2004年4月11日          室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書16章1−8節    「イエスの復活」
 
 今日は主イエスの復活を記念するイースターの礼拝です。
共に主の復活を祝いたいと思います。
1節。
 
  安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、
  イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
 
ここに3人の女性が登場します。
彼女たちは、「イエスに油を塗りに行くために香料を買った」とあります。
「安息日が終わると」とありますが、ユダヤの一日は日没から始まりました。
安息日はもちろん土曜日です。
それゆえ、土曜日の夕方に買い物に出た、ということです。
それは、安息日には買い物ができなかったからです。
主イエスは、金曜日の朝9時頃に十字架につけられ、午後3時頃に息を引き
取られました。
それはもう夕方近くでした。
日没になると安息日が始まり、安息日には葬りもできなかったので、アリマ
タヤという所の出身のヨセフという人が総督ピラトに願い出て、イエスの遺
体を急いで墓に納めたのです。
15章46節には、
 
  ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、
  岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
 
とあります。
日没が近づき、もう時間がなかったので、ヨセフは亜麻布でイエスの遺体を
葬るのがやっとのことでした。
 3人の女性たちは、イエスがゴルゴタの丘で十字架につけられた時から、
息を引き取り、そしてアリマタヤのヨセフによって墓に納められたのをずっ
と見ていたようです。
しかし、男の弟子たちは、誰一人見守ってはいませんでした。
彼らはゲッセマネの園でイエスが祭司長たちに逮捕された時に、既に逃げ去
っていました。
ペトロだけは、大祭司の庭で、遠くからイエスを見ていましたが、そこにい
た人たちに、「お前もイエスの仲間だろう」と言われた時、「そんな人は知ら
ない」と言って、その場から立ち去ったのでした。
恐らく弟子たちは、もうエルサレムには行かなかったのではないでしょうか。
あるいは、自分たちの故郷のガリラヤに向かっていたのではないでしょうか。
とにかく彼らは、イエスが逮捕されたことですっかり失望して、最後までイ
エスのことを見届けようとはしなかったのです。
あるいは、イエスと同じように逮捕されないかと恐怖の余り、どこかに隠れ
ていたのかも知れません。
とにかく彼らは、ゴルゴタの丘でイエスが十字架にかけられているのを見守
ったのでもなく、葬りを手伝ったのでもありませんでした。
 しかし、この3人の女性たちは、主イエスが十字架上で死んで行かれる様
子を一部始終見守ったのです。
この3人の女性たちがどういう人たちであったかは詳しくは分かっていませ
ん。
4つの福音書にすべて登場するのは、マグダラのマリアだけです。
ですから、マグダラのマリアはこの場所にいたことは確かだと思われます。
このマグダラのマリアは、ルカによる福音書8章2節によると、イエスに7
つの悪霊を追い出してもらった、といわれています。
ただし、彼女の病気が7つあったというのでなく、7というのは完全数です
ので、非常に悪質な病気ということを言い表しています。
恐らくマグダラのマリアは、具体的にどういう病気かは分かりませんが、非
常にたちの悪い病気をイエスに癒してもらったのでしょう。
そこで彼女は、イエスのことを非常に尊敬し、また女性的な献身でもってイ
エスに仕えたのです。
 ここで、彼女たちが香料を買いに行ったのは、アリマタヤのヨセフが急い
でイエスを墓に納めたため、丁重な葬りをしなかったからでしょう。
私たちの間においても、肉親が亡くなった場合、遺族のものはその遺体をで
きるだけ丁重に扱います。
女の人だったら、お化粧なども施して、非常にきれいにします。
棺に花を入れたり、その人の愛用していた物なども入れたりします。
心を尽くして遺体を葬るのです。
この3人の女性たちも、急いで墓に葬られたイエスを見ていて、もっと丁重
にしたいと思い、油を塗ろうとしたのでしょう。
 2節。
 
  そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
 
「週の初めの日」というのは、日曜日です。
ユダヤ教の安息日は土曜日でした。
しかし、キリスト教では、日曜日が礼拝の日です。
これは、イエスが復活されたのが日曜だったからです。
日曜日のことを「主の日」と言います。
それは、主が復活された日を記念して礼拝を行うからです。
キリストは日曜日に復活されて、弟子たちに出会われました。
しかし、弟子たちにだけではありません。
それから2000年も経った現在の私たちにも、主の日の礼拝において私た
ちに出会われるのです。
私たちは、日曜の礼拝ごとに、復活の主の前に出るのです。
これは主の日の礼拝です。
 さて、3人の女性たちが墓につくと、墓を蓋していた大きな石が脇に転が
されていました。
そして墓の中には白い長い衣を着た若者が座っていました。
この若者は天使だったのでしょう。
そしてこの天使が驚いている3人に言いました。
6−7節。
 
