2004年3月28日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書4章32−42節 「御心が行われるように」
受難週を来週に控えて、今日は主イエスがゲッセマネの園で非常に苦しま
れた記事を学びたいと思います。
ゲッセマネというのは、ヘブライ語で「油をしぼる場所」という意味です。
オリーブ山は文字通り、オリーブの木で有名です。
私たちも先年イスラエル旅行をした時、このオリーブ山にも行きました。
今でもこの山にはオリーブの木が沢山ありました。
このオリーブの油をしぼる場所であったのが、ゲッセマネです。
主イエスと弟子たちは、最後の晩餐をした後、このゲッセマネに来たのです。
それは祈るためでした。
33−34節。
そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れて
もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離
れず、目を覚ましていなさい。」
主イエスを裏切ったユダはもうここにはいなかったので、主イエスは11人
の弟子たちと共にこのゲッセマネに行かれたと思われます。
そして、その所に他の8人を残し、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連
れてさらに園の奥に入られました。
この3人は、主イエスの特に信頼していた弟子たちで、9章2節以下の「イ
エスの姿が変わった」記事においても、主イエスはこの3人だけを連れて高
い山に登られた、とあります。
ここで主イエスが、特に信頼する3人だけを連れて行かれたのは、御自分の
心の悩みを打ち明けるためでした。
「イエスはひどく恐れてもだえ始め」とあります。
主イエスは、この3人に御自分の恐れや不安を隠されませんでした。
これを見て、3人はどう思ったでしょうか。
自分たちの主と信頼する、あるいは神の子キリストであると信じていた方が
こんな弱々しい姿になることは予想もしていなかったでしょう。
この3人は、イエスにつまずいたかも知れません。
自分たちの先生に失望したかも知れません。
あるいは、なぜイエスがこんなに苦しんでおられるのか分からなかったので
はないでしょうか。
主イエスはこの3人に「わたしは死ぬばかりに悲しい」と心の内を打ち明け
られました。
人間は、時には死ぬほどの苦しみを経験します。
パウロも伝道旅行の時に、アジア州で大きな苦しみを経験し、コリントの信徒への手紙二1章8節には、(P.325)
わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失っ
てしまいました。
とあります。
主イエスも決して人間離れをしたお方ではなく、私たちと同じく苦しみ悩ま
れたのです。
ヘブライ人への手紙2章18節には、(P.403)
事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人
たちを助けることがおできになるのです。
とあります。
このような死ぬほどの苦しみに対しては、どういうものも助けにはなりませ
ん。
そういうことで、ついには死を選ぶというようなことに至る人もいます。
ここで主イエスが3人を連れて行って彼らに悩みを打ち明けられたというこ
とは、彼らに何かを期待されたからでしょうか。
この3人に直接何かを期待されたのではなく、「目を覚ましていなさい」と言
われました。
これは、「祈っていなさい」ということです。
死ぬほどの苦しみに対して人間の力は役に立ちませんが、ただ一つ助けにな
るのは、神への祈りです。
主イエスは、この3人に何か励ましてもらいたいとか力になってもらいたい
と思われたのではなく、神に祈ってもらいたかったのです。
そのために、御自分の苦しみを打ち明けられたのです。
そして主イエスご自身も、この3人から少し離れたところで祈られました。
35ー36節。
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が
自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなた
は何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますよう
に。」
ここで「地面にひれ伏し」とあります。
主イエスがいかに真剣に祈られたかが窺われます。
ルカによる福音書22章44節では、(P.155))
イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地
面に落ちた。
と述べられています。
主イエスは、このように苦しみながら何を祈られたのでしょうか。
「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られたとあります。
私たちも何かつらいことが起こった時、速くこの時が過ぎ去るように、と願
うのではないでしょうか。
苦しい時は、一刻も早く過ぎ去って欲しいものです。
しかし、主イエスのこの時とは一体何でしょうか。
それは、神によって定められた時です。
神の御子が裁きを受ける時、それはイザヤ書53章に言われています。
主イエスは、ここで恐らく、そのイザヤの預言を思っていたのでしょう。
そして、これが自分に与えられた時である、と思ったのでしょう。
そのイザヤ書53章8節には、次のようにあります。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
この神によって定められた時がいよいよ来たのです。
これは、主イエスが私たちの罪を負って苦しむ時です。
主イエスは苦しみの余り、36節で、「この杯をわたしから取りのけて下さ
い」といわれました。
「杯」は、旧約聖書においては、しばしば神の怒りと裁きの象徴でした。
主イエスの苦しみは、死が恐ろしいからというのでなく、「アッバ、父よ」と
呼ぶことのできる最も信頼している神の怒りによって罪人として裁かれるこ
