2008年3月2日 伏見東教会
ヨハネによる福音書12章1−8節 「信仰の行い」
キリスト教の暦では、2月6日から「レント(受難節)」に入っています。
イースター前の4週間ですが、この時期私たちは、キリストの受難を覚え
つつ日々を過ごします。
そこで今日は、一人の女性がイエスの死の葬りの用意をしたという物語を
学びます。
今日の物語は、4つの福音書全部に記されています。
しかし、その記事の内容は、少しずつ違っています。
ヨハネによる福音書では、ナルドの香油を主イエスに注いだのは、マリアと
なっていますが、マタイによる福音書とマルコによる福音書では「一人の
女」となっていて名前は記されていません。
またルカによる福音書では「罪の女」となっています。
また、これが行われた家は、ヨハネによる福音書では「マリアの家」である
と思われますが、マタイによる福音書とマルコによる福音書では「らい病人シ
モンの家」と書かれており、ルカによる福音書では「ファリサイ派シモンの
家」と書かれています。
また、油を塗ったのは、ヨハネによる福音書とルカによる福音書では「イエ
スの足」ですが、マタイによる福音書とマルコによる福音書では「イエスの
頭」となっています。
どれが元の話であったかは分かりませんが、実際にあった出来事で、非常に
印象深かったので、すべての福音書に伝えられたと思われます。
1節。
過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエス
が死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
ベタニヤは、エルサレムのすぐ隣の村で、そこにはマルタ、マリア、ラザロ
の家がありました。
少し前に、主イエスは、ここでラザロを生き返らせました。
今日の出来事が起こったのは、過越の祭の六日前であった、とあります。
13節を見ますと、次の日がしゅろの主日なので、ちょうどエルサレム入城の
前日、すなわち主イエスが十字架にかけられる一週間前ということになりま
す。
2節。
イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イ
エスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
マルタ、マリア、ラザロの兄弟の家にイエスが招待され、食事が出されたの
でしょう。
死んだはずのラザロが復活したので、喜びの宴会であったかもしれません。
ここでも、一番姉のマルタが給仕役をしていました。
ルカによる福音書10章の所でも、以前にイエスは、マルタ、マリアの姉妹
の家に行った時、やはり姉のマルタが忙しく接待をした、とありました。
しかし、妹のマリアは、イエスの話ばかりを聞いて少しも手伝わないので、
マルタが不平を言った、という記事がありました。
その時、主イエスは、「無くてならぬものは多くはない。マリアはその良い
方を選んだのだ」と言われました。
マリアは少し変わり者であったようです。
お客が来て、家の者が一生懸命働いているなら、普通なら自分も手伝わずに
はおれない、と思います。
しかし、マリアには、忙しく立ち働いている姉の姿は目に入らず、ひたすら
イエスの話を聞いていたのでした。
このようなことは、常日頃からいろいろあったのでしょう。
そしてマリアは、少し変わった女だ、と人々から思われていたのではないで
しょうか。
このような変わり者は、世間の人には余り理解されず、誤解されることもし
ばしばあったでしょう。
しかし彼女は、純真な気持ちの持主でした。
また、子供のように素朴であったようです。
周りの人がどう思うか、世間の常識はどうか、というようなことは余り考え
なかったようです。
このような人は、大人の世界では、余り理解されたり、評価されたりしませ
ん。
純粋な信仰の持主は、しばしば、周りから誤解されることがあります。
しかし、主イエスは、その純粋な信仰をご覧になるのです。
「マリアはいい方を選んだのだ」と言われました。
今日の所でも、マリアは変わった行動を取ります。
3節。
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエス
の足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家
にいっぱいになった。
このナルドというのは、元々はサンスクリット語から来ています。
ヒマラヤ原産のナルドという植物で、この根から取れる香料が、とてもよい
香りを放ちました。
そこで、特に大切なお客様が来た時に、このナルドの香油を頭から注いだ、と
言われています。
貴重な香油を沢山注ぐのは、常識はずれでしょう。
この当時の習慣として、特に大切なお客様には頭に少し注いだのですが、マ
リアは足に、しかも1斤を全部注いだのです。
周りの人はあっけに取られたと思われます。
変わり者のマリアが、またとんでもないことをしでかした、と思ったかもし
れません。
しかし、彼女の姉弟であるマルタとラザロは、これに対して何も言っていま
せん。
恐らく、マリアは普段から少し変わったことをすることがあったので、それ
ほど驚かなかったのかもしれません。
マタイによる福音書の記事を見ますと、イエスの弟子たちが憤った、とあり
ます。
一般の人にとっては、マリアの行動は、非常識極まりない行動に写ったでし
ょう。
ヨハネによる福音書では、マリアの行動を非難したのは、イスカリオテのユ
ダでした。
ここで、マリアとイスカリオテのユダとは、全く対照的な人物として登場し
ます。
マリアは非常に情熱的であるのに対して、ユダは理性的で冷静です。
イスカリオテのユダは次のように言います。
5−6節。
「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかった
のか」。
ユダは、「なぜ」と問います。
問うというよりは、詰問です。
ユダには、マリアの行為が全く理解できなかったのです。
マリアにはこの世の常識というものが欠けていましたが、ユダはこの世のこ
とにたけていました。
