2007年12月2日      伏見東教会朝の礼拝
     イザヤ書9章1−6節      「平和の君」
 
 アドベントに入り、主のご降誕を待ち望みつつ礼拝を守りたいと思います。
今日は、「平和の君」の誕生を予言したイザヤの預言を学びます。
預言者イザヤは、紀元前8世紀、主イエスが生まれるより700年以上も前に、
ユダの国で活躍した預言者です。
今日のテキストは、そのイザヤの預言でも最も有名な「メシア預言」と言わ
れているものです。
6節を読みます。
 
  ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわ
  れに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、
  大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
 
ここでイザヤは、「平和の君」と呼ばれる一人の男の子の誕生を予言しています。
しかし、この「みどりご」とは一体誰なのでしょうか。
イザヤの時代に実際に生まれた子供のことなのでしょうか。
ある学者によると、これは紀元前728〜700年に、ユダの国を治めたヒ
ゼキヤという王様の誕生のことだ、と言います。
しかし、多くの人は、これはその当時の実際の王様ではなくて、やがて来る
であろう理想的な王、すなわちメシアの誕生の予言だ、と言います。
そこで、この預言は、一般に「メシア預言」と言われています。
新約聖書では、これが「イエス」の誕生の予言である、と解釈されました。
それゆえに、クリスマスの時期によく読まれるのです。
 しかし、今一度、イザヤの時代のことを考えたいと思います。
1節には次のように記されています。
 
  しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの
  地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨ
  ルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
 
ここに「はずかしめを与えられた」とあります。
イザヤの活躍した紀元前8世紀は、アッシリア帝国の勢力が大きくなって、
回りの国々が脅かされた時代です。
アッシリアのティグラト・ピレセルという王は、紀元前734年と732年
の2回にわたって、イスラエルを攻め、先程のゼブルン、ナフタリ、ガリラ
ヤの地方を蹂躙したのです。
はずかしめを与えられた」というのは、そのことを言っています。
イスラエルは、アッシリアと戦争をしようと思ったのでもなく、またそのよ
うな力もありませんでした。
ただ、ティグラト・ピレセルの権力欲の犠牲になっただけです。
その少し前の8章21節にその時の状況が記されています。
 
  彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを
  放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。
 
ガリラヤ地方は、多くは農民でした。
武器もなく、ほとんど無抵抗の人々です。
そのような村に、アッシリアの軍隊が侵略し、多くの人を殺し、食糧を略奪
したのです。
両親を殺されて、孤児となった人も大勢いたことでしょう。
飢えて国の中を経あるく」とあるように、食糧を略奪されて、食べる物も
なく、飢えに苦しんだ人も大勢いたでしょう。
いつの時代でも、戦争で一番犠牲になるのは、力の弱い女性や子供たちです。
現在約1億人の子供がストリートチルドレンだそうです。
その多くは、戦争によって両親を失った孤児です。
彼らは、住む家がなく、文字通り道で生活しているのです。
そして常に飢えています。
21節に、「自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける
とあります。
この王というのは、侵略をしたアッシリアの王ティグラト・ピレセルのこと
でしょう。
イスラエルの貧しい人々は、この王の権力欲の犠牲になって、一瞬のうちに
平和な生活を踏みにじられたのです。
 またここに、「神をのろい」とあります。
神を呪うというのは、余程のことです。
アッシリアに蹂躙されたガリラヤの人達は、神を呪った、というのです。
その苦しみは、私達の想像を絶するものではなかったでしょうか。
 私達も長い人生の中には、一度や二度、神を呪いたくなるような苦しみに
遭遇することがあるかも知れません。
そのような時、なお信仰をもち続けるにはどうすればいいのでしょうか。
 アッシリアに苦しめられたイスラエル人の問いは、「神は彼らをその苦しみ
に放置するだろうか」、「神はその民とその土地を永久にイスラエルの敵の手
に引き渡してしまうのだろうか」、それとも「神は救いの手を差し伸べて、苦
しめる民を助けてくれるだろうか」というものでした。
 このような絶望の中から出された問いに対して、イザヤはこの「メシア預
言」で、神は神を信ずる者たちを決して見捨てない、ということを答えたの
です。
イザヤはここで、神はイスラエルの民を救うという意図を堅く信じています。
神は、イスラエルを決して見捨てないのです。
 9章2節には、次のようにあります。
 
  暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた
  人々の上に光が照った。
 
アッシリアによって蹂躙され苦しんでいた暗黒の中にあった人々は、光を見た。
この光りは、大いなる希望、救いの喜びです。
そして、その喜びは、収穫の時の喜びのようだ、と3節で言われています。
 
  あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に
  喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。
 
詩編126編5節に、
 
  涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
 
と言われています。
これは、種を蒔き、育てることが、非常に苦労の多いことを言っています。
それに比べて、収穫は、非常に大きな喜びなのです。
ここでイザヤは、非常なる苦しみに遭ったイスラエルの民は、このような収
穫の喜びに与る、と言っています。
8章の一番最後には、「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とあります。
ガリラヤは、イスラエルでも最も北に位置し、それだけ敵の攻撃に遭いやす
かったのです。
この時も、一番先にアッシリアの攻撃を受けました。
しかし神は、このガリラヤを敵の圧迫に放置するのでなく、これに栄光を与
える、と約束しました。
そしてそれは成就しました。
即ち、700年後、イエスがガリラヤで最初の福音を宣べ伝え、多くの人々
に希望を与えられました。
 さて、イザヤは、ここで、一人のみごりごの誕生に大きな希望を抱いてい
ます。
6節には、次のようにあります。
 
  ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわ
  れに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、
  大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
 
ここで、このみどり子は、特に「平和の君」と言われています。
イザヤは、この平和の君で、現実の王の誕生を言っていたのかどうかは分か
りません。
しかし、7節を見ますと、「ダビデの位に座して」とありますから、ダビデ家
から、そんな偉大な王が生まれる、と考えていたのかも知れません。
しかし、この王は、他の国の王のように、自分の権力や、軍事力で、相手を
押さえ付けて、平和をもたらす、というのではありません。
7節に「公平と正義とをもって」とあります。
イスラエルにおける平和は、ただ単に戦いのない状態を言うのではありません。
その平和は、神との平和に基づいたものです。
それが、公平と正義です。
神との関係において、真に望ましい状態です。
イザヤという預言者は、常に希望に生きた預言者です。
どのような暗い状況の中にあっても、必ず神よりの救いを確信していました。
 しかし、現実は、やはり暗い状況だったのです。
それでは、イザヤは単なる夢を見ただけだったのでしょうか。
否、決してそうではありません。
人間の力でそのような平和を樹立しようとしたなら、それは不可能でしょう。
7節の最後に、「万軍の主の熱心がこれをなされるのである」とあります。
主の熱心、これは何に対する熱心でしょうか。
それは、イスラエルの民を愛する熱心です。
この熱心のため、苦しんでいる民をそこに放置せず、救おうとされるのです。
イザヤは、イスラエルの神ヤハウェは熱心である、と言います。
悲しみ苦しんでいる者を決して見捨てないのです。
主の熱心は、必ずそこから救い出そうとされるのです。
 そして、この熱心はまた、私達に対する熱心でもあります。
私達が苦しみ、暗闇にある時、神の熱心は、私達に救いの手を差し伸べない
ではおれないのです。
この熱心から、神はみずから御子イエス・キリストをこの世に送られ、この
御子によって私達に救いをもたらされたのです。
ヨハネの第一の手紙4章10節には、
 
  わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、
  わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしに
  なった。ここに愛がある。
 
とあります。
このように神の熱心は、苦しみの中にある私達を愛してやまないのです。
イザヤの予言した「平和の君」の誕生は、イエス・キリストにおいて成就し
たのです。
 イザヤの時代より700年もたってはいるが、しかしそれは成就したので
す。
神は私達が苦しみに遭う場合、その熱心でもって必ず、これを救おうとされ
るのです。
イザヤは、平和ということが考えられない状況のなかで、主の熱心が必ず民
を救うということを確信しました。
私達も、いついかなる時も、神に対する信頼をもち続け、希望に生きる者で
ありたいと思います。