚇の言葉)であった。そして、捕囚後の預言者の語りの傾向は、イスラエルに対する救いの言葉であった。もっとも、捕囚前の預言者が救いの言葉を語った場合も、捕囚後の預言者が裁きの言葉を語った場合もあるが。また、時には預言者は「行為せよ」と命じられ、その通り(恐らく無言で)行ったものと思われる。(1)
そのような預言者たちの言葉や行動は、主に弟子たちが記憶し、また伝承し、ある時期に文書として記録されたであろう。預言者の語りの多くは詩文であり、記憶しやすかったと思われる。
預言者自身が自ら書き留めるということはめったになかった。それでも、書き留められたことが記されている預言者もいる。イザヤ書8章16節には「わたしは弟子たちと共に、証しの書を守り、教えを封じておこう」とあるが、これはイザヤが、シリア・エフライム戦争の時、アハズ王から公職を退けられた後に、これまで語ってきた預言を自ら書き留めたことを表している。(2)また、エレミヤはある時、自ら語った言葉を口述し、弟子のバルクに巻物に書き記させた(エレミヤ書36章)。そしてこれは、エレミヤ書の初期の預言の基本的な部分であろう。また、エゼキエルも、捕囚の地において、かなりの部分を書き記したと思われる。16、23章などの散文による物語の基本的な部分は、恐らくエゼキエル自身が書き記したものと思われる。
預言者の言葉が長い間口頭で伝承されたということは余りありそうになく、多くは比較的早い段階に弟子たちによって書き留められたと思われる。
そのように書き留められた預言者の言葉は、弟子たちによって伝承されたが、後の他の歴史状況の中で他の言葉が加筆されたり、修正されたりしていったであろう。このようなことは、伝承史的研究や編集史的研究によって明らかにされてきた。例えば、ホセアは終始北イスラエルで活動したが、アッシリア帝国によって北王国が滅亡した後、彼の預言は弟子たちによって(あるいは自ら)南に運ばれ、そこで加筆・修正が行われ、ユダ王国に適用された(例えば、ホセア書1:7,3:5,4:15,5:5,6:11など)。
このような編集は、次に申命記改革の時にも、ユダ王国の滅亡の時にも大幅に行われたと思われる。さらに、バビロン捕囚の地においても、また捕囚後のエルサレム帰還の時においても、神殿再建の時にも、そしてゼルバベルの失脚の時にも行われたであろう。その他、第二神殿時代において我々に知られていない出来事に遭遇して、特に神殿での地位を巡っての争いにおいて、編集が行われていったと思われる。
それがある時期に固定化(正典化)され、もはや編集作業は行われなくなった。預言書の正典化が、いつ、誰によって、どのようにして行われたかについての直接の証言はない。少なくともシラ書(ベン・シラの知恵)が書かれた紀元前2世紀には、預言書は既に正典化されていたことは確かである。恐らく、ペルシア時代には既に預言書の正典化はほぼなされていたと思われる。(3)しかし、その正典化にはいろいろな問題があったであろう。どのような歴史状況においてなされたのであろうか。また、預言書の正典化を担った集団はどのようなものであったのであろうか。このような諸問題を探求することが、この論文の目的である。
T
「正典」は、旧約諸文書の歴史的形成過程の最終の編集段階に位置する。「正典」(Canon)は、ギリシア語のカノーン(kanw/n)に由来する。この語は新約聖書ではガラテヤの信徒への手紙6章16節(新共同訳では「原理」と訳されている)とコリントの信徒への手紙二10章13-15節(新共同訳では「限度」と訳されている)に出るが、「規準」という意味である。(4)また、これのヘブライ語のカーネー(hn<q' )は、イザヤ書19章6節では「葦」の意味であり、エゼキエル書40章3,5節では「測り竿」の意味である。
聖書を「正典」(カノン)と呼んだのは、紀元前4世紀のことであるが、それはあるまとまった範囲の書物を総称した。(5)さらに、紀元1世紀にヨセフスは、正典概念を次の5つに特徴づけた。(6)@22の書への数の限定、A「モーセからアルタクセルクセス」への時の限定、Bそれ以外は霊を受けていないという他の書との質の相違、C字句の不可侵、D生活と信仰の規準。ヨセフスの活動した紀元1世紀の後半に正典概念が明確化されていったが、その背後にユダヤ教の危機ということがあったであろう。すなわち、紀元70年にローマ軍によってエルサレムが陥落し、神殿が破壊されたことによってそれまでのエルサレムでの犠牲祭儀を中心とするユダヤ教からファリサイ的・ラビ的ユダヤ教が成立したことによる。そして通説では、エルサレムから本拠地がパレスチナ海岸のヤムニアに移された後、紀元70年から90年にかけて継続的に開かれた「ヤムニア会議」によって旧約聖書の正典が定められた。しかし、この「会議」の実態は余り良くは分かっていない。そして他にも正典の型があって、正典には多様性があった。A・C・サンドバーグは、3つの正典の型を挙げている。(7)すなわち、@サマリア派型。これはモーセ五書プラス歴史という型である。A紀元70年以降のユダヤ教型。これは、今日のマソラ本文として伝承されているもので、「律法(トーラー)」「預言者(ネビイーム)」「諸書(ケスビーム)」の3部の区分が明瞭な型である。B紀元70年以前のユダヤ教型。これは、七十人訳のもとになったもので、これには外典が含まれている。これは、アレクサンドリアで形成されたと考えられている。キリスト教会に先立って、アレクサンドリアを中心とするヘレニズム・ユダヤ教は、パレスチナ・ユダヤ教とは異なる正典を制定した、という仮説である。いずれにしても、正典は唯一ではなく複数あった訳であり、最初から多様性があった。
旧約聖書は一時にすべて正典化されたのではなく、3つの段階を経た。それは、「律法」(トーラー)、「預言者」(ネビイーム)、「諸書」(ケスビーム)の順に行われ、正典化にはかなりの時間がかかっており、その過程においては複雑な問題があった。また、三部のそれぞれも、一時に正典化されたのではなく、かなりの時間がかかっており、その背後には複雑な問題があった。一つの書物が正典化されるには、その書物(の一部)が特別に権威をもつということが前提となる。左近淑は、その前提として次の二つをあげている。(8)すなわち、@神自身が人の言葉において啓示したという神的権威、A公的祝祭に際して会衆の前で朗読された。この条件を満たす最初の記事は、出エジプト記24章3-8節において、モーセが「主のすべての言葉とすべての法」を民に読み聞かせた記事である。この文書は多分、十戒と「契約の書」であったであろう。そしてこれが実際に行われたのは、シケムでの集会においてであったと考えられる。ヨシュア記24章によると、ヨシュアはそれを諸部族の代表者の前で読んで契約を結んだ。それゆえ、イスラエル部族連合においてはこの十戒と「契約の書」には権威があったであろう。次の公的朗読の記事は、列王記下23章1-3節である。ここでヨシヤは、「主の神殿で見つかった契約の書のすべて」を民に読み聞かせた。ここの「契約の書」は、申命記の中心部分であろう。それゆえ、ヨシヤの時代以降申命記には権威があったであろう。
