1990年10月14日         室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書13:28ー37 「目を覚ましていなさい」
 
 このマルコによる福音書13章は、「小黙示録」と言われています。
すなわち、世の終わりのことに関するものです。
聖書には、終末の出来事に関心をもつものとして、「黙示文学」と呼ばれている
ものがあります。
その代表は、旧約聖書のダニエル書と新約聖書のヨハネの黙示録です。
このような黙示文学は、大体迫害の状況の中で書かれた、と言われています。
ダニエル書は、紀元前2世紀、ユダヤ人がシリアのアンティオコス4世によって
迫害を受け、それに抵抗運動が行われていた時に書かれました。
また、ヨハネの黙示録は、紀元1世紀の末、ローマ皇帝ドミティアヌスによる迫
害の時に書かれた、と言われています。
このマルコによる福音書13章も、恐らく、初期のキリスト教が迫害にあってい
る時に書かれたものと思われます。
14節に「荒らす憎むべきもの」とあります。
この言葉は、ダニエル書にも出てきます。
ダニエル書の場合は、当時のユダヤ人を迫害したアンティオコス4世を表してい
ます。
このマルコによる福音書の場合は、恐らく、初期のキリスト教徒を迫害したロー
マ皇帝のだれかのことだと思います。
 さて、今日のテキストにおいて、「目をさましていなさい」という言葉が3度
出てきます。
33節
  気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたに
  はわからないからである。
35節
  だから目をさましていなさい。いつ、家の主人がかえって来るのか、夕方
  か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。
37節
  目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人
  々に言うのである。
これらの箇所で言われている「目をさましていなさい」は、キリスト者に対する
警告の言葉です。
しかも3度言われているということは、念を押して警告されているのです。
これは、いついかなる時でも、たとえこの世がどのようになろうとも、絶えず主
に信頼するようにとの警告です。
迫害の状況にあって、初期のキリスト者は、かなり動揺したでありましょう。
あるいは、そのような厳しい状況の中で、神に対して懐疑的になった人もいたで
しょうし、また信仰を失った人もいたでしょう。
人間は実に弱いものです。
常に主に信頼していると思っていても、少し何事かがあると、動揺して、主への
信頼を忘れていまいます。
 ペテロは、イエスの弟子の筆頭として、いかなる時にもイエスへの信頼を失わ
ない、という自負心がありました。
14章29節では(次のページ)、「たとい、みんなの者がつまずいても、わた
しはつまずきません」と勇ましいことを言っています。
しかし、いざイエスが捕らえられた時、大祭司の中庭で、他の人から「あなたも
あのナザレ人イエスと一緒だった」と言われた時、「あんな人は知らない」と言
って、1度だけでなく、3度もイエスを否みました。
3度というのは、たまたまその時だけ裏切ったというのでなく、完全な裏切りな
のです。
そこで、「目をさましていなさい」という警告も、十分な警告として3度言われ
ているのです。
私達は、確固たる信仰を持っていると思っても、その信仰たるや実にあやふやな
ものかも知れません。
私達は、色々な時に信仰がためされる時があります。
初期のキリスト教のような迫害といったものは、今の時代にはないかも知れませ
んが、色々な形の試練はあると思います。
色々な状況にぶつかり、動揺して、キリストへの信頼を失うことはないでしょう
か。
そのような時、イエスは、私達に「目をさましていなさい」と警告されるので
す。
 イエスは、祭司長たちに捕らえられる前にゲッセマネの園で一生懸命祈られま
した。
しかしその時、ペテロたちは眠ってしまった、というのです。
そこで、イエスはペテロに言いました。
14章37ー38節(次のページ)。
  シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかった
  のか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱してい
  るが、肉体は弱いのである。
私達は、肉体も、また精神も弱いと思います。
私達自身の力に頼るならば、誘惑や試練の力に簡単に負けてしまうでしょう。
「目をさましていなさい」というのは、私達自身に頼るのでなく、主に頼ること
です。
私達があやふやであっても、主は確固たるお方です。
これを詩篇の記者は、「神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである」と告白
しています(62:2)。
この岩は、堅固なので、何に対してもビクともしません。
従って、この岩にしっかりつながっておれば、いかなる危機に見舞われようと、
恐れはありません。
そのことを詩篇の記者は、次のように歌っています。
詩篇46:1ー3。(P.787)
  神はわれらの避け所また力である。
  悩める時のいと近き助けである。
  このゆえに、たとい地は変わり、
  山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
  たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
  そのさわぎによって山は震え動くとも、
  われらは恐れない。
本当に神に信頼し、神に寄り頼む者は、何事に遭遇しようとも、動揺しないと言
うのです。
それは、この世のあらゆるものが移り変わっても、神は変わらないからです。
 今日のテキストの31節を見てみましょう。
  天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
とあります。
天地が滅びるとか宇宙的な叙述も、黙示文学にに特徴的です。
少し前の24ー25節でも
  その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、
  星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
と言われています。
神の言葉は変わらないということは、第二イザヤも言いました。
  草は枯れ、花はしぼむ。
  しかし、われわれの神の言葉は
  とこしえに変わることはない。(イザヤ書40:8)
私達は常にこのとこしえに変わることのない主のみ言葉により頼んでいくことが
大切です。
そしてこれが、「目をさましている」ということなのです。
そしてこれは、「常に」ということが大事なのです。
若い時は、仕事が忙しいから、年を取って何もすることがなくなったら、教会に
行こうという人がいます。
しかし、33節にあるように、「その時」はいつか分からないのです。
  気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたに
  はわからないからです。
それは明日かも分からないのです。
この時という言葉は、ギリシア語ではカイロスですが、これは神の時を表してい
ます。
神の定めた時なのです。
その神の定めた時は、人間には分からないのです。
あるいは、昨日だったかも分かりませんし、明日なのかも分かりません。
あるいは、昨日とか明日とか、私達人間が捉えているような時の概念とは全く違
うものかも知れません。
35節では、次のように警告されています。
  だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方
  か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。
ここで思い起こすのは、マタイによる福音書25章でイエスがされた「10人の
乙女の譬話」です。
5人の乙女は思慮が深く、油を用意していましたが、5人の乙女は思慮が浅くて
油を用意していなかったのです。
そして、油を買いに行っている間に、花婿が到着し、戸が閉められ、思慮の浅い
乙女たちは、家に入ることが出来なかった、というのです。
そして、この譬えでも「目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたに
はわからないからである」と警告されています。
私達も、この思慮の浅い者ではなく、深い者でありたいと思います。
 さて、この「目をさましている」というのは、とこしえに変わることのない主
のみ言葉に信頼していくということですから、むしろ「耳を開いていなさい」と
いう方がいいかも知れません。
私達にとって、常に聖書のみ言葉に耳を傾けて行くということが大切なことで
す。
そしてそのためには、キリストの体なる教会につらなるということがまず大切で
す。
イエスは、ヨハネによる福音書15章5節(p.166)で、
  わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつなが
  っており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結
  ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできないからで
  す。
と言っています。
さらに、6節では、
  人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れ
  る。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
と言っています。
私達は、キリストの体なる教会にしっかりつながり、聖日の礼拝を大切にし、み
言葉に耳を傾けるということが大切なのです。
私達も常に目をさまし、み言葉に耳を傾けて行きたいと思います。