2004年3月21日          室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書14章3−9節   「主イエスの記念」
 
 今日の物語は、四つの福音書にすべて記されている出来事です。
主イエスは、9節において、
 
  はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところで
  は、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。
 
と言われましたが、この記事はまさにその通り、すべての福音書に記され、
世界中の教会で語り伝えられています。
しかし、その記事の内容は少しずつ違っています。
マルコによる福音書とマタイによる福音書では、ナルドの香油を主イエスに
注いだのは、「一人の女」となっていますが、ルカによる福音書では「罪深
い女」と言われていますし、またヨハネによる福音書ではマルタの妹のマリ
アだと言われています。
 また、これが行われた家は、マルコによる福音書とマタイによる福音書で
は「重い皮膚病の人シモンの家」と記されていますが、ルカによる福音書で
は「ファリサイ派の人の家」と記され、ヨハネによる福音書では「マルタと
マリアの家」であると思われます。
どれが元の話であったかは、もやは分かりませんが、実際にあった出来事で
あったことは疑いないと思われます。
しかもこの出来事は、非常に印象深かったので、すべての福音書に伝えられ
たのでしょう。
 3節。
 
  イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着い
  ておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入っ
  た石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
 
この重い皮膚病の人シモンというのは、恐らく以前にイエスに病気を癒され
たのでしょう。
そして、そのことから、イエスを非常に尊敬するようになり、またイエスに
仕え、親切にし、家に泊めたり、もてなしたりしていたのでしょう。
この時も、主イエスを自分の家に招待し、食事をご馳走していたようです。
 さてそこに、突然、一人の女性がそのシモンの家に入り、ナルドの香油の
入った石膏の壺を壊し、主イエスの頭に注ぎかけた、というのです。
食事の席で突然こういうことをするというのは、はなはだ非常識なことです。
周りの人々は皆、びっくりしたことでしょう。
そしてまた、その非常識な行動にあきれたことでしょう。
 このナルドというのは、元々サンスクリット語から来ています。
ヒマラヤ原産のナルドという植物で、この根から取れる香料がとてもいい香
りを放ち、当時のローマ帝国の世界で非常に重宝された、ということです。
これは、特に大切なお客が来た時に、頭から注いだと言われています。
しかし、壺を割って全部注ぐのは常軌を逸した行為と言わざるを得ません。
そしてそれだけ大量の香油を注いだなら、その香りも心地よいのを通り越し
て、かえって不快だったのではないでしょうか。
それを見た周りの人は、この女性を厳しく咎めたのです。
4−5節には、次のようにあります。
 
  そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油
  を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい
  人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
 
ここで咎めた人は「そこにいた人」となっていますが、ヨハネによる福音書
の方ではイスカリオテのユダと言われています。
また、マタイによる福音書の方では「弟子たち」となっています。
多分、弟子たちであったでしょう。
弟子たちは、少し前のところでも(10章13節)、主イエスの所に幼子が連
れてこられた時、連れてきた人々を叱った、とあります。
彼らがこの光景を見てまず思ったことは、「ああもったいない」ということで
はなかったでしょうか。
これはしかし、誰もがそう思うでしょう。
弟子たちは確かに常識的でありますが、その行為の本質を見ることができな
かったのです。
彼らは表面的なことや体裁に目が向けられ、十字架への道を歩まれようとさ
れていた主イエスの本質を見ることができなかったのです。
確かに常識的な考えからすると、300デナリオンもする貴重な香油を一瞬
にして使ってしまうのは、いかにももったいないことです。
それを売って貧しい人に施す方がよほどいいと普通の人なら思うでしょう。
それがごく常識的な考えです。
1デナリオンは、当時の労働者の一日の賃金に相当しましたから、この香油
は1年分の賃金に近い値段になります。
そんなに高価なものを一瞬のうちに無駄遣いするのは、いかにも浅薄な行動
ではないか、と弟子たちは言うのです。
もっともな意見であり、私たちももしその場に居合わせたなら、同じように
思ったでしょう。
 しかし、主イエスは弟子たちとは違った見方をします。
6節。
 
  イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困ら
  せるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
 
弟子たちは、この女の行為を厳しく咎めたのですが、主イエスは「するまま
にさせておきなさい」と言われました。
幼子が主イエスの所に連れてこられた時も、「子供たちを私のところに来させ
なさい。妨げてはならない」と言われました。
 主イエスは非常に自由なお方でした。
何事にも捕らわれませんでした。
私たちは、いろいろなものに捕らわれて、また人々の目を気にしながら生活
しているのではないでしょうか。
当時のユダヤ人は、実に多くのものに捕らわれて生活していました。
その代表は、ユダヤ教の律法です。
モーセがシナイ山で授けられたと言われる十戒などは、実に重要な戒めです
が、そのような重要な戒めに段々枝葉が付け加えられ、イエスの時代には実
に様々な細かい規定がありました。
そして当時の人々は、いわばそのようなどうでもいい細かい規定にがんじが
らめに縛られていたのです。
主イエスは、それらのものから自由でした。
安息日には何の仕事もしてはならないという規定を破って、病人を癒されま
した。
しかしそのために、ユダヤ人たちからは、憎まれ、ついには十字架にかけら
れたのです。
そしてその犠牲によって、私たちも自由にされたのです。
ガラテヤの信徒への手紙5章1節には、次のようにあります。(P.349)
 