さて、「律法」全体の正典化は、エズラがエルサレムに派遣された出来事と関係があるであろう。ネヘミヤ記8章1-3節によると、捕囚の地からエルサレムに派遣されたエズラは「夜明けから正午まで」民の前で「律法の書」を読み上げたとある。この「律法の書」は、その朗読の時間からして五書(トーラー)の全体であったと思われる。エズラが遣わされたのは、ペルシア王アルタクセルクセス二世(前404-358年)の時代であり(エズラ記7:1)、(9)従って「律法」は紀元前5世紀の終わりから4世紀の初めにかけて正典化されていたと考えられる。B・S・チャイルズは、エズラの時代に律法は正典化されていた、という。(10)ここでエズラは、「天にいます神の律法の書記官」(11)というペルシア政府の公の職務においてエルサレムに遣わされたのである。ということは、「律法」の正典化はペルシア政府の要請であり、政治的な力が働いて正典化が行われた、ということである。恐らくそれは、ペルシア政府がユダヤ人を支配するのに都合がよかったからであろう。後述するが、「律法」に権威をもたせることによって、預言者的「メシア運動」を押さえようとしたのではなかろうか。
一方、「預言者」の正典化に関しては、R・P・ゴードンも指摘しているように、(12)聖書の中にその手がかりは余りない。ただ、紀元前190年頃に書かれたシラ書46章1節-49章10節には、すべての預言者の名が挙げられている。また、紀元前132年頃にベン・シラの孫によって書かれたとされるシラ書の序言には、「律法の書と預言者の書」とあり、ネビイームが既に正典化されていたことが推測される。恐らく、紀元前200年頃には、「預言者」は既に正典化されていたと思われる。しかし、実質的には、ペルシア時代の後期にほぼ最終編集がなされていたと考えられる。
他方、「諸書」の正典化は、さらに後でありイエスの時代にはまだ確定していなかった。イエスは「律法と預言者」と言っているが、(13)これはイエスの時代には、「律法」と「預言者」は正典として権威が認められていたが、「諸書」はまだ閉じられていなかったことを示している。「諸書」が正典化されたのは、紀元70年にエルサレム神殿がローマ軍によって破壊され、ユダヤ教が存亡の危機に立たされた紀元1世紀の終わり頃である。ここで議論になったのは、「雅歌」「コヘレトの言葉」「エステル記」「シラ書」であった。そして、最終的に「雅歌」「コヘレトの言葉」「エステル記」が諸書に入り、閉じられたのである。ただし、それ以前にそれぞれの書は成立していた。大島力は、「諸書」に含まれている諸文書が成立していく要因として「テキスト」(律法と預言者)と「共同体」(初期ユダヤ教)との「対話」があったことを指摘し、「諸書は、律法と預言者への解釈学的応答である」と言っている。(14)また、その「対話」や「応答」には多様性があり、その多様性が現在の「諸書」に反映していることを指摘している。
U
ヘブライ語正典において、預言者は、「前の預言者」(ネビイーム・リショーニーム)と「後の預言者」(ネビイーム・アハロニーム)に分けられる。「前の預言者」は、いわゆる「申命記的歴史」と言われているヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の4書である。マルティン・ノートによると、この編集を担ったのは、エルサレム陥落後の一人の歴史家(申命記史家)である。(15)そしてノートは、神の民であったイスラエルがなぜ滅びたのかという関心からこの歴史を編集した、と言う。それは、イスラエルが神の民であるにもかかわらず、その神の戒めに背いたために神から裁かれた歴史であった、と結論づける。これに対してゲルハルト・フォン・ラートは、この歴史の最後でヨヤキン王が解放される記事に注目し、裁きで終わるのでなく神の恩恵が問題にされている、と言う。またハンス・ヴァルター・ヴォルフは、歴史を通しての神の御業に対する民の悔い改めを主題とする、と言う。主題に関してはいろいろな意見があるが、前の預言者が捕囚期の歴史家によって編集された、ということに関しては一致している。そして、この4つの書が「申命記的歴史書」と言われているのは、申命記の思想をもとに編集された、と考えられるからである。前の預言者は、捕囚の共同体において捕囚期中に事実上承認されたと思われる。従って、ペルシア時代には既に編集がほぼ終わっていたであろう。
他方「後の預言者」は、かなり複雑で長い編集の歴史があったようである。「預言者」の正典化については、「律法」部分の場合のような証拠の記事がない。間接的な証拠があるのみである。C・レヴィンは、紀元前190年頃に書かれたシラ書の44-49章の「先祖たちへの賛歌」において、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、十二預言者が言われているので、それらは一つの集成として存在しており、従って預言者の正典が既に一つの全体として出来上がっていた、と言う。(16)ペルシア時代のユダヤの歴史については余りよく分かっていない。この第二神殿時代に、預言者の編集作業が活発に行われたようである。それには、申命記的歴史家が大きく関与したであろう。おおざっぱに言って、イザヤ書はイザヤ伝承の担い手たちが編集活動を行い3人の預言者の言葉を一つの書に形成していった。エレミヤ書の編集を担ったのは、申命記的歴史家の集団であったであろう。エゼキエル書は、捕囚の地においてエゼキエルの弟子集団によって編集が行われたようであるが、この集団はP資料の編集を行った者と部分的に重なるであろう。十二預言者の編集はより複雑な歴史を辿ったようであるが、最終的な編集に大きく関わったのが後述するように申命記史家と近い関係にあったレビ人であったのではなかろうか。預言者の正典がハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書で終わるが、これはR・P・ゴードンも指摘しているように、ゼカリヤ書9-14章、マラキ書4章1-6節に終末論的なメシアへの期待が述べられている。これは既に正典化された「律法」と緊張関係にある。律法の編集を担ったのは、祭司集団であったであろう。一方、レビ人は第二神殿の時代に祭司より一段下の地位に落とされ、祭司集団とは緊張関係にあったと思われる。
