2008年3月9日     室町教会朝の礼拝
     コロサイの信徒への手紙2章6−15節 「キリストに結ばれて」
 
今日は、室町教会の皆さんと共に礼拝できることを感謝します。
今はレント(受難節)の時であり、キリストのご受難を覚えて礼拝を守りた
いと思います。
そして、キリストの苦難の意味を考えたいと思います。
お読みいただきました、コロサイの信徒への手紙2章節には、次のようにあります。
 
  あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリス
  トに結ばれて歩みなさい。
 
ここで「主キリスト・イエスを受け入れた」とあります。
これはキリスト者の最も基本的なことです。
私達は、イエス・キリストの信仰を私達自身が獲得したのではなく、受け入
れたのです。
すなわち、教会の信仰を受け入れたのです。
コロサイの人々は、元々キリスト教とは関係のない、ギリシアの宗教を崇拝
していた人々でした。
しかし彼らはあるとき、パウロの弟子のエパフラスという人の伝道によって、
キリストを受け入れたのです。
 私達が洗礼を受ける時、信仰告白を致します。
しかし信仰告白は、私達が作ったのではありません。
教会に伝えられて来た伝統的な信仰告白を受け入れたのです。
そういう意味では、信仰は主観的なものではありません。
教会は、初期の教会が告白した信仰を代々受け継いできているのです。
その最も基本的な信仰告白は、使徒信条です。
私達の教会では、この使徒信条と日本基督教団の信仰告白を受け入れて洗礼
を受けるのです。
それゆえに、この信仰告白が私達の信仰の基本です。
 そしてここでパウロは、「キリストに結ばれて歩みなさい」と勧めていま
す。
ここで「キリストに結ばれて」と訳されている語は、原語では「彼にあっ
て」という語です。
これはパウロのよく用いる用法です。
パウロは、キリストによって救われてからは、キリストと無関係には生きな
かったのです。
「キリストにあって生きた」のです。
ガラテヤの信徒への手紙2章20節には、次のようにあります。
(P.345)
 
  生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内
  に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わ
  たしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰による
  ものです。
 
ここでパウロは、「キリストがわたしの内に生きておられる」と言っていま
す。
これはしかし、キリストと一体になるという神秘体験を言っているのではあ
りません。
キリストに信頼し、キリストに心から従って生きるということです。
回心後のパウロにとって、キリストと無関係の生活は考えられないのです。
私達も、キリストを受け入れたのですから、キリストと無関係には生きられ
ないのです。
私達の生涯は、キリストと密接に関係しているのです。
まさに、「キリストに結ばれて」生きているのです。
そして私たちが、「キリストに結ばれて生きる」ならば、そこに希望があり、
力があり、命があるのです。
 7節には次のようにあります。
 
  キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっ
  かり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
 
信仰は、しっかりとした土台の上に築かなければ、崩れ去ります。
ここで「キリストに根を下ろし」とあるように、勿論土台はキリストです。
教会の土台も勿論キリストです。
いくら立派な建物があっても、そこに大勢の人々が集まっても、すばらしい
パイプオルガンが演奏されていても、もしキリストを土台としていなけれ
ば、それは真の意味での教会とは言えません。
私達の会堂を建築する際も、そのことを一番大切に考えました。
私達の会堂の土台は非常にしっかりしています。
普通の建物の土台よりは2倍位の厚いコンクリートを打っています。
ですから少々の地震にはびくともしないと思います。
しかし、教会の真の土台は信仰です。
ですから、基礎にコンクリートを流す時に、まずそこに聖書を埋めました。
ちょうどこの講壇の真下に当たるところに、聖書が埋められています。
これは、この会堂はキリストを土台にするという私達の信仰を表したもので
す。
 旧約聖書においては、堅固な土台をしばしば「岩」で表現しています。
例えば詩編18編3節には、
 
  主はわたしの岩、砦、逃れ場
  わたしの神、大岩、避けどころ
  わたしの盾、救いの角、砦の塔。
 
と言われています。
また、主イエスも、マタイによる福音書7章の山上の説教において、砂の上
に家を建てた愚かな人と、岩の上に家を建てた賢い人の話をしています。
私達の信仰も、堅固な岩であるキリストを土台とするならば、意義のある人
生、実りのある人生、また喜びと感謝の人生を送ることができるのではない
でしょうか。
8節の所では、
 
