2004年2月15日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書12章41−44節 「すべてを献げる」
主イエスは、十字架にかかられる最後の週に、エルサレムに入られ、律法
学者たちと論争されました。
12章には、主イエスがなされたいろいろな論争が記されています。
その論争は、ときには激しく、また相手の策略のようなものもありましたの
で、イエスはその論争にかなりお疲れになったようです。
そこで、エルサレム神殿の庭に座られました。
しばらくそこに腰を下ろし、休みたかったのでしょう。
しかし主イエスは、体は休めながらも、目は一定の方向に注目されていまし
た。
41節には、次のようにあります。
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見て
おられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
その一定の方向というのは、神殿の賽銭箱でした。
これは、神殿の女性の庭の廊下に備えられていて、雄羊の角で作られ、ラッ
パの形をし、13個あったそうです。
エルサレム神殿には、毎日いろいろな地方から大勢のユダヤ人が参拝に来て
おり、それぞれあわただしくその賽銭箱にお金を投げ入れていくのです。
多く献げる人、少ししか献げない人、いろいろいたでしょう。
その様子を主イエスは見ておられた、というのです。
これはただ漠然と見た、単に視野に入った、というのではありません。
じっと注目された、ということです。
主イエスは、私たちに対しても、常にじっと注目されるのです。
さて、この神殿の賽銭箱で、「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とあり
ます。
いかにも傲慢な態度です。
周りの人々に、自分はたくさんのお金を入れているのだぞ、と見せつけてい
るようです。
たくさん入れると、お金がラッパの口に当たって、大きな音がするのです。
そのたびに周りの人々が注目したことでしょう。
一つ前の40節には、次のようにあります。
また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このよう
な者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
これは律法学者のことをいっています。
「見せかけの長い祈り」と言われています。
彼らもしばしば、人の手前、信仰深いことを見せようとしたのです。
主イエスは、このような偽善を批判されました。
主イエスは山上の説教においても、次のように言われました。
マタイによる福音書6章2節。(P.9)
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられよ
うと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはなら
ない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
当時のユダヤ人の間では、施しは非常に貴い徳と考えられていました。
しかし、金持ちは、それを人々に見せるために行っていたのです。
町の中心地や会堂など人の大勢いる所で、しかもラッパを吹き鳴らして、わ
ざわざ人に自分の善行を知らせていた、というのです。
これに対して主イエスは、「右の手のすることを左の手に知らせてはならな
い」と言われました。
さて、今日の所で、そのような大勢の金持ちが賽銭箱にたくさんのお金を
入れていたとき、一人の貧しいやもめがやってきました。
主イエスは、そのやもめにもじっと注目されました。
42節には次のようにあります。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一
クァドランスを入れた。
このやもめはレプトン銅貨二枚を入れたと言われていますが、これは皆に見
えた訳ではないと思います。
金持ちの場合はたくさん入れた訳ですから、じゃらじゃらと音がし、多く入
れていることが周りの人にもわかります。
しかしこの女性は恐らく、ラッパのようになっている賽銭箱に手を入れるよ
うにして、レプトン銅貨二枚を入れたのだと思います。
一般の人には、それがどれだけかはわからなかったと思います。
しかし主イエスの目には、心の目で、それがレプトン銅貨二枚であることが
わかったのでしょう。
さらに44節を見ると、それがその女性の生活費全部であるということもイ
エスには分かられたのです。
主イエスは、決して私たちの表面的なことだけを見られません。
むしろ、その表面に隠れた所、その本当のところ、その真実をご覧になりま
す。
私たち人間は、往々にして、その表面的なことしか見ることができません。
そして、表面的なことで人を評価します。
たくさんのお金を入れている人には、感心して注目します。
しかし、みすぼらしい格好をして、恥ずかしそうに賽銭箱に手を入れて、わ
ずかなお金を入れている人には注目しません。
しかし、主イエスは、レプトン二枚を入れた貧しい女性の方に注目されたの
です。
このレプトン銅貨というのは、ギリシアの最小の貨幣で、1・7グラムの
重さだそうです。
そして、レプトン銅貨二枚が1クァドランスに当たるとありますが、このク
ァドランスというのはローマの最小の銅貨で3・5グラムの重さだそうです。
そして、1クァドランスはアサリオンの4分の1だそうです。
アサリオンは16分の1デナリオンです。
1デナリオンというのは、労働者の1日の賃金です。
ですから、レプトン二枚は、1デナリオン(労働者の1日の賃金)の64分