大島力は、「律法」と「預言者」は捕囚後のユダヤ教団の中で互いに緊張関係を持って「正典化」されていった、と言う。(17)そうして、「律法」と「預言者」のそれぞれの最後の数節に注目する。申命記34章10-12節において、「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。」とあるが、これは捕囚後のユダヤ教団の一つの立場を示している、と言う。すなわち、「律法」の最終編集者は、「神聖政治」という立場から、「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」という主張をもって、その緊張関係を解こうとした、と言う。ここには、「律法」を「預言者」より優位におこうとする意図があるであろう。これに対して「預言者」の最後の数節は、マラキ書3章22-24節である。そこには、「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」とある。ここでは「モーセ」と「預言者エリヤ」とが同等に扱われている。そして大島は、このマラキ書の最後の数節は、「律法」の権威を承認しつつも、しかしなお新しい「預言」がなされることを期待していた人々の主張がある、と言う。そのことが「預言者」の最後に記されていることによって「律法」の最後の部分において失われていた「緊張」が再び回復されている、と言う。しかし、大島は、その背後にどのような歴史状況があったのか、それぞれの最終編集を担ったのが誰であったのか、については何も触れていない。筆者は、後述するように、その背後にそれぞれの最終編集を担った集団に何らかの対立ないし抗争があったと考える。
V
ここで、それぞれの預言書がどのようにして編集されていったかということについて触れたい。これは、編集批判によって明らかにされてきたことである。もっとも、聖書テクストにおいては編集について直接触れる言及はないので、あくまでも推測に過ぎない。しかしそれぞれの預言書は、すべてが当該の預言者の言葉であるとは限らない。むしろ、C・レヴィンの言うように、伝承された預言者の言葉はあくまでも変えずに、その時々に解釈が付け加えられるということが大規模に行われた、と考えられる。(18)そのように元来の預言が拡張され後代の世代の必要によって採用されたテクストへの介入は「層」という言葉で表されてきた。(19)H・W・ヴォルフは、アモス書にアモス自身と彼の同時代の弟子たちに由来する層と後代の3つの付加の層を区別した。(20)後代の層は、ヨシヤの時代の反ベテルの層、申命記史家の編集の層、及び主に9章11-15節の捕囚後の「救いの終末論」の層である。また、W・ツィンマリは、エゼキエル書に二つの層を認めた。(21)すなわち、元来の預言者の預言と後代のエゼキエル学派の層である。またS・モーヴィンケルは、エレミヤ書において、元来のエレミヤに由来する詩(A資料)と弟子による伝記(B資料)、及び申命記的編集者による散文(C資料)に分けた。(22)そして従来、そのような後代の付加には余り価値が置かれてこなかった。しかし最近は、むしろ編集の層に評価がおかれる傾向になってきた。W・マッケインは次のように言う。「弟子たちも預言者である。そこで、伝承は分離できない。預言書は、預言者の共同体の前進する生の記録である。」と。(23)
J・ブレンキンソップは、アモス書には数世紀の編集の歴史があった、と言う。(24)彼は、アモスの言葉と活動のいくらかを保存した支持集団がいたに違いない、と言う。彼らが預言者の言葉を保存する最初のきっかけになったのは、大地震であったであろう(1:1)。これは、アモスの預言(7:7,8:8,9:1等)が実現したと受け止められた。その後、ヴォルフも指摘しているように3つの段階が認められるであろう。すなわち、ベテルへのいくつかの言及は(3:14,5:6)、ヨシヤがアッシリア帝国に併合されていた北王国の領地に拡大した時に付け加えられた。その後捕囚期に、申命記史家によって大幅に拡張された。この段階でユダに対する託宣が付加され(2:4-5)、祭儀に対する非難が拡張され(5:25-27)、他の加筆がなされた。そして書の冒頭に表題が付された(1:1)。この表題は同時代の二つの王国の王の治世を並列するというやり方で、申命記史家の特徴であり、イザヤ書、エレミヤ書、ホセア書、ミカ書、ゼファニヤ書も同じである。その後第二神殿時代に、ダビデ王朝の回復を約束する終末論的フィナーレが付け加えられた。
H・W・ヴォルフは、ホセアが北王国のレビ人と非常に近い関係にあり、レビ人はホセアの支持グループの一部を形成しただけでなく、彼の言葉を伝達するのに重要な役割を担った、と主張した。(25)その理由としてヴォルフは、古い部族連合の祭儀と諸伝承に対するホセアの関心、既成の祭司職との対立(4:4-10)、レビ人モーセを預言者の根源と見ていること、ホセア書と申命記とが言語的にもテーマ的にも近い関係にあること、を挙げている。このレビ人は、捕囚後の第二神殿におけるレビ人集団と関係があったであろう。そして、後述するように、このレビ人集団が預言書の編集に大きな働きをしたと思われる。ホセアの預言は、サマリア陥落後に南ユダにもたらされ、いくらかの加筆が行われた。そこでは元来の北イスラエルに対する預言が南ユダにも適用された(1:7,4:15,5:5,6:11,8:14など)。また、アモス書と同様に、ダビデ的支配者の下で北と南が再統一されることを約束する記事(2:1-3,3:5)などは、ヨシヤが北部に領土拡大した時に加えられたものであろう。またアモス書と同様に捕囚期に申命記史家によって大幅な編集がなされ、表題はこの時につけられたであろう。また、第二神殿時代に拡張と解釈が加えられ、最終的な編集がレビ人の集団によってなされていったと考えられる。
