2008年1月6日 伏見東教会朝拝
ローマ人への手紙6章1ー4節 「新しいいのちに生きる」
今日は2008年の最初の礼拝です。
昨年一年間私達は、神の恵みのもとに過ごすことが出来たことを感謝すると
共に、この新しい年も神の恵みのうちに過ごすことが出来るように祈りたい
と思います。
新年をお祝いするという習慣は、どこの国にもあります。
新しい年を迎えて、新たな気持ちと決意をもってスタートするということは
大切なことではないでしょうか。
しかしその新たな気持ちとか決意というのは、どのようなものでしょうか。
日本でも多くの人は、新たな気持ちをもって初詣でに出掛けます。
今年は天候にも恵まれ、実に多くの人が初詣でに出掛けた、ということです。
しかし、何のために初詣でに行くのでしょうか。
多くの人は、神社に自分の願いごとを祈りに行くのではないでしょうか。
初詣の人へのインタビューでも、「何をお願いしましたか」という質問が多い
ですし、答える人も、「商売がうまく行くようにお祈りしました」とか「受験
に合格するようにお祈りしました」とか言っていました。
すなわち、自分の願いごとを祈ることから新しい年を始めているのです。
古代イスラエルにおいても、新年のお祭りはありました。
そして彼らは、どのような新たな気持ちと決意をなしたのでしょうか。
彼らが新年のお祭りの時に歌ったと思われる歌が詩篇に残っています。
しかしそれは、そのような自分の願いごとを祈るというのとはかなり違って
います。
例えば、詩篇96篇1ー3節(P.834)
新しき歌を主にむかってうたえ。
全地よ、主にむかってうたえ。
主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。
日ごとにその救いを宣べ伝えよ。
もろもろの国の中にその栄光をあらわし、
もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
古代イスラエルにおいては、新年にはまず、自分の願いごとからではなく、
主をほめたたえることから始めているのです。
それは、この主なる神こそが、私達人間にいのちを与え、救いをもたらして
くださるからであります。
それゆえに、年の始めにはまず、この神の恵みに感謝をささげ、この神を褒
めたたえ、新たな気持ちをもってこの神に仕えていくという決意を表したの
です。
私達もまず、神をほめたたえることからこの年を始めたいと思います。
そして新たな気持ちをもって主に仕える1年間であることを決意したいと思
います。
私達キリスト者が新たな気持ちを持つというとき、受洗の時の気持ちに戻
ることではないでしょうか。
初心に帰るということがありますが、私達キリスト者の初心は、受洗のとき
ではないでしょうか。
今日のテキストにおいてパウロは、そのバプテスマのことを述べています。
4節。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と
共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の
中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生
きるためである。
ここでパウロは、バプテスマによって古い私達がキリストと共に葬られ、新
しいいのちに生かされた、ということを言っています。
洗礼というのは、正にそのような意味をもつ象徴的な行為です。
ギリシア語でバプテスマは「水につける」という意味ですが、初期の教会に
おいては、洗礼の時は文字通り水につけられたのです。
これは、古い自分が死んで水に埋葬されるということを意味しました。
しかし、古い自分に死ぬということは、それと同時に神の栄光と力によって
実現したキリストの復活に与ることでもあります。
キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、私達
もまた新しいいのちに生きることが出来る、とパウロは言います。
言葉を替えて言えば、罪に対して死んで、新たないのちに生かされた、と
いうことです。
洗礼というのは、見方によれば、何の意味もない、ただの形式のようにも思
えます。
また、何かいかめしい儀式に過ぎないようにも思えます。
洗礼を受けたからと言って、その人が急に変わる訳でもありませんし、他の
人とは違った特別な体験をするという訳でもありません。
表面的には何ら変わることはありません。
それでは、洗礼というのは、単なる形式なのでありましょうか。
決してそうではありません。
それは、一つの象徴的な行為なのです。
象徴行為というのは、単なる人間の行為ではなく、そこにおいて神の言葉と
神の力が働く行為なのです。
私達プロテスタントでは、この洗礼と聖餐がサクラメント(聖礼典)ですが、
両者とも、単なる形式的・魔術的な儀式ではなく、そこで神の言葉と神の力
が私達に働きかける象徴行為なのです。
私達の目には、そこに変化や神の力を認めることが出来ないかも知れませんが、
そこで神によって新たな変化が起こっているのです。