の1ということになります。
従って、このやもめの献げたお金は、額としては非常に少ないものでした。
何ら注目に値するものではなかったのです。
しかし主イエスは、普通の人が一切注目しなかったこのやもめの献げたお金
に注目されたのです。
注目されたと言うより、感激されました。
43節には、次のようにあります。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この
貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入
れた。
「はっきり言っておく」と訳されている語は、直訳すれば、「アーメン、私は
あなたに言う」ということです。
アーメンというのは、「真実だ」という意味です。
ですから、このやもめの行為にイエスは、まず「真実だ」といっているので
す。
偽善の多い行為の中にあって、このやもめのなしたことは真実だ、アーメン
といって感嘆しているのです。
この女性は、やもめということで、社会から注目されるような存在ではな
かったのです。
やもめというのは、当時のユダヤの社会では、経済的に貧しいだけでなく、
社会的にも地位が低く、非常に弱い立場の者でした。
あらゆる所で、不利な立場にありました。
しかしそれゆえに、旧約聖書の法では、このような人たちを暖かく配慮しな
ければならないという規定がありました。
例えば、出エジプト記22章21節には、「寡婦や孤児はすべて苦しめてはな
らない」とあります。
また、申命記24章17節には、「寡婦の着物を質に取ってはならない」とあ
ります。
またそれに続く節に於いても、収穫物の一部は、寡婦などの貧しい人が自由
にとって食べることができるために残しておかなければならない、という規
定があります。
寡婦や孤児、外国人といった弱い立場の人を優しく配慮しなければならない
という規定がユダヤの社会にはあったのです。
ところが、今日のテキストの1節前の40節を見ますと、
また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このよう
な者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
とあります。
そのような配慮のある法も、しばしば無視され、やもめは虐げられていたの
です。
律法学者ですから、今挙げたような旧約聖書の法をよく知っていた人たちで、
むしろこのような法を人々に教える立場にあったのです。
しかし彼らは、やもめたちを手厚く配慮するのでなく、これを食い物にして
いたというのです。
これは、人の見ていない所で、蔭で行っていたのでしょう。
そして表面的には、敬虔を装って、長い祈りをしたり、また賽銭箱にたくさ
んのお金を入れていたのです。
しかし、主イエスは、何が真実かをはっきりとご覧になります。
この貧しいやもめは、生活費全部を入れたと言って、真実を称賛されていま
す。
ところで、このやもめは、生活費全部を献げて、明日の生活のことは心配
しなかったのでしょうか。
恐らくこのやもめには、神に対する全くの信頼があったのでしょう。
主イエスは、マタイによる福音書6章31節の山上の説教に於いて、
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、
思い悩むな。
と言われました。
私たちは、恐らく、このみ言葉には不安であり、全く服従することはできな
いのではないでしょうか。
むしろこのようなことに毎日思い悩んでいるのが現実ではないでしょうか。
しかしこのやもめは、このみ言葉に全く服従していたのではないでしょうか。
それだからこそ、生活費全部を賽銭箱に入れることができたのではないでし
ょうか。
主イエスは、このやもめの態度に「アーメン」と言って、全く感嘆されまし
たが、実はこのやもめの信仰に感心されたのです。
全く神に信頼しきった態度に。
この後主イエスは、十字架への道にと進まれることになります。
この十字架への道は、神の御心に全く服従する道でした。
そして主イエスは、このやもめの全く神に服従する姿に励まされて、十字架
への道へと歩まれたように思われます。
さて、私たちも、すべてを献げて主を礼拝することが求められています。
ローマの信徒への手紙12章1節には、次のようにあります。(P.291)
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これ
こそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
私たちには、自分の体を神に喜ばれる生けるいけにえとして献げるというこ
とが求められています。
そして、そのしるしとして私たちは礼拝において献金を献げます。
イスラエルに於いては、初穂を献げるという習慣がありました。
この初穂というのは、文字通り一番最初にできた実りですが、それはまた一
番良い収穫物ということでもあります。
そしてそれはまた、全部の収穫物の象徴でもあります。
全部を献げてしまったら実際の生活ができませんので、その気持ちを表すも
のとして、一番上等な初穂を献げたのです。
初穂を献げることで、全部を献げることを表したのです。
ですから、収入の残りを献げるのでなく、収入があったらまず神に献げる分
(初穂)を取っておいて、その残りを生活に使うのです。
そうするならば、神は私たちの真実をご覧になって、「アーメン」と言って下
さるでしょう。
額の多少ではなく、また表面的なことではなく、神は私たちの真実をご覧に
なるのです。
神は真実なお方であって、私たちを愛し、私たちに真実を示されます。
私たちも、神に真実を持って答えるものとなりたいと思います。