次にイザヤ書の預言集の中心は、直接または間接にアモツの子イザヤの預言に遡るが、少なくとも3分の2は匿名の弟子たち、先見者たち、注解者たち、また第一神殿や第二神殿時代の解釈者たちによるものと考えられる。(26)イザヤ書は、19世紀末のB・ドゥーム以来、(27)イザヤの書(1-39章)、第二イザヤの書(40-55章)、第三イザヤの書(56-66章)と3つの別々の書として読まれてきた。しかし、例えば24-27章のいわゆる「イザヤの黙示録」などは紀元前8世紀の預言者のものではなく、ずっと後代のものであることが指摘されてきたし、36-39章の「イザヤ物語」も列王記下18章13節-20章19節にほとんど同じ記事がありイザヤのものとは思われない。そこで、1-39章の中にも後代のものがかなり入っている。預言者イザヤの言葉を保存し伝承したグループが捕囚期にも、また捕囚後にも活発に活動したことが考えられる。第二イザヤも第三イザヤもこのグループに属するものであったであろう。そして、このグループによって、第二イザヤの預言、第三イザヤの預言が編集され、一つの書にされていったと考えられる。しかし最近では、B・S・チャイルズを始めとして、イザヤ書を「一つの統一体」として読む試みが様々な形で展開されてきている。(28)大島力もその一人である。(29)彼は、イザヤ書の最終形態の枠組みをなしているのは「黙示的テキスト」である、と言う。そして、「いずれにしてもイザヤ書は、1章と66章が相互に関連性をもち、その間に13章を基点とする24-27章が配置され、大きく2-33章と40-55章(さらには60ー62章を中心とする部分まで)を結びつける34-35章が記されている『一つの統一体』であることは間違いないであろう。その最終形態はそれ自身が『イザヤの幻』として我々の前に存在する」という。(39)ただし彼は、捕囚後の共同体内の対立ないし軋轢状況を反映したテキストの存在は指摘するが、(40)この最終形態を編集した担い手については言及していない。いずれにしても、イザヤ書の編集には数百年の期間がかかり、その伝承・編集を担った一定のグループがあったことは確かであろう。また、大幅に加筆や編集が行われた背後には、何らかの社会的・政治的状況があったことも確かであろうが、その詳細は分からない。
エレミヤ書の七十人訳は、ヘブライ語本文よりも約8分の1ほど短いだけでなく、資料の配列も違っている。すなわち、「諸国民に対する預言」(46-51章)が七十人訳では25章13節の後に違った順序で記されている。ここに、エレミヤ書の編集には複雑なプロセスがあったことが示されている。S・モーヴィンケルは散文の部分を申命記史家による編集(C資料)としたが、エレミヤ書が申命記史家によって編集されたことが広く認められている。J・ブレンキンソップは、申命記史家がエレミヤをモーセを基点とする「主の僕である預言者たち」の最後の者と位置づけた、と述べている。(41)イスラエルの罪を警告するために神によって送られた一連の預言者を「主の僕である預言者たち」と表現するのは、申命記史家に特有である。(42)25章では、悔い改めるようにと特に偶像礼拝をやめるようにと呼びかけた「主の僕である預言者たち」に民が耳を傾けなかったこと、預言者の警告を無視したことに対して支払われる報いは独立の喪失とそれに続く捕囚であること、最後に虐げている国に裁きが下され、イスラエルはさらに生き延びることが言われているが、これは申命記史家によく知られている様式である。エレミヤは「主の僕である預言者たち」の最後の者として、優れた預言者であるモーセのように律法を宣告し、民が苦難を受けた時に神に執り成し、呼びかけに忠実に答えるために人々から拒絶され、迫害されて苦しみ、彼の権威を認めない人々の挑戦を受けた。このような規則的な一貫性のある記述は、申命記的な見解がエレミヤ書に入り込んだためである。(43)
エゼキエル書に関してW・ツィンマリは、前述のように、エゼキエルの言葉と後のエゼキエル学派の層とを区別した。また、J・ブレンキンソップも「エゼキエルの教えを新たな状況に適合させて彼の仕事を続けた学派を仮定せずにエゼキエル書を説明することは出来ない」と言っている。(44)エゼキエル書が三部構成(1-24,25-32,33-48章)として非常に統一されているのは、疑いもなくこの学派の編集の結果である。エゼキエル学派が祭儀と神の臨在について非常に関心があることや、ツァドク家の祭司を支持していること(例えば、40:46,43:19,44:15-31,48:11)から、彼らがバビロンの捕囚の地においてエルサレムへの帰還の準備をしていた祭司集団であったことが推測される。そこでブレンキンソップは、彼らは五書を編集していたP資料の著者たちと部分的に重なっていた、と言う。(45)王制についてエゼキエルは余り評価していない。王は最初から道を誤り、イスラエルの滅亡の主要な原因であった。ここでも、土地取得で歴史を終わらせ、王国時代を全く無視している五書の祭司の伝承と類似する。34-37章は(36:16-37:14を除いて)、ダビデ王朝の支配の下に全部族を統一する新しい国家についての希望が表明されており、これはエゼキエル学派とは別の集団に帰するものである。「マゴグのゴクに対して」の預言は(38-39章)、ダビデ家の王の下で永遠の幸福が与えられるという預言を完成するために挿入されたもので、ずっと後の黙示文学である。エゼキエル書40章以下の「新しい神殿の幻」において、ツァドク家の祭司のみが犠牲を献げることができることが強調されている(40:46,43:19,44:10-16,45:1-8,48:10-11)。この背後には、ツァドク家の祭司とレビ人との抗争があったであろう。これに関してブレンキンソップは、第二神殿再建後に神殿に献げられる多くの収入の管理が重要な役割を果たした、と言う。(46)祭司のいろいろな派閥の間の権力争いからツァドク家のグループが勝利し、このグループが祭儀を自ら管理するためにエゼキエルの預言者的権威を求め、実際にペルシア時代初期における神殿礼拝の再建後に管理権を握った、と思われる。
ハガイ書には「恐れてはならない」(2:5)、「わたしはあなたたちと共にいる」(1:13,2:4)、「勇気を出せ」(2:4)という保証の言葉が多く語られており、ブレンキンソップはハガイが多分、祭儀預言者であった、と言う。彼の任務は、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを励まして、神殿を再建することであった。彼の託宣は後の編集者によって肯定的に捉えられ、多分歴代誌史家によって日付が付され、物語の枠に入れられ(1:1,12-15)、伝統的な預言の様式がはめ込まれた。(47)
