2004年1月11日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書12章13−17節「皇帝のもの、神のもの」
 
 今日は、主イエスが、皇帝への税金問題によって、ファリサイ派の人たち
に陥れられようとした記事です。
ここで言われている皇帝への税金というのは、いわゆる人頭税で、支配者で
あるローマの皇帝が被支配国のユダヤの全住民にかけていた税金です。
全住民と言っても、男子は14〜65歳、女子は12〜65歳の人となって
いました。
ユダヤ人はこの他にも神殿税として全収入の10分の1をエルサレム神殿に
納めていましたので、このローマ皇帝に納める税は、彼らにとって非常に重
い負担のものでした。
そしてそれゆえに、この税に対しては、多くのユダヤ人は反発していたので
す。
しかしながら、強大な権力者に対しては、反抗するすべもなく、仕方なしに
納めていたのです。
そして、このローマ皇帝に納める税を徴収する役目を担っていたのが、徴税
人でした。
この徴税人は、同じユダヤ人でありながら、ローマの手先になって税を徴収
していたということで、ユダヤ人たちからは非常に嫌われていたのです。
とにかく、ユダヤ人は皆、ローマ皇帝に納める税金については、非常なる反
発を持っていたのです。
 さてここで、一般のユダヤ人が非常に反発を持っていたローマへの税金問
題について、ファリサイ派の人たちがイエスに質問に来た、というのです。
しかし彼らは、イエスに真面目にそのことを質問しようとしたのではなく、
そのことによってイエスを陥れようとしたのです。
 13節には、次のようにあります。
 
  さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサ
  イ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
 
ここで、「人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして」とありま
す。
すなわち、ユダヤ人たちが神経質になっているローマへの税金問題に対する
イエスの答えの言葉尻をとらえて、イエスを窮地に陥れようとした、という
のです。
ファリサイ派の人たちの目的は、イエスを窮地に陥れることであり、そのた
めにはこのローマ皇帝への税金問題を持ち出すことが一番いいと考えたので
す。
私たちの政治の世界や企業の世界においても、まずいことを言ってしまって
陥れられるというようなことがあるのではないでしょうか。
それにしても主イエスはなぜ、ユダヤ教の指導者たちに憎まれたのでしょう
か。
ファリサイ派のようなユダヤ教の指導者たちにとって、主イエスがガリラヤ
の田舎で貧しい民衆を相手に活動している間はまだよかったのです。
しかし、主イエスは自分たちの本拠地であるエルサレムにやって来て、しか
も多くの人たちの歓迎を受けました。
そして、主イエスはエルサレム神殿でかなり過激なこともされました。
11章15節には、次のようにあります。
 
  それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこ
  で売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰
  掛けをひっくり返された。
 
エルサレムの宗教指導者にとって、神殿を管理するのは自分たちだと思って
いたので、この事件は甚だしく彼らの権威を傷つけたことでしょう。
そこで彼らは、イエスを何とかして殺したかったのです。
しかし、今は多くの人々がイエスを支持しているので、うかつに手を出す訳
にはいかなかったのです。
 そこで彼らは、周到な準備をしたようです。
13節をみますと、ファリサイ派はヘロデ派と一緒にイエスの所にやって来
た、とあります。
「ヘロデ派」というのは、ヘロデ王家を支持するグループでした。
主イエスがお生まれになった時、ユダヤはヘロデ大王が治めていました。
この大王は、主イエスが生まれて2−3年して死に、その後ヘロデの領地は
3人の息子たちが分け合いました。
そして、ガリラヤを治めたのが、ヘロデ・アンティパスという人でした。
このヘロデ・アンティパスは、ローマ皇帝の支持を得て、ガリラヤの領主に
なり、ローマの委託を受けた徴税責任者でもあったので、ヘロデ・アンティ
パス派は当然納税支持の立場でした。
一方ファリサイ派は、ユダヤ主義者でしたから当然ローマへの納税には反対
の立場でした。
従って、本来ファリサイ派とヘロデ派とは敵対関係にあったのです。
しかしここで、主イエスを殺そうとすることにおいて一致した、というので
す。
 彼らはイエスの所にやって来て、いきなり税金の問題を切り出さずに、ま
ずイエスを誉めるのです。
14節前半で、彼らは次のように言いました。
 
  彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方
  で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔
  てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。
 
しかし、この賛辞は全くイエスにふさわしい言葉です。
主イエスこそ真実なお方であり、主イエスこそ人を分け隔てなさらず、主イ
エスこそ真理に基づいて神の道を教えられた方です。
これは、一種の信仰告白と言っていいでしょう。
しかし、どんな立派な信仰告白でも、それに従うということがなければ空し
いものです。
彼らは主イエスの教えに聞き従うという積もりは全くなかったのです。
従って、彼らのこの非常に的を得ているイエスに対する賛辞も、全くの空し
い言葉に過ぎません。
 次に彼らは、用意してきた質問をします。
そしてこれが、最初から彼らの目論んでいたことです。
14節後半。
 
  ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適
  っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないので
  しょうか。
 