  若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザ
  レのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられな
  い。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペ
  トロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれ
  る。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
 
この天使は3人の女性たちに、まず「驚くことはない」と言いました。
これはむしろ「恐れることはない」と訳した方がいいと思います。
最近出た岩波訳の『新約聖書』では、「肝をつぶすな」と訳されています。
とにかくこの女性たちに襲ったのは、全く予期していなかったことに遭遇し
ての非常なる恐れでした。
彼女たちはイエスの葬りを丁重にするために油を塗ろうとしてやって来たの
でした。
すると、墓を蓋していた大きな石が脇へ転がされ、墓の中にはイエスの遺体
がなかったのです。
全く予想もしていなかったことが起こったのです。
人は、全く予想していなかったことに遭遇すると非常に恐れるものです。
この女性たちは、イエスが復活したという思いは全くありませんでした。
ただ恐れだけでした。
8節を見ますと、
 
  婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そし
  て、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 
とあります。
このような女性たちに、天使はまず「驚くことはない」と言ったのです。
そしてこの「恐れるな」という言葉は、聖書に実にたくさん出てきます。
「恐れ」は、いつも私たちにつきまとうものです。
マリアに天使ガブリエルが現れ受胎告知した時も、マリアはひどく恐れまし
たが、天使は「恐れることはない」と言いました。
何か予期しないこと、考えられないことが起こった場合、私たちも恐れを抱
くのではないでしょうか。
この3人は、当然いるはずのイエスが墓の中にいなかったので、恐れたとい
うのです。
 ここで天使は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言います。
「復活なさって」とありますが、原文では「起こされて」と受身形でしるさ
れています。
先ほどの岩波訳では「起こされた」と訳されています。
すなわち、主イエスは神によって復活させられたのです。
ここでは、神の大いなる御業が天使によって語られています。
使徒言行録2章24節では、ペトロは、
 
  しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。
 
と言っています。
ここでも神の大いなる業ということが言われています。
イエスは、神の御心に忠実に従って、十字架の道を歩まれましたが、神はこ
のイエスは見捨てずに、これを復活させられたのです。
神は、創造者であり、すべてのものの支配者です。
神は、土の塵で造ったちっぽけな存在を、かけがえのないものとして愛して
下さいます。
そして創造者なる神は、私たちの最大の恐れである死をも支配されるのです。
主イエスを死人の中から復活させたということは、イエスが人間の最後の敵
である死に勝利したということです。
コリントの信徒への手紙一15章54節では、
 
死は勝利にのみ込まれた。
 
と言い表されています。
人間は死んだら終わりである、と考えられています。
しかしイエスが復活して死に勝利したことによって、私たちも決して死で終
わるのではありません。
主イエスの復活によって、私たちに永遠の生命の保証が与えられたのです。
イースターは新しい生命の始まりと言っていいと思います。
今までは、死がすべての終わりでした。
そのすべての終わりに向かって一歩一歩近づいていくのが人生でした。
しかし今や、主イエスの復活によって、死が決して人生の終着駅ではなくな
りました。
そして私たちは、主イエスの復活を記念する主の日の礼拝において、常に永
遠の生命を確認するのです。
 さて、7節で天使は、弟子たちにペトロにイエスがガリラヤで会われると
いうことを告げています。
弟子たちは、主イエスがゲッセマネの園で逮捕された時、イエスを見捨てて
逃げ去ったのでした。
ペトロは3度もイエスを知らないと言って否んだのです。
皆、イエスを裏切ったのです。
そして、イエスの十字架も葬りも誰一人見守らなかったのです。
恐らく、故郷のガリラヤに帰りつつあったでしょう。
彼らは皆、弟子の名に値しないものでした。
しかし、主イエスはそのような弟子たちを見捨てはしないのです。
弟子たちは皆イエスを見捨てて裏切りましたが、イエスは決して弟子たちを
見捨てなかったのです。
ガリラヤで会われる、と約束されました。
そして実際、ガリラヤで会われ、大きな力と勇気と希望を与えられました。
 私たちも、普段の生活において、キリストを忘れ、あるいは、キリストを
裏切るような生活をしているかも知れません。
しかし、キリストの方は、決して私たちを見捨てず、なお忍耐と慈しみをも
って見守っていて下さっているのです。
主の復活を記念する主日礼拝は、復活のキリストに出会う場です。
私たちはキリストを忘れて、自分勝手な歩みをすることがしばしばかも知れ
ませんが、復活の主が今も私たちに出会い、弱き私たちを力づけ、励まし、
本当の命を与えて下さっていることを覚え、感謝を捧げたいと思います。
そして、キリストの復活によって、死がすべての終わりではなく、永遠の生
命の希望が与えられていることを覚えたいと思います。