また、ゼカリヤ(1-8章の著者)も、多分祭儀預言者であった。それは、神殿の祭司たちが断食についてゼカリヤに問う記事(7:1-7)から強く暗示される。ゼカリヤ書6章11節において、大祭司ヨシュアの頭に冠が載せられたと言われているが、これは6章12節に「若枝」(48)とあることから、元来ダビデ家のゼルバベルであったであろう。この背後には、第二神殿完成後にダビデ家のゼルバベルにメシア的期待がかけられ、王として冠を載せられたが、ペルシア政府によって弾圧され失脚させられたという事件があるであろう。そしてその後に、ゼルバベルからヨシュアに変えられたのであろう。ゼカリヤの「夜の幻」(1:7-6:8)は、終末論的な希望が打ち砕かれたことを暗示させる。表題(1:1-6)は、申命記史家の編集であろう。それは、「先の預言者たち」(1:4)や「僕である預言者たち」(1:6)(49)がイスラエルに「立ち帰り」を宣べたが、人々は聞き従わなかったので、災いがもたらされた、という主張から明らかである。
小預言者が12というのは、預言書の最終的な編集の結果であろう。それは、預言書全体を3人の族長(三大預言者)と12人の息子(十二小預言者)とすることで、理想的なイスラエルを表そうとしたのである。そしてそのために、ゼカリヤ書9-11章と12-14章とマラキ書という作者不明の書を預言集全体の最後に付加した、と思われる。それぞれの冒頭に同じ「託宣」という語が付されていることがそれを暗示させる。ブレンキンソップは、マラキ書の著者がレビ人であったかも知れない、と言う。(50)2章4節に「レビと結んだわが契約」とあるが、ブレンキンソップはこれは「モーセの祝福」におけるレビへの祝福(申命記33:8-11)が暗示されている、と言う。ここではレビ人は、祭司の職務である祭壇に犠牲を献げる務めが言われている。捕囚後のある段階において、祭壇に犠牲を献げる務めはツァドク家に限定され、レビ人は補助的な務めをする下級の祭司とさせられたが、マラキ書にはこれへの反発があるようである。マラキ書の著者は祭司階級を激しく非難している(1-2章)。他方、レビ人は「わたしの使者」(51)である「契約の使者」によって清められ、犠牲を正しく献げるようになる、と言われている(3:1-3)。マラキ書の最後の段落では(これは預言集全体のフィナーレでもあるが)、この終末論的使者がエリヤだとされている。ここに、預言集全体の最終編集(正典化)の意図があるであろう。
W
さて、預言書はいくつかの段階を経て編集され、最終的に編集作業が終結して正典化されていった。しかし、それがいつ誰によって正典化されたかについてははっきりしていない。各預言書の中核は、各預言者が自分の時代に語った言葉であることは確かである。ただし、マラキは注(51)のように、預言者の名ではなさそうである。次に各預言者の言葉は、弟子や支持者によって記憶され、保存され、伝承されていった。その際多くは文書に書き留められ、それぞれの時代状況において再解釈され、加筆や修正が行われていった。北イスラエルで活動したアモスやホセアの言葉は、北王国が滅亡した時に弟子たちによって南に運ばれ、そこでかなりの編集がなされていった。また、ヒゼキヤの時代やヨシヤの時代にもかなりの編集が施されたようである。ヒゼキヤは神殿の中に祭司室を設けたが(歴代誌下31:11)、ここで編集作業が行われた可能性がある。また、ヨシヤがアッシリアの州に編入されていたかつての北イスラエルの領土(特にベテル、列王記下23:15)に踏み込んだ際にやはり多くの加筆が行われた。
さらに、南ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚は、預言書編集の大きな契機となった。これを担ったのは、特に申命記史家である。彼らは、国家の滅亡はイスラエルの民が預言者たちを通して伝えた主の掟と契約を守らなかったからだ、と主張し、(52)災いを預言した預言者たちを「真実の預言者」として評価し、(53)預言書の編集を熱心に行った。それは、少なくともアモス書、ホセア書、ミカ書、ゼファニヤ書、エレミヤ書に認められる。特に彼らは、エレミヤをモーセを基点とする「正典的預言者」の系列の最後の預言者と捉えた。それゆえに、エレミヤ書には一般に申命記史家の大幅な編集が認められている。この申命記史家のサークルとレビ人は近い関係にあった。
一方、バビロン捕囚において、バビロンに捕らえ移されたのは王侯貴族を始めとするエルサレムの上層階級であった。その中にはエゼキエルも含まれていたが、彼はエルサレム神殿の祭司であった(エゼキエル書1:3)。エルサレム神殿の祭司の多くがバビロンに移されたことは、帰還した人々のリストからも分かる(エズラ記8章)。そしてそこには「レビ人が見当たらなかった」とあるように(エズラ記8:15)、下級祭司であったレビ人の多くはユダの地に残されたであろう。そして、バビロン捕囚の地において、主に祭司の集団によって「律法」の編集作業が行われた。いわゆるP資料と言われているものがこの集団によって編集された。そして、エゼキエル書もこの集団の一部によって編集されたであろう。
ペルシアの時代になって、ユダの地ではメシア運動が時々起こったが、これを契機に預言書が再び大幅に編集されていったであろう。捕囚後の大きな関心は、神殿の再建であった。そしてこれは、ペルシア政府の要請で行われた。キュロスはバビロンを占領した翌年、勅令を布告し、(54)バビロン捕囚のユダヤ人に神殿の再建を命じた。この要請に応じて帰還したのがシェシュバツァルである(エズラ記1:11)。彼は、捕囚となったヨヤキン王の息子であり(歴代誌上3:18のシェンアツァルと同じ)、木田献一によると彼は帰還したユダの人々によって、ダビデ家の子孫としてメシア的な期待がかけられた。しかしこの企ては地元で弾圧にあってシェシュバツァルは責任を負って人々の身代わりになって殺された。これが第二イザヤの「主の僕」のモデルである、と言う。(55)「主の僕」が誰であるかということは旧約学の未解決の大問題であり、シェシュバツァルとするにはなお確定的な証拠が不足していると思われる。しかし、捕囚後のエルサレムにおいて帰還したダビデ家のシェシュバツァルにメシア的期待がかけられたことは十分可能性があると思われる。