との苦しみでした。
罪のないイエスが罪人として裁かれる、これほどの苦しみはありません。
36節には「あなたは何でもおできになります」とありますが、私たち人間
の罪を救うために、神はわざわざ御自分の御子の受難を通さずにもできる
はずです。
しかし、先ほどのイザヤ書53章でも「 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望
まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。」とあるように、神御旨は、神の御
子の受難を通して私たちを救う、ということでした。
そしてそれを知っていたイエスも、「しかし、わたしが願うことではなく、御
心に適うことが行われますように。」といわれました。
救いには犠牲が必要です。
子供が誘拐されたなら、親はどんな犠牲を払ってでも我が子を取り戻したい
と思うでしょう。
主イエスは、私たちの罪を救うためのこれ以上ない身代金を御自分の苦しみ
で支払われたのです。
主イエスは、苦しみの「杯」を飲まれましたが、私たちが聖餐式で飲む
「杯」は、苦しみの「杯」ではなく、キリストの贖いによる恵みの「杯」で
す。
さて、主イエスは、最後には「しかし、わたしが願うことではなく、御心
に適うことが行われますように。」と祈られました。
主イエスは、主の祈りにおいても、「御心の天に行われる通り、地にも行われ
ますように」と祈るように弟子たちに教えられました。
「御心」というのは、神の思いです。
主イエスは、最後のところで、「わたしが願うことではなく」、「御心に適うこ
とが行われますように」と祈っています。
主イエスが十字架にかからなければならなかったのは、人間の罪のためでし
た。
そして、人間の罪というのは、「神の思い」を求めるのでなく、自分の思いを
求めることによります。
アダムとエバは、神の思いを無視して、自分の思いから禁断の木の実を食べ
ました。
この罪を贖うために主イエスは、「わたしの願い」を捨て、「神の御心」に従
われました。
そしてこれによって、私たちの罪が贖われたのです。
さて、主イエスがこのように一生懸命祈っていた時、弟子たちは眠ってい
たとあります。
37節。
それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに
言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられ
なかったのか。
ここで特にペトロの名が言われているのは、そのすぐ前でペトロは勇ましい
ことを言ったからです。
29節には、
するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきま
せん」と言った。
とあります。
また、31節には、
ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくな
っても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。
とあります。
人間というのは、本当に弱いものです。
いくら口で勇ましいことを言っても、いざとなるとその言ったことの10分
の1のこともできません。
そしてペトロは、その後イエスから「死ぬばかりに悲しい」と打ち明けられ
ました。
しかしその後眠ってしまったというのは、ペトロにはイエスの本当の苦しみ
が分かっていなかったからでしょう。
人間は他人の苦しみを余り分かりません。
これは、私たちもそうかも知れません。
他の人がたとえ「死ぬばかりに悲しい」時も、中々分からないものです。
そして、他人の悲しみは分かろうとしないのです。
人間は常に自己中心的です。
しかし、ペトロにとって、主イエスは他人ではなかったはずです。
否、「イエスと一緒に死んでもいい」と言っているのですから、この世で最も
大切な人のはずでした。
その最愛の人が「死ぬほどの苦しみ」をし、それを打ち明けられてなお、眠
ってしまったというのです。
ここに人間の弱さが如実に表されています。
しかし、ペトロが特別弱かったのではありません。
私たちも同じく弱い存在です。
また、自己中心的です。
他人の、否最愛と思っている人の苦しみも十分には分かっていません。
このような弱さから私たちを救うのは、祈りしかありません。
そこで、主イエスはペトロに「目を覚まして祈っていなさい」と言われまし
た。
38節では「心は燃えても、肉体は弱い」と言っています。
これは気持ちはあるが肉体がついて行けない、というような意味ではありま
せん。
「心」と訳されているギリシア語は、プニューマという語です。
すなわち、霊と訳すべき語です。
岩波書店から出ている『新約聖書』では、「霊」と訳されています。
これは、人間の霊ではなく、神の霊です。
そこで、「心は燃えても」というのは、神の霊は活発に働いている、というこ
とです。
神は、人間を救うために決定的な時を来たらせようとしています。
そしてそのためにイエスが苦しんでいるのです。
ここで神の霊は、活発に働いているのです。
私たち人間を救おうとして。
そして、「肉体」と訳されているギリシア語は、サルクスという語で、これは
人間の存在全体を意味しています。
そこで、「肉体は弱い」というのは、人間、私たちは弱い、ということです。
この弱い私たちを救うために、イエスは神の御心に従って、神の時を受け入
れようとされたのです。
41節で「時が来た」とあり、42節には「立て、行こう」とあります。
一時は、35節で、「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られま
したが、祈りの結果その時が神の御心と知り、それに今度は従順に従われた
のです。
今や、十字架への道へとまっしぐらに歩んで行かれるのです。
私たちの罪を贖うために。
私たちに救いを得させるために。
私たちは、主イエスが私たちのために「死ぬばかりに悲しい」思いをされた
ことを今一度考えたいと思います。