2004年2月1日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書12章28−34節    「最も重要な掟」
 
 お読み頂いたマルコによる福音書12章28節をもう一度読みます。
 
  彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答
  えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょ
  うか。」
 
主イエスは、エルサレムに入られると、ユダヤ教の指導者たちと論争されま
した。
前の13節以下の所では、皇帝への税金を納めるべきかという論争をファリ
サイ派の人たちとされました。
18節以下の所では、サドカイ派の人たちと復活のことで論争されました。
このサドカイ派の人々は、当時のユダヤ教で、ファリサイ派と並ぶもう一つ
の派で、政治権力と結びついていました。
彼らは復活はない、と主張していたのです。
 さて、今日の所に登場する一人の律法学者は、主イエスがいろいろなユダ
ヤ教の指導者と論争するのをそばで聞いていて、いずれも主イエスが優れた
答えをしたことに驚き、また尊敬したのでしょう。
そこで、自分が日頃思っていた質問を主イエスにしたのです。
これは、決して他の律法学者のようにイエスを陥れようとするものではなか
ったと思います。
むしろ、心からイエスに教えを乞おうと思ったのだと思います。
 この律法学者は、素直な精神の持ち主であったようです。
当時の真面目な律法学者は、ユダヤ教にある数多くの律法の中で、どの律法
が一番重要か、ということを問題にしました。
彼らは律法についての素人ではありません。
むしろ、普段は一般の人々に律法を教える立場の人たちでした。
しかし、彼らにしても、律法の本質は分からなかったのです。
そこで、イエスの所にそれを尋ねに来た人は、この律法学者だけではありま
せん。
10章17節に出てきた金持ちの男もそうでした。
彼はイエスに「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋
ねています。
ヨハネによる福音書3章の所では、ニコデモというユダヤ人の指導者が、夜
こっそりイエスの所にやって来て、「神の国に入るにはどうすればいいか」と
いうことを尋ねました。
また、パウロは、若い時に律法を一生懸命勉強しましたが、やはりこの律法
の本質の問題で悩んだようです。
そして、結局この問題では挫折したのです。
すなわち彼は、ダマスコ途上で復活のキリストに出会って回心し、律法によ
っては人は救われない、という結論に達しました。
パウロの中心思想であるローマの信徒への手紙の中心主題は、「人が義とされ
るのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」というもので
す。
パウロもやはり、ここに出てくる律法学者のように、律法の本質的な問題に
真剣に取り組んだのです。
 さて、この律法学者の真剣な問いに、主イエスはどう答えられたでしょう
か。
29−30節には、次のようにあります。
 
  イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、
  聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神
  を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しな
  さい。』
 
これは、旧約聖書の申命記6章4節からの引用です。
最初の言葉が、ヘブライ語でシェマーと言いますので、これはシェマーと呼
ばれています。
イエスの時代の熱心なユダヤ教徒は、朝夕これを唱えていた、と言われてい
ます。
従って、主イエスは当時のユダヤ人の多くが毎日唱えていたことを言われた
のであって、決して目新しいことを言われたのではありません。
この律法学者は、「なあんだ、こんなことなら百も承知だ」と思ったかも知れ
ません。
彼は、自分の知らない、もっと新しい律法をイエスが言うことを期待したか
も知れません。
しかし、イエスの答えは、日頃最も親しんでいる律法であったのです。
 そして主イエスは、もう一つの掟を示されました。
31節。
 
  第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つ
  にまさる掟はほかにない。」
 
これは、レビ記19章18節からの引用です。
これもユダヤ人には、日頃から親しんでいた聖句です。
決して新しいものでも、イエスに独特のものでもありません。
ただ主イエスに独特だと言えるのは、この二つを結びつけたことです。
ここでイエスは、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という質問
に対して、一つだけを答えられたのではなく、二つをしかもお互い密接に関
連するものとして示されたのです。
ここに主イエスの新しさがあります。
そしてこれは別々のものではありません。
最も重要な掟と言われた場合、当時のユダヤ人はやはり「心を尽くして神を
愛する」と考えました。
しかし、これはややもすると、形式主義、律法主義になってしまいます。
「神を愛する」と言うことから、当時重んじられていたのは、安息日厳守と
か、犠牲を献げるというようなことでした。
しかし、いくら沢山の犠牲を献げても、心がこもっていなければ、神の喜ば
れるものではありません。
このことは既にホセアやイザヤといった旧約の預言者たちが指摘しました。
イスラエルの預言者たちは、上層階級や金持ちがその富に任せて豪華な献げ
物を神殿で献げているが、一方では不正をして貧しい者から搾取していた現
実を批判しています。
ここで、この律法学者も、その預言者たちの意見を継承しています。
33節には、次のようにあります。
 
  そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人
  を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけ
  にえよりも優れています。」
 