次に大きなメシア運動が起こったのは、第二神殿が完成した時である。第1回帰還の目的は、キュロスの勅令にあるように神殿を再建することであった。しかし帰還の集団は、エルサレムの荒廃ぶりにその気力を失い、また自分たちの生活を優先させ、その結果再建事業は頓挫してしまった。しかし、ダレイオス一世がペルシア帝国の支配者になった時に、再び神殿再建の命令が出された。その「覚え書き」はエズラ記6章3-5節に保存されている。そこには「費用は国庫負担とする」と記されており、ペルシア政府がこれを強く要請したことが考えられる。それは単にペルシア政府が支配地の宗教に寛容であったというだけではなく、帝国の利害に関係していたであろう。すなわち、ユダヤの地に非政治的で祭儀を中心とする神殿共同体を形成することにおいて、支配がしやすかった、ということが考えられる。しかしながら、神殿が完成した時に、それを指導したゼルバベルにメシア的期待がかけられた。ゼカリヤ書7章11節には「 銀と金を受け取り、冠をつくり、それをヨツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭に載せて」とあるが、これは元来はゼルバベルであった。それは次節の「『若枝』という名の人」から明らかである。(56)これが「大祭司ヨシュア」に変えられたのはゼルバベルが失脚させられたからである。メシア運動は、ペルシア政府にとっては帝国への反抗と写ったであろう。それゆえに徹底的に弾圧したであろう。ゼルバベルは恐らく処刑されたと思われる。そこで、第二イザヤの「主の僕」はゼルバベルがモデルである、という説もある。このメシア運動の挫折において、メシア預言が再解釈され、預言書が大幅に編集されていったと思われる。そこにおいては、メシアの預言は次第に黙示文学的な表現をとるようになっていった。そしてその編集を担ったのは、申命記史家のサークルと近い関係にあったレビ人の集団であったと思われる。
さて、第二神殿が完成した後は、祭儀を中心とする神殿共同体が形成されていった。そしてこれは、ペルシア政府の意図するところでもあったであろう。その神殿共同体の内部で祭司の家系における争いがあった。そしてその争いにおいてツァドク家が勝利し、レビ人は下級の聖職者集団とされた。エゼキエル書44章10-14節では、レビ人が民の偶像礼拝を助け罪を犯したために神殿の雑務を行う者とされた、ということが言われている。これはエゼキエルの預言ではなく、捕囚後のツァドク家の祭司のサークルの編集であることは確かであろう。さらにPの物語には、祭司のいろいろな家系において争いがあったことが暗示されている(レビ記10章、民数記16章)。これらの物語の背後に、捕囚後の神殿共同体内部での争いがあったことが推測される。いずれにしても、この争いにツァドク家が勝利し、その他の祭司の家系がレビ人と総称されて、神殿の雑務を行う下級の祭司集団とされた、と考えられる。彼らは、神殿の務めで最も重要である祭壇に近づいて犠牲を献げるということが許されず、神殿の門衛や犠牲のための動物の屠殺や神殿の歌手など、(57)一段低い務めにつかされたのである。そして、この排除されたレビ人のサークルにおいて預言書が編集されていったと考えられる。申命記的歴史を資料とした歴代誌史家は、同じ記事を扱うところで、「祭司と預言者」とあるところを「祭司とレビ人」に変えており、預言者とレビ人を同等に扱っている(列王記下23:2と歴代誌下34:30)。
さて、正典化が最初に行われたのは「律法」である。そしてこれの最も大きな契機となったのは、エズラの派遣である。捕囚の地の祭司の一人であったエズラは、アルタクセルクセスU世の治世(前404-359年)の紀元前398年に、「天にいます神の律法の書記官」(エズラ記7:12)という職名をもって、エルサレムに派遣された。「天にいます神」とは、イスラエルの神ヤハウェに対するペルシア側の公式な呼称であった。(58)また「書記官」という肩書きは、ペルシアの公的用語で、官吏や国家の高官を意味した。そして「神の律法」は、現在の五書の全体と考えられる。エズラは、仮庵祭でこの律法を朗読させ、民をこの律法に義務づけた。民はこれを神殿共同体の憲章として受諾することを誓約し、ここに教団としてのユダヤ教が成立した。ここで、「律法」はほぼ正典化されたと見ていいであろう。「律法」は捕囚の地でツァドク家によって編集されたが、エズラはこのツァドク家に属していたであろう。(59)ここで注目すべきは、神殿再建同様、「律法」の公布もペルシア政府の要請であった、ということである。これは単なるペルシアの支配地に対する宗教的寛容というのではなく、ユダヤ人全体を律することの出来る「律法」の公布がユダヤ人の神殿共同体を管轄するのに都合が良かったからであろう。「律法」には王国の歴史が含まれていない、ということも都合が良かったであろう。ペルシア政府の警戒したのは、王国の復興と結びつくようなメシア運動であったであろう。
「律法」を中心とする神殿共同体においては、ツァドク家の祭司が特権階級の地位を獲得すると共に、排他主義的傾向になっていった。エズラは、外国人との結婚を禁止したが(エズラ記10章)、預言書を編集したサークル(たぶんにレビ人が考えられるが)はこれを批判し、ヨナ書を加えたり、各預言書に異邦人も救われるという言葉を付け加えていったと思われる。(60)
さて、レビ人のサークルが最終的に預言集を編集し、正典化した、と考えられる。前述のように、預言集を最終的に編集した際に、ゼカリヤ書9-11章、12-14章、マラキ書を付け加え、小預言者を12としたが、その預言集の最後において、「レビ記と結んだわが契約」(マラキ書2:4)とか「レビ人らを清め」(3:3)とあり、レビ人が特別な者とされている。捕囚期に申命記史家のサークルが預言書を大幅に編集したことは一般に認められているが、この申命記史家とレビ人は共に預言者に親近的であり、近い関係にあったと思われる。
レビ人の起源についてははっきりしていない。ソロモン王以来捕囚に至るまでエルサレム神殿で祭儀を行ったのはツァドク家の祭司であって、レビ人ではなかった。また、ヤロブアムがベテルとダンを北イスラエルの国家聖所とした際に、レビ人はやはりそこから排除された(列王記上12:31)。これらのレビ人が北イスラエルと南ユダにおいてどのような活動を行ったかははっきりとは分かっていないが、H・W・ヴォルフはホセアとレビ人が近い関係にあることを主張した。(61)ホセアは、イスラエルの古い伝承(特にシナイー救済史伝承)を保持し、特に当時の偶像礼拝を批判した。またそれとの関連で、荒れ野時代を偶像礼拝に染まっていない理想的な時代であったという伝承をも伝えている。(62)そしてモーセを預言者の祖と位置づけた(12:14)。そして申命記も偶像礼拝を厳しく批判し、またモーセを預言者の祖と位置づけた(18:15)。そこで、レビ人と申命記のサークルは共に預言者の伝承を担ったと思われる。