  人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人
  のとりこにされないように気をつけなさい
 
とあります。
キリストの言葉は堅固な土台ですが、人の言い伝え、人の言葉はしばしばは
かないものです。
「むなしいだまし事」とあるように、しばしば私達を欺きます。
昨年の漢字日本一は、「偽り」という時でした。
以下に人の言葉が偽りに満ちているかと言うことを私たちは実感しました。
世間の声は、しばしば無責任で、私達を失望させます。
薬害エイズで尊い命を奪われた岩崎孝倫君のお母さんが、この室町教会で遺
作展をした時に、言っておられました。
血友病であった息子に血液製剤を打つのは、不安であったそうです。
しかし、医者は、「エイズになるのは、宝くじに当たるほど確率が少ない」
と言ったそうです。
その言葉を信じて、岩崎さんは血液製剤を打ち、その結果HIVに感染して、
貴い命を奪われたのです。
人間の言葉というのは、はなはだいいかげんなものなのです。
バビロニア捕囚という非常に苦しい生活を強いられていた民に、第二イザヤ
という預言者は次のように言いました。(イザヤ書40章8節)
 
  草は枯れ、花はしぼむ。
  しかし、われわれの神の言葉は
  とこしえに変わることはない。
 
草が枯れ、花がしぼむように、人間の言葉は、はかないものです。
しかし、神の言葉は、堅固な岩のごとく、私達を欺くことはないのです。
私達は、この堅固な土台である、とこしえに変わることのない、神の言葉に
信頼するものでありたいと思います。
 そしてパウロは、「信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさ
い」と勧めています。
堅固な土台であるキリストを信仰する生活は、また感謝の生活なのです。
何事にも感謝をすることのできる生活は、幸せだと思います。
そしてこれは、たとえ状況が悪くても感謝できる人は幸せです。
三浦綾子さんは、病気をも神から与えられた賜物と捉えました。
彼女の随筆に『このをも賜物として』というのがあります。
人生においてうまく行かないこと、失敗することも多くあります。
しかしそれをつぶやく生活から、その中にあってなお恵みを覚えて感謝する
生活へと転換させるのが信仰です。
キリストを土台として生活するならば、たとえ試練の中にあっても、感謝す
ることができるのです。
それは、キリストこそ、そのような試練の中にある人を真に助けることがで
きるからです。
ヘブライ人への手紙2章18節には次のようにあります。(P.403)
 
  事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人
  たちを助けることがおできになるのです。
 
 今日のテキストの12節に、
 
  洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から
  復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
 
とあります。
ここでパウロは、洗礼のことを言っています。
「キリストに結ばれて歩む」歩みの出発になっているのは、洗礼です。
この「キリストの結ばれて」というのは、決して形式的なものではありません。
それは、古い罪の自分に死んで、キリストによる新しい命に入れられた、と
いうことなのです。
パウロは、ローマの信徒への手紙6章4節で、次のように言っています。
(P.281)
 
  わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあず
  かるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の
  中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなの
  です。
 
洗礼は、キリストの復活に与ることです。
復活は、何よりも大いなる力、何にもまさる希望です。
なぜなら、いかなる人間も、死を克服することはできないからです。
ですから復活は、この世でどんなに成功することよりも大きな力であり、希
望です。
私達は、何よりも大きな力と希望に与っているのです。
たとえこの世的に成功していなくても、どんなに惨めな状態にあろうとも、
復活に与るならば、最も大きな幸いに与っているのです。
パウロはここで、「洗礼によって、キリストと共に復活させられたのです」
と過去形で言っています。
私達は、洗礼において、既にキリストの復活に与ったのです。
何よりも大いなる希望に与ったのです。
ですから、たとえどんな状況に陥ったとしても、落胆する必要はないので
す。
喜びと感謝なのです。
 13−14節。
 
  肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリス
  トと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦
  し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、
  これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
 
ここで「不利に陥れていた証書」というのは、借金の証書のことです。
主イエスは、マタイによる福音書18章において、一生かかっても返すことのできない莫大な借金を許してもらった家来の譬話をしています。
私達の罪は、それほど大きいのです。
もはや自分の力で、この罪の問題を解決することはできないのです。
しかし、パウロは、神がその莫大な借金の証書を破棄し、取り除いて下さっ
た、と言います。
そしてそれは、「十字架に釘付けにして」とあるように、キリストの十字架
によってなされたのです。
私達は、この自分で解決できない大きな罪を、キリストの十字架によって贖
われたのです。
ここに神の大いなる恵みがあります。
私達は、この神の大いなる恵みに与っているのです。
私達はこのことを覚え、レントの時をキリストに結ばれて歩む者となりたい
と思います。