2008年4月6日 伏見東教会
イザヤ書61章1−3節 「主の恵みの年」
今日は旧約聖書の第三イザヤの預言を学びます。
イザヤ書の56−66章は、名前の知られていない預言者の書とされ、一般
に第三イザヤの書と言われています。
第三イザやと呼ばれる預言者が活動したのは、イスラエルの民がバビロン捕
囚から解放されて、故国エルサレムに戻り、そしてバビロニア軍によって破
壊されていた神殿を再建した時代です。
第三イザヤは、多分バビロン捕囚から帰還した者の一人で、エルサレム神殿
が再建される時に預言者として召され、活動しました。
紀元前539年に、ペルシア王キュロスがバビロニア帝国を倒したとき、バ
ビロンに50年間捕囚になっていたイスラエルの民は、解放され、故国エル
サレムに帰ることが許されたのです。
そして彼らは、故国エルサレムに帰ったら、まず神の住まいであるエルサレ
ム神殿を再建しようと決心したのです。
しかし、いざエルサレムに帰ると、その荒廃ぶりは予想以上に激しく、全く
意気消沈してしまったのです。
かつて自分たちが住んでいた家、かつて自分たちが礼拝していた神殿が以前
の姿を留めていないほど荒廃しきっていたのです。
4節には、そのようなエルサレムの荒廃した状況が暗示されています。
彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、
さきに荒れすたれた所を興し、
荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
ここに荒れた所とか荒れすたれた所という言葉が畳み掛けられていますが、
第三イザヤが活動した時代は、まさに混沌とした時代だったのです。
捕囚の民は、故国エルサレムに帰れる喜びに胸を膨らませて帰ったのですが、
この荒れ廃れた町の光景に接して、全く絶望状況に陥ってしまったのです。
そして、エルサレム神殿を再建するのだ、という決意もくじかれてしまい、
着工するにはしたのですが、間もなく中断されてしまったのです。
将来に希望のない暗い時代、それが第三イザヤの活躍した時代でした。
この第三イザヤは、そのような悲しみの淵にある人々に、主の慰めを伝え
るために預言者に召されたのです。
1ー3節は、この第三イザヤの召命の記事です。
1節には次のようにあります。
主なる神の霊がわたしに臨んだ。
これは主がわたしに油を注いで、
貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、
縛られている者に解放を告げ、
ここで第三イザヤの任務が言われています。
それは、貧しい者に福音を宣べ伝えることだ、とあります。
捕囚から帰還した人々は、恐らく何の財産も持たずに、裸同然であったの
で、とても貧しかったでしょう。
私は、朝鮮で生後4カ月の時に敗戦を迎えました。
父が朝鮮(今の韓国)の全州という所で、日本人教会の牧師をしていました。
生後8カ月して、日本に引き上げてきたのですが、両親は身の回りの物だけ持
って、船に乗ったので、日本に着いた時は、何の財産もなく、親戚を頼りに
身を寄せた、ということでした。
戦後の引き揚げ者は、多かれ少なかれ、このように貧しかったのですが、恐
らく、バビロン捕囚から帰還した人も、ほとんど何も持たず帰還したので、
非常に貧しかったでしょう。
また、心のいためる者をいやすためだ、とあります。
貧しい生活の中で、明日をどう生きていったらいいかと思うと、心をいため
たことでしょう。
また、捕われ人に放免を告げるためだ、とあります。
そしてまた、縛られている者に解放を告げるためだ、とあります。
「縛られている者」とか「捕われ人」というのは、実際に牢に入れられてい
た人です。
恐らく彼らは、貧しさのゆえに借金をしましたが、それが期日までに返すこ
とができずに獄に捕らえられたのでしょう。
そして、第三イザヤの使命は、このように貧しく苦しい生活をしている人々
に「福音を宣べ伝える」ことでした。
打ちひしがれている人々に、主による希望を宣べ伝えるためでした。
アモスやイザヤなどの捕囚前の預言者の主な使命は、イスラエルの民の罪を
告発して、神の厳しい裁きを宣告することでしたが、この第三イザヤの使命
はそれとは全く逆のことです。
「福音を宣べ伝えるために」とあります。
主イエスは、ローマ帝国の圧迫のもとに苦しんでいたガリラヤの民衆に福音を
宣べ伝えましたが、この第三イザヤも、捕囚後の重苦しい状況の中で、帰還
した人々に福音を宣べ伝えたのです。
むしろ主イエスは、この第三イザヤの福音を受け継いだ、ということが言えま
す。
主イエスはナザレの会堂において、説教した時、この第三イザヤの預言を引用
されました。
ルカによる福音書4章18ー19節には、次のようにあります。(p.89)
「主の御霊がわたしに宿っている。
貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
わたしを聖別してくださったからである。
主はわたしをつかわして、
囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、
打ちひしがれている者に自由を得させ、
主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
主イエスがナザレの会堂でこの第三イザヤの預言を引用したのは、彼の使命が
貧しい人に福音を告げ知らせることであったからでしょう。
さらに、「主のめぐみの年を告げ知らせるため」と言われています。
主イエスがこの世に来られたのは、まさに「主のめぐみの年を告げるため」で
した。
主イエスの到来によって、捕らわれている人は解放され、目の見えない人は視
力が回復され、圧迫されている人は自由にされた、というのです。
さて、今日のテキストの3節を見てみます。
シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
灰にかえて冠を与え、
悲しみにかえて喜びの油を与え、
憂いの心にかえて、
さんびの衣を与えさせるためである。
こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
主がその栄光をあらわすために
植えられた者ととなえられる。
「シオン」というのは、エルサレムの丘の名前です。
このシオンの丘にソロモンは壮麗な神殿を建てたのです。
以後、イスラエルの民にとっては、このシオンの丘が最も聖なるところとし
て大事にされたのです。
しかし、そのシオンの丘に建てられた壮麗な神殿も、バビロニア軍によって
めちゃくちゃに破壊されてしまいました。
そして、50年経って、捕囚の民が戻ってきても、廃墟のままでした。
「シオンの中の悲しむ者」とありましたが、それはそのような廃墟の町を目
の当たりにして、深い悲しみに暮れているバビロンから帰還した人々でした。
しかし、第三イザヤは、その深い悲しみが喜びに代えられる、と言います。
「灰にかえて冠を与え」とあります。
古代イスラエルにおいては、何か深い悲しみの出来事が起こると、灰を頭か
らかぶる習慣がありました。
例えば、肉親が死んだときとか、何か大きな天災に遭ったときとか、戦争に
巻き込まれたときとか、疫病がはやったときなどです。
そのようなとき、人々は断食をし、粗末な服を着て、広場に行き、灰を頭か
らかぶったのです。
しかし、「冠」というのは、文字通り喜ばしいことです。
この上ない光栄です。
さらに「悲しみにかえて喜びの油を与え」と言います。
喜びの油は、結婚式などの喜びの席に行くときにつける油です。
そのように、荒廃した町において、明日をどう生きて行っていいか分からな
い不安の中での嘆きが喜びに代えられる、と言います。
さらに「憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。」と言い
ます。
第三イザヤの時代の人々も、主イエスの時代の人々も、貧しさや圧迫によって
暗い心になっていました。
しかし、第三イザヤも主イエスも、そのような暗い心の人々に福音を宣べ伝え
たのです。
希望を与えようとしたのです。
しかし、主イエスがナザレで語った説教は、人々に受け入れられませんでし
た。
ナザレの会堂には、郷里の人々が集まっていたのですが、イエスの説教を聞
いた時、「この人はヨセフの子ではないか」と言って、軽蔑したというので
す。
そこでイエスは、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言わ
れました。
いくら福音が語られても、それを素直に聞かなければ、それは希望になりま
せん。
第三イザヤは、バビロン捕囚後の苦しい時代を「主の恵みの年」と言いまし
たが、これも人々が神の言葉に聞き従う時に恵みの年となるのです。
翻って、今の私たちの時代はどうでしょうか。
日本の政治は混沌として、余り希望がもてませんし、経済もよくなく、倒産
やリストラ、完全失業率のアップなどという言葉も多く聞かれました。
また、少年による凶悪な犯罪も多発しました。
世界的にも、紛争が絶えず、せっかくイスラエルとパレスチナに話し合いが
再開されようとしましたが、また座礁したということです。
地球の環境も依然として悪く、21世紀には人間や動物がますます暮らしに
くくなるのではないかと懸念します。
このような混沌とした時代に、私たちは天地万物を創造された神の御言葉に
真に耳を傾けることが大切ではないでしょうか。
そこから真の希望が与えられるのではないでしょうか。
主の恵みの年と実感できるのではないでしょうか。
今日のテキストの7節には次のようにあります。
あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、
二倍の賜物を受け、
はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。
それゆえ、あなたがたはその地にあって、
二倍の賜物を獲、
とこしえの喜びを得る。
「さきに受けた恥」というのは、バビロニア軍によるエルサレム破壊のこと
です。
敵の手に滅ぼされ、多くの人が捕虜としてバビロンに連れて行かれたのは、
大いなる恥でした。
しかしそれにも増して、神の住まいであったはずの神殿が破壊されたのは、
エルサレムの民にとってはこの上ないショックでした。
しかし神は、ここにおいて、その二倍の賜物を与えると約束されるのです。
しかし、第三イザヤがこの預言をした時は、エルサレムはまだ廃墟の状態
でした。
人々の前には、荒涼とした廃墟の町が広がっているだけでした。
これを見た人々は絶望状況にありました。
そのような人々に、第三イザヤは、その荒れ廃れた町が再建される、と預言
したのです。
しかし、それを聞いた人々は、果たして信じたでしょうか。
恐らく多くの人は、信じなかった、否信じられなかったのではないでしょう
か。
大体の人は、自分の生活で精一杯でした。
しかし、第三イザヤは、荒れ廃れたエルサレムの町が、再建されて昔のよう
に繁栄するということを確信していました。
11節には次のようにあります。
地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、
主なる神は義と誉とを、
もろもろの国の前に、生やされる。
ここで第三イザヤは、神の約束が確実である、ということを自然界の観察か
ら述べています。
冬は死んだようになっている自然界も、春が来れば、地から芽が出来ます。
これは非常に不思議なことですが、また確実なことでもあります。
それと同じように、ひどい廃墟の町が、再建されるということは、考えられ
ないことですが、神が約束するならば、それは確実に成就されるのです。
現実は、悲しみの現実であり、人間の目にはそれが好転するとは思われなく
ても、神はそれを喜びに代えることができるのです。
そのような約束を神は私たちになすのです。
そのような、悲しみを喜びに代える神の約束を、私たちも信じるものであり
たいと思います。
信仰とは、未来に希望を持つことです。
神の約束は確実であることを信じ、私たちも未来に望みを持ち続けるもので
ありたいと思います。