第二神殿が完成した後、神殿では祭儀が行われただけでなく(祭儀を担ったのはツァドク家の祭司であった)、律法の教育や過去の伝承の保存などの作業も行われたであろう。そして祭儀の職務から排除されたレビ人が、預言書の編集に情熱を傾けたことは大いに考えられる。第二神殿が完成し、「律法」が公布された後、ツァドク家の祭司はユダヤ人共同体において特権階級となった。マラキ書には祭司の堕落を批判する章句があるが(2:1-9)、その背後には特権階級となったツァドク家へのレビ人の批判があるように思われる。そしてレビ人は、以前の預言者の祭儀批判(アモス書4:4-5,5:21-24,ホセア書6:6,エレミヤ書6:20,イザヤ書1:10-17,エゼキエル書22:36)に共鳴し、預言集全体を編集していったであろう。ただしレビ人は、モーセの与えた「トーラー」そのものは批判していない。むしろそれを高く評価し(マラキ書3:22)、モーセの与えた「掟と定め」を忠実に守ったのがレビ人である、と主張した。そしてこれは、申命記史家の預言者理解と一致する。申命記史家は、預言者は神の僕としてイスラエルの民に神の掟と定めを守るように警告するために遣わされた、ということを主張した(例えば、列王記下17:13)。しかしイスラエルの民はこの警告に従わなかったために、王国の滅亡と捕囚という結果になった、というのであるが、預言集を最終的に編集したレビ人も同じ見解である。
さて、事実上「律法」の正典化となったエズラによる「律法」の公布は、ペルシア政府の要請によって行われたが、これは王国復興とつながるメシア運動を押さえるという意図があったであろう。しかし、預言集を最終的に編集したレビ人は、メシア的終末論の展望をもって編集した。彼らは以前の預言者のメシアに関する預言に共鳴し、加筆を加えたと思われる(イザヤ書16:5,22:22,エレミヤ書23:5,33:15,エゼキエル書34:23-24,37:24-25,ホセア書3:5,アモス書9:11,ゼカリヤ書12:8,13:1)。エレミヤ書33章32節では「ダビデの子孫とレビ人」とあり、レビ人への評価をも加えている。ただし、王国復興につながるような表現は避け、非政治的な終末論的な表現(多くは「その日」という言葉が使われている)を取った。特に預言集に最終的に付け加えられたゼカリヤ書9-12章とマラキ書には、そのようなメシア的終末論が見られる。ゼカリヤ書9章9節では、現実の王とは非常に違ったイメージでメシアは「ろばに乗ってくる」と表現された。さらに預言集の一番最後のフィナーレでは、預言者エリヤを登場させている(マラキ書3:23)。これは、大島力も指摘しているように、正典化された「律法」と緊張関係にある。(63)すなわち「律法」の終わりの申命記34章10-12節には「イスラエルには再びモーセのような預言者は現れなかった」とあり、モーセ(律法)が預言者より優位であることが主張されている。これは「律法」を編集した(ツァドク家の)祭司の立場である。それに対して預言集の最後では、モーセの権威を認めつつも、預言者エリヤをそれと同等の立場として登場させている。すなわち、「預言者」も「律法」に劣らず重要なのだ、という預言書の最終編集者の主張がここにはある。
X
以上のように、預言書が正典化されるには長い編集の歴史があり、その時々にその時代状況にあって再解釈されていった経過がある。そして最終的に編集作業が終わり、文書として固定化(正典化)されたが、再解釈が終了した訳ではない。これは「律法」についても「諸書」についても、それゆえ旧約聖書全体についても(さらに聖書全体についても)言える。そういう意味では、旧約聖書は未完の書である、と言える。文書として固定化された後には、別に注釈が書かれていった。(64)ユダヤ教においては、かなり早い時期から聖書の注釈が行われ、それはミドラシュと言われている。(65)正典化された背後には、政治的な力の影響や教団内での権力争いという要因があった。それゆえ旧約聖書は、未完結の書であって、再解釈され続けるべき書である。そして、イエスは旧約聖書を大胆に再解釈したと言っていいであろう。J・ブレンキンソップは次のように言う。「正典は自己正当化をその内に含まず、むしろそれが伝えている伝承に注意を向けさせる。伝承なしに記憶は共有されず、それゆえ共同体は存在しない。その伝承の解釈のどの一つにも最後・決定的な位置は与えられない。預言者が正典の本質的な一部として存在していることは、常に伝承を生命を与える力として造り直すことが可能であり、かつ必要であることを意味している。」(66)また、C・レヴィンは次のように言う。「今日に至るまで、聖書は自己弁護のために乱用され続けてきた。また多くの宗教的主張やさらには政治的な性格の主張さえもが自己の根拠付けのために聖書を引き合いに出してきたが、その際には聖書がまるで超越的な起源のものであるかのように扱われてきた。聖書は絶対的な書物ではなく、あくまで歴史的な書物である。聖書は、一方的な独占的所有権要求に対しては自己を閉ざすが、数多くの相互に競合しあいさえする解釈に対しては開かれている。旧約を巡る論争が終わることはありえないし、またそれを決して終わらせてはならない。」(67)預言書の正典化の経過を検証してきたが、その背後には政治的な影響や教団内での権力争いなどがあり、正典は絶対的なものではない。それは未完結のものであり、開かれたものであって、その時代時代に再解釈され続けていくべきものである。
(1)これは、「象徴行為」と言われ
る。象徴行為については、樋口進「預言者の象徴行為」(『聖書と教会』1980年6月号)参照。
(2)これはイザヤ書6:1-9:6の部分であり、H・W・ヴォルフはこの部分を「イザヤの回顧録」と呼んだ。
(3)シラ書の序言1節には、「律法の書と預言者の書」とあり、それぞれが固定化されていたことが分かる。
(4)左近淑「正典」、『総説旧約聖書』、日本基督教団出版局、1984年、562ページ。
(5)同、563ページ。
(6)ヨセフス、秦剛平訳『アピオンへの反論』T(8)[38]−[42]、山本書店、1977年、56-57ページ。
(7)A.C.Sundberg, The Old Testament of Early Church. Harvard Univ. Press, 1964.
