『旧約聖書は何を語るか』
    −−旧約思想入門−−
 
               樋口 進
   目   次
 
     T
1 天地の創造 創世記一章一〜二五節
2 唯一の神 申命記六章四〜一五節
3 選び 申命記七章六〜八節
4 神の支配 士師記七章一〜七節
5 神の言葉 列王記上一九章三〜一八節
6 インマヌエル イザヤ書七章一〇〜一七節
7 主の僕 イザヤ書五二章一三節〜五三章一二節
8 神の愛 ホセア書三章一〜五節
 
     U
9 神の像としての人間 創世記一章二六〜三一節
10 信仰 創世記一五章一〜六節
11 隣人愛 レビ記一九章九〜一八節
12 祭り 申命記一六章一三〜一七節
13 祈り 詩編6編
14 知恵 箴言一章一〜七節
15 悔い改め エレミヤ書三章一九〜二五節
16 希望 エゼキエル書三七章一〜一〇節
 
     V
17 罪と罰 創世記三章一〜一九節
18 契約 創世記九章八〜一七節
19 祝福 創世記一二章一〜三節
20 解放 出エジプト記 三章一〜一二節
21 贖い ヨブ記一九章六〜二七節
22 平和 イザヤ書八章二三節b〜九章六節
23 終末 イザヤ書二五章四節〜一〇節a
24 慰め イザヤ書四〇章一〜一一節
 
あとがき
     I
   1 天地の創造
 
  創世記一章一〜二五節
 
   初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深  淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
  「光あれ。」
   こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は  光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、  朝があった。第一の日である。
   神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
   神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。  そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝  があった。第二の日である。
   神は言われた。
  「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
   そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった  所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言わ  れた。
  「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ  実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
   そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持  つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神  はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三  の日である。
   神は言われた。
  「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、  日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を 照  らせ。」
   そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大  きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神は  それらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、  光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕  べがあり、朝があった。第四の日である。
   神は言われた。
  「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
   神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物  をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神は  これを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言わ  れた。
  「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
   夕べがあり、朝があった。第五の日である。
   神は言われた。
  「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の  獣をそれぞれに産み出せ。」
   そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、  それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しと  された。
 
 聖書は、まず天地創造の物語から始まっています。聖書の冒頭、創世記一章一節には次のようにあります。
 
  初めに、神は天地を創造された。
 
これは、聖書を特徴づけている非常に格調の高い文章です。と同時に、聖書の最も基本的な信仰が表明されています。ここには、古代イスラエルの人々の創造者なる神への信仰が表明されています。そして私達の信じている神は、何よりもまず天地万物を創造された方です。この信仰が私達の信仰の出発点です。キリスト教会の非常に古い信仰告白である使徒信条でも、まず最初に「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」とあります。すなわち、父なる神の特質は、天地の創造者である、ということです。
 さて神は、その創造を、言葉によってなされました。
 
  神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 (三節)
 
ここでは、神は、光を創造するために何の素材も用いていません。ただ、言葉を発しただけです。すると光が生じたのです。神の言葉には、創造的な力があるのです。神が言葉を発するとそれは出来事になるのです。
 神の言葉は必ず成るという信仰があります。高齢に達したアブラハムに、神は子供が生まれるという約束をされました。妻のサラは、それを信じず笑いましたが(創世記一八章一二節)、やがてその言葉は実現しました。
 また、イザヤ書では、やがて救い主なる男の子が誕生することが預言されましたが(イザヤ書九章五節)、それはイエス・キリストの誕生によって成就しました。この御言を信じたマリアに対して、エリサベツは、
 
  主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸  いでしょう。
 
と言いました(ルカによる福音書一章四五節)。
 聖書には、私達も来るべき時に、キリストと同じ復活に与ると約束されています。そしてこの言葉も、必ず成就するのです。
 さて、創世記の天地創造の物語は、当時の古代オリエントにあった創造神話の影響を受けていると考えられています。バビロニアには、聖書よりずっと古い時代から、創造神話がありました。この創世記一章を記したのは、バビロニア捕囚の時代の祭司であったと言われています。ですから、旧約聖書の全体から見れば、比較的後期の作です。
 当時のバビロニアには、エヌマ・エリシュという有名な創造神話がありました。そして捕囚のイスラエルの民は、この神話をよく知っていたでしょう。それによりますと、マルドウクという神が、ティアマットという神と戦って、これを敗り、その体を二つに切って、片方を上にかざしてこれで天を造り、片方を下に降ろしてこれで地を造ったとされています。
 創世記一章を記した記者は、このバビロニアの創造神話をよく知っていたようです。しかし、それをそのまま用いたのではなく、イスラエルの信仰によって、新たに表現したのです。すなわち、バビロニアの神話では、言葉による創造ではありませんでした。ティアマットという神の体を素材にして、天と地を造ったというのです。 しかし、聖書においては、神は何の素材も用いていません。この記事に「無からの創造」(creatio ex nihilo)という思想があるとは言えませんが(それが最初に出てくるのは第二マカバイ記七章二八節)、そこに向かう方向が既にここにある、と言うことができるでしょう。
 イスラエルの神ヤハウェの言葉は、創造的であり、言葉が発されるとそれは必ず出来事として成るのです。
 さて、この一章では、六日間にわたって、天地のすべての物が創造されます。そしてそれはすべて、神の言葉によってなされています。すなわち、すべての業の始めに「神は言われた」という言葉が繰り返されています。
 第一日目は、三節で「神は言われた」とあって、光が創造されています。そして二日目は、六節においてやはり「神は言われた」とあって、大空が造られ、上の水と下の水が分けられています。そして三日目は、九節においてやはり「神は言われた」とあって、地と海が分けられ、また、植物が造られています。そして四日目は、一四節においてやはり「神は言われた」とあって、太陽と月、星が造られています。そして五日目は、二〇節においてやはり「神は言われた」とあって、魚と鳥が造られています。そして六日目は、二四節でやはり「神は言われた」とあって、陸の動物と、最後に人間が造られました。
 こう見てくると、神はすべて言葉を発することによって創造の業をされています。
 さて、創造の第三日目の記事をもう少し見てみましょう。
 