これは非常に巧妙な質問です。
もしイエスが税金を納めなくてもよいと言えば、ローマ政府に反逆者として
訴えることができるのです。
そしてもし税金を納めるのが正しいと言えば、イエスはローマの支配に反発
を覚えていた大多数の民衆の支持を失うことになります。
どっちに転んでも、ファリサイ派の思う壺でした。
 しかし、主イエスは彼らの罠を見抜いておられました。
15節を見ますと、
 
  イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。
 
とあります。
彼らは口ではイエスの本質に対して正しいことを表明しましたが、イエスに
は決して従うつもりはなかったのです。
イエスに対して口では「真理に基づいて神の道を教えておられる」と言いま
したが、イエスの教えに聞くつもりはなかったのです。
そのようなファリサイ派の偽善を主イエスはちゃんと見抜いておられたので
す。
しかしこれは私たちも気をつけなければならないと思います。
キリスト者は、キリストのもの、キリストに従うものです。
私たちが本当にキリストの言葉に耳を傾け、キリストに心から従わないなら、
私たちも偽善者になってしまいます。
 さてここで、主イエスは彼らの質問に直ちには答えずに、デナリオン銀貨
を持ってこさせます。
16節。
 
  彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と
  言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
 
このデナリオン銀貨は、納税のために時のローマ皇帝が発行した硬貨でした。
古代社会においては、貨幣は王権の象徴であり、王は王位に就くと、直ちに
自分の貨幣を鋳造しました。
この当時の皇帝は、ティベリウスという人でした。
彼は地中海沿岸の諸民族を支配し、まさに絶対権力者でした。
彼は支配した国々から税金を取るためにデナリオンという銀貨を発行し、そ
れに自分の像を刻ませました。
そして、その記号には「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カ
エサル」と刻ませたのです。
これが16節で言われている肖像と銘です。
この皇帝は、自分のことを「善をなす者」とも呼ばせていたということです。
この世の権力者は、善をなす者という一般的な理解がありました。
税を取るのも、それで私腹を肥やすためではなく、国全体の安全と繁栄のた
めだ、住民全体の福祉のためだ、という考えです。
本来、王とか為政者というのは、そういう者です。
住民全体が幸福になるように心を配る者です。
私たちも税金を納めていますが、それで学校など公共のものが建てられたり、
道路が整備されたり、公共の福祉に役立つために多く使われています。
主イエスは17節で、「皇帝のものは皇帝に」と答えられましたが、そういう
意味で住民全体のために使われるなら、皇帝に税を納めてもいいではないか、
と言っているのです。
 しかし主イエスは、ただ「皇帝のものは皇帝に」、すなわちローマ皇帝に納
めるべき税金は納めたらいい、とだけ言われたのではありません。
その次に「神のものは神に返しなさい」と言われました。
税金を取るのは、権力者です。
その権力者の権威はどこから来るのでしょうか。
それは本来神から来ているのです。
否、唯一の権力者は、天地万物の創造者です。
地上の王は、本来、その神の意志に従って住民すべてのためによい政治をな
すべきものです。
しかし、当時のローマ皇帝は、自分の肖像を貨幣に刻ませて、その権力を多
くの民に誇示していたのです。
そして、その取った税は、すべての住民のために使わずに、もっぱら自分の
権力を強めるために、自分の富のために使われたのです。
従って、ここで「皇帝のものは皇帝に」と言われていますが、アクセントは
「神のものは神に返しなさい」ということにあります。
権力者が本来神から与えられた権威を、あたかも自分本来の権威として勝手
に用いていく所に問題があります。
神こそが本当の権威者であり、私たちを創造し、私たちを守り導き、この世
界を支配し、私たちに永遠の生命を約束されるのです。
この神の権威を離れて、この世の権威はありません。
 主イエスは何度かこの世の権力とぶつかりました。
それは、神のものを神に返そうとして、この世の権力とぶつかったと言って
もいいと思います。
 使徒信条には、3人の固有名詞が出てきます。
一人はもちろんイエス・キリストであり、もう一人はこのイエスを産んだ母
マリアです。
あと一人は、「ポンテオ・ピラト」です。
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とあります。
このポンテオ・ピラトは、当時のユダヤの総督であり、ユダヤでは一番の権
力者でした。
主イエスは結局、最後はこのユダヤの最高権力者の下した判決によって十字
架刑に処せられたのです。
それで使徒信条には、「ポンテオ・ピラト」という名が言われているのです。
 主イエスはここで、ファリサイ派に対して、「皇帝のものは皇帝に返していいではないか、それで彼もよいことをしてくれるであろう」と言っていますが、より重要なことは、神のものを神に返すと言うことです。
私たちにとって、本当の権威者は、神のみです。
その神に私たちは返すべきものを返しているでしょうか。
神のものを神に返すというのが、私たちの日々の生活になっているでしょう
か。
イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪を贖い、永遠の生命の約束を
与えられたこの神にのみ栄光を帰す生活、これが神のものを神に返す生活で
はないでしょうか。
そのために、主の栄光をたたえる礼拝を全生活の中心になすべきではないで
しょうか。