(8)左近淑、前掲書、572ページ。
(9)C・レヴィンは、アルタクセルクセス一世の時代(前465-424年)とし、紀元前五世紀の中頃から終わりにかけて「律法」が正典化されたとする(山我哲雄訳『旧約聖書』教文館、2004年、191ページ)。
(10)B.S.Childs, Introduction to the Old Testament as Scripture. Fortress, 1979.
(11)「書記官」という肩書きは、ペルシアの公的用語で、官吏や国家の高官を意味した。また、「天にいます神」とは、イスラエルの神ヤハウェに対するペルシア側の公式な呼称であった。
(12)R.P.Gordon, A Story of two Paradigm Shifts, “The Place is too small for us. The Israelite Prophets in Recent Scholarship”, PP.3-26.
(13)マタイによる福音書7:12,22:40。
(14)大島力「聖書解釈と正典」、『現代聖書講座』第3巻、日本基督教団出版局、1996年、162ページ。
(15)マルティン・ノート、山我哲雄訳『旧約聖書の歴史文学ー伝承史的研究』日本基督教団出版局、1988年。
(16)C・レヴィン、前掲書、193ページ。
(17)大島力、前掲書、159ページ。
(18)C・レヴィン、前掲書、39ページ。
(19)R.P.Gordon, Ibid., 17.
(20)H.W.Wolff, Dodekapropheten 2: Joel and Amos(BK 14/2), 1969, S.130.
(21)W.Zimmerli, Ezekiel(BK 13), 1969.
(22)S.Mowinckel, Zur Komoposition des Buches Jeremia, 1914.
(23)W.Mckane, Tradition and Interpretation(ed. G.W.Andersonn), Clarendon, 1979, P.186.
(24)J・ブレンキンソップ、樋口進訳『旧約預言の歴史』教文館、1997年、101ページ。
(25)H.W.Wolff, Hoseas Geistige Heimat, ThLZ 81(1956), Sp.83-94.なおこれについては、樋口進「ホセアの預言者理解」、『ヴィア・メディア』3号、2000年、11-12ページ参照。
(26)J・ブレンキンソップ、前掲書、121ページ。
(27)B.Duhm, Das Buch Jesaia, Vandenhoeck & Ruprecht, 1892.
(28)B.S.Childs, Isaiah, OTL, John Knox Press, 2001.
(29)大島力『イザヤ書は一冊の書物か?ーイザヤ書の最終形態と黙示的テキスト』、教文館、2004年。
(39)同上、161ページ。
(40)同上、155ページ。
(41)J・ブレンキンソップ、前掲書、165-175ページ。
(42)列王記下17:13,21:10,24:2参照。
(43)J・ブレンキンソップ、前掲書、171ページ。
(44)同上、208ページ。
(45)同上、210ページ。
(46)同上、222ページ。
(47)同上、247ページ。
(48)「若枝」はダビデ家の象徴。イザヤ書11:1,エレミヤ書23:5,33:5,エゼキエル書17:22,19:14,31:5,ゼカリヤ書3:8参照。
(49)「僕である預言者」は、申命記史家の表現。列王記上14:18,18:36,列王記下14:25,17:23,21:10,24:2参照。
(50)J・ブレンキンソップ、前掲書、261ページ。
(51)「マラキ」(ykia'l.m;)は、「わたしの使者」という意味であって、預言者の名ではなさそうである。
(52)列王記下17:7-20参照。
(53)申命記18:15-22参照。
(54)これは、エズラ記1:2-4に記されている。
(55)木田献一「第二イザヤと苦難の僕」(『旧約聖書の中心』、新教出版社、1989年所収)。
(56)「若枝」はしばしばダビデ家の象徴として使われた(イザヤ書11:1,エレミヤ書23:5,33:15,エゼキエル書17:6,19:14,ゼカリヤ書3:8参照)。
(57)民数記16章の背後には、コラの家系が神殿歌手とされた出来事があるであろう。
(58)M・ノート、樋口進訳『イスラエル史』、日本基督教団出版局、1983年、414ページ。
(59)同上、413ページ。
(60)例えば、イザヤ書56:3には、「主のもとに集ってきた異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。」とある。
(61)注(25)参照。
(62)これについては、樋口進「預言者の荒野伝承についての一考察」、『神学研究』38号、1991年参照。
(63)大島力「聖書解釈と正典」、『現代聖書講座』第3巻、日本基督教団出版局、1996年、159ページ。
(64)その最古の例は、クムラン教団においてなされたペシェルである(ハバクク書注解など)。
(65)これについては、J・ニューズナー、長窪専三訳『ミドラシュとは何か』、教文館、1994年、参照。
(66)大島力、前掲書、161ページ参照。
(67)C・レヴィン、前掲書、198ページ。