  神は言われた。
  「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた 所が現れよ。」
  そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所  を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。  (九節)
 
第三日目に、神は陸と海とを分けられたのです。この天地の創造は、全体として神が自然界に秩序を作られたことを表しています。神は、秩序ある世界を造られたのです。
 第一日目は、光と闇を創造して、昼と夜を分けられました。第二日は大空の上の水と、大空の下の水を分けられました。そして、第三日は、陸と海を分けられました。そして、それぞれの領域にふさわしい植物、動物が秩序をもって創造されました。そしてそのようにして、人間が住むにふさわしい秩序ある環境が整えられたのです。そしてそれらの環境がすべて整った後に、最後に人間が創造されたのです。
 ですから、この創造の目標は、人間の創造にあったのです。神は、人間が最もよい環境に住むことができるようにと、まず周りを整えられたのです。ここには、神の人間に対する深い配慮と愛が表されています。
 さて神は、一〇節において、乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼んだとあります。これは、名前をつけるということです。そして名前をつけるということは、古代社会においては、その物に対する支配を表しました。すなわち、神は陸も海も支配されるお方である、ということです。
 第一日目には、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた、とありました。ここでも神は、昼と夜の支配者である、ということが意図されています。第二日目には、大空を天と呼ばれ、また三日目には、地と海を呼んだ、とあります。これも神は天と地と海の支配者である、ということを言い表しています。
 そしてその次に、「神はこれを見て、良しとされた」とあります。このように、陸と海から成る世界は、神の良しとされた素晴らしい世界なのです。
 しかし、現在、この神の良しとされた世界が、人間の手によって汚染されています。科学が発達し、確かに人間の暮らしは快適になってきましたが、工場から流される汚染物質によって、きれいな海が汚れ、魚が住めなくなったりしています。魚が住めなくなるだけでなく、人間にも大きな被害を及ぼしています。あの水俣のチッソによる汚染などはその代表でしょう。これらは人間の勝手な思いからきていると思います。今こそ人間は、この大自然が神の創造されたものである、ということをへりくだった心で思わなければならないでしょう。そして、神が良しとされた美しい自然を回復しなければならないでしょう。現在地球規模で環境破壊が進んでいますが、これを回復するのは、創造者なる神への信仰以外にはないのではないでしょうか。
 さて、陸地には、まず植物が創造されます。
 
  神は言われた。
  「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ  実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
  そのようになった。              (一一節)
 
第三日目は、地に植物ができます。そしてそれは、種を持つ草と、実をつける果樹と言われています。現在の植物学からすると、非常に単純な分類ですが、しかし植物には種類がある、ということが意図されています。これによって、植物界には一定の秩序がある、ということが意図されているのです。いろいろな種類の植物があって、私達を楽しませてくれます。
 ここで、「地は」とあって、主語は地です。すなわち、地が草を芽生えさせるのです。ここには、古くからあった母なる大地という思想が反映されているようにも思えます。古代オリエントにおいては、大地そのものに生命を司らせる力があると信じられていました。ここでも、大地そのものに草を芽生えさせる力があると言っているのでしょうか。そうではありません。一一節のはじめに、「神は言われた」とあります。ですから、ここでも植物の生命の源は神の言葉なのです。大地は、神の命令に従っているだけです。大地は、神の命令に忠実に従って、地からいろいろな植物を芽生えさせているのです。
 教会の庭にも、最初植木屋さんに、きれいに植栽をしてもらいました。しかし、しばらくすると、植えていなかった植物が芽をだしてきました。非常に不思議であり、土には、不思議な力があるように思われました。しかし、土そのものに生命の源があるのでなく、神にあるのです。地はあくまで、神の支配のもとにあるのです。
 そしてここでも「神はこれを見て、良しとされた」とあります。神は、お造りになった被造物をご覧になって、すべて良しとされた、とあります。ですから、この大自然も、そこに住まう動物も、神の良しとされた素晴らしい物ばかりなのです。この素晴らしい自然を、私達は大切にする義務があります。それと同時に、この大自然の恵みを与えて下さった神の恵みに感謝を捧げることが大切です。