そして主イエスは、この律法学者の答えを非常に評価しています。
主イエスが律法学者を誉めているのは珍しいことです。
しかし、律法学者の中には敬虔で真面目な人もいたのです。
 また、「神を愛する」ということから、当時は安息日が非常に重んじられて
いました。
しかし主イエスは、これが形式的になっているのを批判されました。
そして、安息日に病人を癒したことで、ファリサイ派の人たちから非常に非
難されました。
しかし、主イエスは、その第1の戒め(安息日)と第2に戒め(隣人を愛す
る)とは、切り離せなく密接に関連しているのだ、と言います。
否、むしろ、神への愛というのは、隣人愛によって実証されるものです。
あの「善いサマリア人のたとえ」では、そのことがいわれています。
祭司やレビ人は、神を愛するということを優先させたのでしょう。
すなわち、エルサレム神殿での仕事に遅れないように、道端で死にそうにな
っているユダヤ人を見過ごしにして行ってしまったのです。
しかし、今死にそうになっている人を助けることが、実は神を愛することな
のである、と主イエスは言われます。
主イエスは、マタイによる福音書25章40節で、
 
  はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にし
  たのは、わたしにしてくれたことなのである。
 
と言われました。
ここでは、もっと端的に、神を愛するということは、実は隣人を愛すること
なのだ、ということが言われています。
 さて、主イエスは、律法学者の「最も重要な掟は何か」という質問に対し
て、ユダヤ教の昔からの律法を引用されました。
主イエスは、当時の律法学者やファリサイ派の人々たちとしばしば対立しま
したが、しかし彼は律法を軽視されたのではありません。
むしろ、律法を重要視されたのです。
主イエスは、山上の説教の中で、
 
  わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
  廃止するためではなく、完成するためである。
 
と言われました。
ただし、当時のファリサイ派の人たちは、律法の表面的なことばかりを大切
にしましたが、主イエスは律法の本質を大切にされたのです。
この点で、しばしばファリサイ派の人たちとぶつかったのです。
表面的な信仰ではなく、本質的な信仰です。
ただ飾りとして信仰を持っているのでなく、その信仰に真に生きている、そ
してある時にはその信仰に命をかけるのです。
ここが一番大切な掟と知っていながら、お題目のように唱えていただけで、
それをただ飾りにしていたファリサイ派の人と、その本質を知り、かつ生活
においてそれにすべてをかけていたイエスとは、違っていたのです。
 私たちも、キリスト教の信仰をただ飾りのようにしていないでしょうか。
毎日の生活がキリスト教信仰に生きているでしょうか。
何が神の御心であるかを考えて生きているでしょうか。
いろいろな飾りを身につけている、いろいろな教義を身につけている、それ
らのほんの一部として、キリスト教信仰も身につけている、というのではな
いでしょうか。
そうではなく、信仰をただ飾りとするのでなく、それを私たちの生活の基盤
とすることが大切です。
他の何よりも優先して、キリスト教の信仰に生きるということが大切であり、
それが私たちの救いであり、生き甲斐なのです。
何か事故によってすべての財産を失ったとしても、普段の生活が信仰によっ
て生かされているならば、希望を失うことはありません。
自分に何の誇るべきものがなくても、信仰によって生きているならば、そこ
に喜びを見いだすことができます。
今まで健康であった人が、急に病気になり、明日死ぬかも知れない状態にな
っても、普段の生活が信仰によって生きているならば、絶望することはない
でしょう。
単なるアクセサリーではなく、本当の信仰を私たちは持ちたいものです。
 さて、主イエスは、最も重要な掟として、心を尽くして神を愛することと、
自分を愛するように隣人を愛することを挙げられましたが、実はこれははな
はだ困難なことです。
人間には不可能だ、と言ってもいいと思います。
ファリサイ派の人たちや律法学者は、これをすることによって救いに到達す
ることができると思っていました。
しかし、そこにはいろいろな欺瞞や偽りがありました。
パウロも、律法を完全に行うことによって救いに到達することができると思
い、それを一生懸命したようです。
しかし、それは実際にはできなかったのです。
その時知らされたのが、イエス・キリストの福音です。
自分にはできないが、キリストはそれをなしたもうた。
そのキリストを心から信じることによって、救いに至るという信仰義認に至
ったのです。
マルティン・ルターも同じような経験をしました。
 主イエスは、私たちの最も大切な掟を教えられましたが、それを教えただ
けでなく、それを自ら完全に行われました。
ローマの信徒への手紙5章6−8節には、次のようにあります。(P.279)
 
  実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不
  信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとん
  どいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
  しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちの
  ために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示さ
  れました。
 
キリストは、まさに律法の成就者です。
主イエスは、私たちの最も重要な掟を教えられましたが、これは私たちの力
でなすことは不可能です。
そうではなく、私たちはまず、私たちに代わってこのことを完全になして下
さった神の愛に目を向けなければなりません。
ヨハネの手紙一4章10−12節に次のようにあります。(P.445)
 
  わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたし
  たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに
  愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたの
  ですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見
  た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたち
  の内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされている
  のです。
 
神の愛に入れられていることを信じ、また私たちもその愛に応えていく者で
ありたいと思います。