2008年3月23日     伏見東教会朝
       ヨハネによる福音書20章1−10節  「イエスの復活」
 
 今日は、キリストの復活を記念するイースターです。
主が復活されたことを皆で喜び祝いたいと思います。
先ほどお読みしましたヨハネによる福音書20章1節には、次のようにあり
ます。
 
  さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが
  墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
 
一週の初めの日」というのは、日曜のことです。
イエスの復活は日曜の早朝に起こりました。
そこで、それまで安息日は土曜日だったのですが、初代教会ではイエスの復
活を記念して、日曜日に礼拝が行われるようになりました。
この日曜の朝の出来事は、4つの福音書すべてに記されていますが、その記
事は少しずつ違っています。
このヨハネによる福音書では、最初に墓に行ったのは、マグダラのマリヤだ
けですが、マタイによる福音書では「マグダラのマリヤとほかのマリヤ」の
二人となっており、マルコによる福音書では週報の裏にあるように「マグダ
ラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ」の3人であるし、ルカによる福音
書では「マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤ」の3人となって
います。
どの記事が正しいのかはもはや分かりません。
ただ、いずれの福音書も、最初に墓に行ったのは、女性だけであり、男の弟
子たちは行っていません。
そして、マグダラのマリヤはすべての福音書に含まれており、確かのようで
す。
マグダラというのは、地名です。
ですから、「マグダラのマリヤ」というのは、マグダラ出身のマリヤという
ことです。
このマグダラは、ガリラヤ湖の西岸の町で、古くから漁港として栄えた所です。
私達もイスラエル旅行をした際、この町もバスで通りました。
 このマグダラのマリヤは、かつて重い病気を罹っていたところをイエスに
よって癒されました。
マルコによる福音書16章9節には、「イエスは以前に、この女から七つの悪
霊を追い出されたことがある。」と記されています。
この「七つ」というのは、数ではなく、悪質の病のことを言っているようで
す。
彼女は、重い病気をイエスによって癒されたことから、イエスに対する深い
敬愛の念を抱いていたようです。
そして、イエスが十字架にかけられたときも、最後まで見守っていました。
そして、アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を埋葬したときも、恐らく見守
っていたでしょう。
そして、安息日が終わるや否や、墓に真っ先に行きました。
ここに彼女のイエスを思う思いが窺われます。
しかし、彼女は、何をするために墓に行ったか、記されていません。
マルコによる福音書の記事によりますと、マグダラのマリヤとヤコブの母マ
リヤとサロメとが墓に行っていますが、それはイエスの体に防腐用の香料を
塗るためでした。
この当時の埋葬の習慣として、まず遺体を洗い、防腐用の香料を塗り、亜麻
布に包み、手足を布で巻き、顔を顔覆いで包みました。
そしてマルコの方の記事では、金曜の夕方急いで埋葬したので、防腐用の香
料が塗られていなかったようです。
しかし、ヨハネの方の記事では、19章39節にニコデモが香料を用意し、
それを塗った、とあります。
 そこで、20章1節のマグダラのマリヤは、香料を塗るために墓に行った
のではなく、自然と墓に足が向いたということでしょう。
あるいは、その背後に、復活の主と出会わせるために、神の力が働いたので
しょうか。
私達も日曜になると、おのずと足が教会の方に向かっています。
これもやはり、神の力、聖霊の力が私達の背後に働いているからではないで
しょうか。
 さて、マグダラのマリヤが墓に到着して見たものは、何かというと、墓の
入り口をふたしていた大きな石が動かされていた、ということでした。
この石は、大人が3〜4人で動かさないと動かないような大きな石であった
ということです。
マタイのテキストを見ますと、「大きな地震が起こった」と合理的な説明が
なされています。
しかし、他の福音書には、地震のことは何も言われていません。
ここでマリヤは、墓に到着して、墓の入り口をふたしていた石が動かされて
いたのを見ただけで、すぐ引き返したのです。
マグダラのマリヤは、冷静な理性的な人ではなかったようです。
何をしようというきちんとした目的もなく、朝早く墓にやって来て、墓の石
が動いているのを見て、墓の中を確かめもせず、慌てて走って引き返したの
です。
 ここでマリヤはしかし、何か分からないが、ただならぬものを感じたので
しょう。
何かただならぬことが起こっている、と感じたのでしょう。
しかし何が起こったのかを冷静に確かめてはいません。
すぐさま引き返しています。
非常に感覚的です。
しかし、この感覚的なことは、信仰にとって非常に重要な要素です。
モーセは、シナイ山で燃えている柴を見付けて、それにただならぬものを感
じて、山に登り、神に出会いました。
使徒行伝2章43節を見ますと、初代教会の人たちは、恐れが生じた、とあ
ります。
これらは感覚的ですが、信仰はこのような感覚的な面も重要です。
 さて、マグダラのマリヤは、ただならぬものを感じ、まずペテロの所にそ
れを伝え、次にもう一人の弟子の所に行って伝えました。
2節には、次のようにあります。
 
  そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとり
  の弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去
  りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
 
マリヤの感は非常に鋭く、墓の中を確かめた訳ではなかったのに、墓の中に
イエスの遺体がなかった、と言っています。
もう一人の弟子は、名前が言われていません。
ヨハネによる福音書には、「イエスの愛しておられた弟子」というのが何度
か出ます。
例えば、イエスが十字架上からご自分の母を託されたのが「愛弟子」と言わ
れています。
このイエスの愛しておられた弟子というのは、伝統的には、使徒ヨハネだと
解されています。
しかし、はっきりしたことは分かりません。
 さて、ペテロともう一人の弟子は、マグダラのマリヤからお墓のことを聞
き、大急ぎで走って行きました。
もう一人の弟子の方が、先に墓に着きましたが、彼は中に入らずに、外から
中を覗いて、遺体を包んでいた亜麻布が置かれているのを確認しています。
しかし、後から走ってきたペテロは、躊躇せずに、墓の中に入り、体を包ん
でいた亜麻布と顔をおおっていた亜麻布が別々に置かれていることを確認し
ました。
記者はここで、このように細かく確認することによって、遺体が決して盗ま
れたものではないことを、はっきり弁明しようとしています。
 8節には、次のようにあります。
 
  すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て
  信じた。
 
もうひとりの弟子、すなわちイエスの愛しておられた弟子は、墓に入り、見
て、信じたとあります。
何を信じたのかは分かりません。
ペテロの方は、信じたとは言われていません。
ここでイエスの愛しておられた弟子が、信仰の人であることが言われていま
す。
イエスは、この弟子を信仰のゆえに愛されたのかも知れません。
イエスは、トマスにも「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言
われました。
20章27節には、次のようにあります。
 
  それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を
  見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない
  者にならないで、信じる者になりなさい」。
 
 ここでイエスの愛しておられた弟子は、「イエスが復活された」というこ
とを信じたのかどうかは分かりません。
9節には、
 
  しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした
  聖句を、まだ悟っていなかった。
 
とあります。
しかし、イエスの身に何か不思議なことが起こった、ということを信じたの
です。
そして、その背後に神の働きを信じたのです。
キリストの復活を信じる場合、私達はまず信じる心が大切です。
勿論、何を信じているかという信仰の内容をはっきりさせるということは大
切です。
しかし、その前に信じる心がなければなりません。
そして、その信じる心に御言が訴えかけて、信仰理解が深まるのです。
9節に、「死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句」と
あります。
この聖書の言葉を悟るには、信じる心が必要です。
 新約聖書は、主イエス・キリストの復活を証言する書です。
使徒行伝2章32節において、ペテロが最初に説教したものが載っています。
 
  このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人
  なのである。
 
新約聖書で、キリストの復活が証言されているのに、私達に信じる心がなけ
れば、それは復活の理解にはなりません。
 私達は聖書を読み、そしてそれが深い理解になるためには、マグダラのマ
リヤのような恐れの念、イエスの愛しておられた弟子のような信じる心が必
要です。
そういう心をもって聖書を読み、また聖書の説き明かしを受けるときに、深
い信仰理解へと導かれるのです。
特に「復活」というのは、超自然的な出来事で、私達の理解をはるかに越え
たものです。
神に対する恐れ、また神の働きに対する信じる心をもって御言に導かれて、
「復活の信仰」へと至りたいと思います。