  この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてく
  ださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつなが
  れてはなりません。
 
私たちは、キリストによって基本的に自由にされているのです。
しかし、なおいろいろなものに捕らわれて生きているのではないでしょうか。
 さて、この女性は、主イエスに初対面ではなかったと思われます。
以前に主イエスに出会い、イエスの愛に触れ、自由にされた経験があったの
でしょう。
この女性がどんな人であったのか、ただ「一人の女」としか記されていませ
んので、分かりません。
ただ、ルカによる福音書の方では「罪深い女」と記されています。
もしそうだとすると、彼女はユダヤ教で規定されている重大な罪を過去に犯
したのでしょう。
いわゆる前科者です。
このような者に、世間の目は冷たいのです。
そのような中で、主イエスはこの女性を一人の人格を持った人間として尊重
したのでしょう。
そういう喜びと救いの体験から、彼女は自分の一番大切にしていた貴重な香
油を惜しげもなく主イエスに注いだのです。
これは、この女性が自由にされた結果です。
普通の考えなら、世間の常識などに拘束されて、決してそういう行動には出
なかったでしょう。
確かに、特に大切なお客には、上等なナルドの香油を注ぐという習慣はあり
ました。
しかし、壺を壊してまで、その全部を注ぐということは、常識では考えられ
ないことでした。
そういうことは、全く自由にされた人でないとできないことです。
 しかし、その行為の本当の意味は、香油を注いだ当の本人にも実は分かっ
ていなかったのです。
そこで、主イエスはその意味を教えられました。
8節には、次のようにあります。
 
  この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香
  油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
 
弟子たちは、この女性の行為に対して厳しく咎めましたが、主イエスは「で
きるかぎりのことをした」と、非常に評価されたのです。
そしてそれは、埋葬の準備であった、と言うのです。
この二日後に、主イエスは十字架にかけられます。
そして、その日の夕方に息を引き取られますが、その日没から安息日が始ま
り、安息日には何の業をもしてはならなかったので、アリマタヤのヨセフと
いう人が急いで主イエスの遺体を墓に納めました。
普通の場合なら、墓に納める前に遺体をていねいに扱い、念入りに油を塗っ
たりしたのですが、その猶予がありませんでした。
そこで、この女性があらかじめ埋葬の準備として、ナルドの香油を注いだ、
と言うのです。
 そして、もう一つ重要なことは、油を注ぐことの意味です。
旧約聖書においては、油を注ぐのは、王が任命される時でした。
サウルはサムエルによって油を注がれて、イスラエルの最初の王とされまし
た。
そして、ダビデもサムエルによって油を注がれました。
油を注がれた者は、ヘブライ語でメシアと言います。
そして、紀元前6世紀に国家が滅亡し、その後イスラエルには王はいなくな
りましたので、メシアと呼ばれるべき人はいなくなるのですが、やがて来た
るべき時に真の王が神から遣わされ、イスラエルの民を救うという期待がな
されました。
そして、その来るべき救い主も、旧約聖書で油注がれた王と同じメシアと呼
ばれました。
 さてここで、この女性が最も高価な香油を主イエスの頭に注いだ訳ですが、
これはイエスが真の王、救い主である、ということを暗示しています。
この女性は、恐らくそのことは意識していなかったでしょうが、そういう行
為をしたことの背後に神の御旨があったのです。
この女性は、主イエスに「できるかぎりのことをした」と言われましたが、
できるかぎりのことをする背後に神の御旨が働いているのです。
そして、主イエスは、最後に9節で、次のように言われました。
 
  はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、
  この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 
ここで「はっきり」と訳されている語は、原語では「アーメン」です。
主イエスは、特に重要なことを言う時、しばしば最初に「アーメン」と言わ
れました。
それゆえここで主イエスは、この一人の女性のした行動が、特に重要なこと
を強調されています。
6節ではイエスは、「わたしに良いことをしてくれたのだ」と言っています。
すなわち、この女性の行動は、十字架に死ぬ「主イエスの記念」であった、
ということです。
もちろんこの女性は、そういう意味を理解して香油を注いだのではありませ
ん。
彼女はただ、主イエスを心から尊敬するために、そのような行動に出たので
す。
しかし神は、そのような彼女の純粋な心を用いて、より重要な意味へと導か
れたのです。
すなわち、十字架の死を遂げようとされている主イエスの埋葬の準備の意味
があったのです。
私たちの行動も取るに足りないものです。
しかし、私たちのそのような取るに足りない行動も、神によって用いられる
場合もあるのです。
否、神は私たちの取るに足りない行動をも用いて、御旨を行われるのです。
このことを信じて、私たちも神によって豊かに用いられるものでありたいと
思います。