聖餐式も、私達はそこでパンを食べ、ぶどう酒を飲む訳ですが、この行為に
おいてキリストの肉と血に与っているのです。
このように内面に働いている力を認めるのが信仰者の生き方なのです。
洗礼の時、私達の目には分かりませんが、そこで大きな変化が起こっている
のです。
すなわち、罪に汚れた古い自分がキリストと共に十字架につけられ、新しい
いのちに生かされたのです。
そしてこれは、私達が自らの決意や努力で変わったのではなく、神によって
変えられたのです。
これを受け入れ、信じつつ生きるのがキリスト者の生き方です。
新しいいのちに生かされていると信じ、感謝と喜びをもって生きるのがキリ
スト者の生き方です。
キリスト者になったのだから、ひとつ努力目標を決めて立派な人にならな
ければならない、というのでなく、既に新しくされたのです。
私達が努力をして、新しくなっていくというのでなく、神の働きによって既
に新しくされたのです。
今既に恵みの下に生かされているのです。
今既に恵みの下に生かされていることを信じて、喜びをもって生きているの
がキリスト者の生き方です。
しかし私達は、新しいいのちに生かされていながら、ややもすると再び古
い自分に戻ってしまうことがあります。
罪から解放されていながら、再び罪に戻ってしまうことがあります。
私達はそのような弱い存在です。
古い私達は罪の支配の下にあるものです。
罪の支配というのは、神の意志にではなく、自分の欲に従って生きることです。
罪というのは、人間がその創造者である神から離れて生きること、神の意志
に逆らって生きることです。
人間が自分の欲に従って生きるとき、神の意志をないがしろにし、神から離
れてしまうのです。
創世記の記者は、このような神から離れ、罪に落ちて行く人間の姿を「楽園
物語」という形で言い表しました。
創世記3章の記事で、誘惑する蛇は、人間の欲に働きかけて人を神から離そ
うとしました。
すなわち、禁断の木の実を食べると神のように賢い者となる、と。
ここでこの女は、神に従うよりも、神のようになりたいという自分の欲に従っ
て、木の実を食べたのでした。
悪魔は常に、私達の欲に働きかけて、私達を神から引き離そうとします。
荒野においてイエスを誘惑した悪魔も、そのように人間の欲に働きかけて
イエスを神から引き離そうとしました。
すなわち、第一の誘惑は、「石をパンに替えよ」というものでした。
40日間断食をしていたイエスにとって、パンを食べるという欲は最も大き
なものであったでしょう。
そしてこれは、パンに代表される物質でもあります。
人間の最も大きな欲は、物質欲かも知れません。
この悪魔は、まず最初にイエスにこの物質欲で試みたのでした。
次の誘惑は、「神殿の屋上から下に飛び下りよ」というものでした。
これは高い所から飛び下りても助かるなら、英雄として称えられるというこ
とで、名誉心です。
人間は、この名誉欲にも弱いものです。
人から崇められたい、人から称賛を得たい、という欲です。
悪魔のその次の誘惑は、「全世界の繁栄をイエスにあげよう」というものでし
た。
これは支配欲で、これも人間皆もっている欲です。
このように悪魔は、人間のもっている最も大きな欲に働きかけて、イエスを
神から離そうとしたのです。
しかしイエスは、そのすべてに、聖書のみ言葉をもって悪魔の誘惑を退けら
れました。
ここで、イエスが悪魔の誘惑に聖書の言葉をもって退けたということが重要
です。
すなわち、悪魔の誘惑に立ち向かうには、人間の知恵や力では太刀打ちする
ことが出来ず、ただ神の言葉だけである、ということです。
古い私達は、このような人間の欲に従って生きて来たものです。
これらの欲はすべて、神をないがしろにするものです。
物質に頼ることによって、神に頼ることをしない。
自分が崇められることによって、神を崇めることをしない。
自分が支配する事を求め、神の支配を認めない。
しかし、そのような古い私達は、キリストと共に十字架につけられたのです。
そして罪から解放されたのです。
そして新しいいのちに生かされたのです。
この「新しいいのち」というのは、「古い生き方」と対照的に言われています。
古い生き方が、自分の欲に従って生き、そのために神から離れてしまう、神
に逆らって生きるのに対し、「新しいいのちに生きる」というのは、神の意志
に従って生きる、神との関係において生きる、ということです。
そして、古い人に死んで、「新しいいのちに生きる」というのは、既にバプテ
スマのときに私達に与えられたものなのです。
これは私達の目にははっきりとは分かりませんが、これを信じて受け入れる
のが信仰です。
そしてこれが神から与えられている恵みです。
この神の恵みに応えて、神に従って生きていきたいと思います。
そして、神の恵みを確認していくのが、聖日毎の礼拝です。
聖日毎の礼拝を大切にし、神の恵みを確認し、常に「新しいいのちに生かさ
れている」喜びと感謝をもつ一年でありたいと思います。
年頭に当たって、この「新しいいのちに生かされている」ことを新たに認識し、
新たな思いをもって神に従っていく一年でありたいと思います。