6節には、彼は集団の財布を預かっていた、とあります。
即ち、イエスの集団の会計係を任されていたのです。
それは、ユダが、この世のことに、特に金銭のことにたけていたからでしょ
う。
彼は、マリアのもって来たナルドの香油が一見して、三百デナリの値打のあ
るものだ、ということをすぐに計算しています。
デナリというのは、当時の労働者の一日の賃金に相当しましたから、この香
油は、一年分の賃金に近い値です。
そんな高価なものを一瞬のうちになくしてしまうのは、何とも非常なる浪費
ではないか、とユダは理性的な判断をしています。
それ位なら、それを売って、貧しい人に施した方がどれだけいいか分からな
い、とユダは言うのです。
これはいかにも合理的で、常識的な考えです。
それに比べると、マリアの行為は、はなはだ非合理で、非常識な行為です。
しかし、信仰には、この非合理的、非常識なことがつきものです。
信仰にとって、時には、合理的な考え、常識的な考えを捨てなければならな
いこともあります。
ユダは、合理的、常識的な考えから、とうとうイエスについて行くことがで
きずに、イエスを裏切り、イエスを銀30枚で売ってしまったのです。
自分の尊敬していたはずのイエスを、お金に換算しているのです。
イエスを銀30枚で売るという行為が、既にこのマリアの行為を非難したと
ころで始まっています。
マリアは、イエスに対する一途な信仰がありました。
主なるイエスのためなら、何を捧げても惜しくはなかったのです。
高価なナルドの香油を買うためには、どれ位お金をためなければならないの
か、というようなことを冷静に考えたりはしなかったのです。
ただ、主なるイエスのために、一番大切なものを捧げたい、という純粋な気
持ちから、いわば急に思い立って、そのような行為に出たのです。
香油をイエスの足に塗った所、そのいい香りが家一杯に広がった、マリア
はそれだけで満足だったのです。
何年分の貯金が一瞬にして消えてしまった、といった惜しい気持ちは全然な
かったのです。
このマリアの行為は、ユダだけでなく、周りの人にも理解できなかったでし
ょう。
しかし、ただ一人主イエスだけは、このマリアの行為を理解しました。
7−8節。
イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの
葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつ
もあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
主イエスは、非常識だと咎めるのでなく、「この人のするままにさせておき
なさい」と言われました。
同じようなことは、子供を祝福した時にもありました。
すなわち、主イエスがある家で、人々に非常に重要な話をしている時に、突
然子供たちがイエスの所に近付いたのです。
主イエスの弟子たちは、こんな大切な話をしている時に邪魔をしてはいけな
い、ときつく叱ったのです。
しかし主イエスは、ここでも「子供たちを来るままにさせなさい」と言われ
ました。
ここでマリアも、大人の目から見れば、子供のような非常識な態度でした。
しかし主イエスは、ここでマリアの純粋な信仰を高く評価しています。
そのマリアの純粋な信仰のゆえに、マリアをかばっているのです。
マリアは、イエスの葬りのためにナルドの香油を足に塗ったのではないでし
ょう。
むしろ、十分な考えもなく、なかば思い付きで、主なるイエスに最も大切な
ものを捧げたいという気持ちから、この行為に出たのでしょう。
そのために、ユダから咎められた時、何の反論もできませんでした。
周りの視線も、マリアを咎めていたでしょう。
マリアはどうしていいか分からなかったかもしれません。
そのとき、イエスが守ってくれたのです。
イエスも、マリアの行為は、十分な考えから出たものでない、と思ったか
もしれません。
イエスは、ある場合には、例えば富める青年には、「あなたの財産を売っ
て、貧しい人に施しなさい」とここでユダが言っているのと同じことを言い
ました。
しかしここでは、そのように言ったユダに反論しています。
それは、主イエスが、その人の行為が純粋な信仰から出ているかどうか、と
いうことをよく見ておられるからです。
確かに、マリアの行為は、少し考えが足りなかったかも知れません。
ユダの言うように、それを売って貧しい人に施した方が、よかったかも知れ
ません。
しかしマリアは、主イエスに対する純粋な信仰から、この行為に及んだので
す。
主イエスは、表面的な行為をご覧になったのでなく、その信仰をご覧になっ
たのです。
そして、その行為を、ご自分の葬りの備えだと、受け取られたのです。
マタイによる福音書とマルコによる福音書では、主イエスは、次のように言
っています。
よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所で
は、この女のした事も記念として語られるであろう」。
そして、実際に、このマリアの行為は、今も世界中の教会で語り継がれてい
るのです。
キリストは、私達の心をご存じです。
詩篇七篇九節には、
あなたは人の心と思いとを調べられます。
とあります。
純粋な信仰からする場合、たとえ世間的には非常識であっても、キリストは
それを分かって下さるのです。
そのために私達が不利な立場に立たされても、私達をかばって下さり、私達
を守って下さるのです。
逆に、表面的には立派なことであっても、もし私達に下心があれば、それも
キリストはご存じです。
ここでもユダは、香油を売って貧しい人に施しなさい、と一見立派なことを
言っていますが、これは自分が金入れの中身をごまかしていたのを、イエス
はちゃんと見抜いておられたのです。
そこで、表面的には立派な意見と思われるユダを評価しないで、表面的には
非常識だと思われるマリアの行為を評価したのです。
私達も、私達の行為が、キリストに対する純粋な信仰から出たものでありた
いと思います。
そうであれば、たとえ世間からは誤解されても、キリストが私達を守って下
さるでしょう。