2003年11月16日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書12章1−12節  「不思議に見える業」
 
 今日のテキストは、主イエスが「ぶどう園の農夫のたとえ」をされた箇所
です。
1節。
 
  イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、
  垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに
  貸して旅に出た。
 
主イエスは、しばしば譬えで語られました。
譬えは、人間に知られていない神の秘儀を説明する一つの方法でした。
例えば、主イエスはしばしば「神の国」のことを譬えで話されましたが、「神
の国」というのは一般の人には知られていないものです。
そこでこれを、だれでもが知っている「からし種」を用いて説明されたのです。
そして主イエスは、神の国を譬え以外では語りませんでした。
今日のところでは、主イエスはご自分の死について譬えで語られたのです。
 主イエスは、この譬えをファリサイ派や律法学者に語られたようです。
1節に「彼らに」とありますが、これはファリサイ派や律法学者などのユダ
ヤ教の指導者が意図されています。
それは、12節に「 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを
話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとした」と言われていること
から分かります。
 さて、譬えの内容ですが、「ある人がぶどう園を作り」とありますが、こ
の「ある人」というのは、神が意図されています。
ぶどう園は旧約聖書において、しばしばイスラエルの民を表しました。
パレスチナに於いてぶどうは最も大切な植物でしたので、神によって選ばれ
た最も大切なイスラエルの民の比喩として使われたのです。
この主人はぶどう園に、いろいろな設備を作って、人々が働きやすいように
しました。
この主人の細かな配慮と言うことが窺われます。
ここには、神がイスラエルの民を選んで、これを守り導かれたことが言われ
ています。
そして、ぶどう園の主人は、旅に出た、とあります。
すなわち、農夫は主人の干渉なしに自由に働くことができたのです。
それは、人間には自由が与えられている、ということが意図されています。
これは、エデンの園におかれた最初の人間もそうでした。
園にあるどの木からも自由にとって食べてよかったのです。
そして神は、それをいちいち干渉されなかったのです。
しかし神は、人間が神の御心に従うことを信頼して、人間に自由を与えられ
たのです。
その神の御心は、園の中央にある木からだけは取って食べてはならない、と
いうことでした。
しかし、人間は蛇の誘惑によって、神に御心に従うことができなかったので
す。
 今日の譬えにおいても、ぶどう園の主人は、農夫たちに設備の整った畑で
自由に働くことを許したのですが、それはやはり主人の意志に従って欲しい
という期待を持ってのことでした。
 神は、私たちに基本的に自由を与えて下さっています。
しかしそれは、私たちが自分の意志で神の御心に従うようにとの期待のもと
においてです。
私たちは、いちいちこれをしなければならない、これはしてはならない、な
どという戒律はありませんが、神の御心が何であるかということを常に考え
て行動することが期待されているのです。
 2節。
 
  収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫た
  ちのところへ送った。
 
この主人と農夫との間には、一定の契約があったようです。
それは、農夫たちはぶどう園を自由に使っていいが、その代わりに収穫物の
一部を主人に納める、というものでした。
このようなことは、当時のパレスチナに於いてはよくあったようです。
そこで、収穫の時になったので、主人は僕をぶどう園に遣わして、約束のも
のを受け取りに行かせた、というのです。
これは契約に則った当然の行為でした。
しかし、この農夫たちは、送られた僕を袋だたきにして、何も持たせないで
帰した、というのです。
ここで普通の所有者なら、契約違反ということで、直ちに強行手段に出ると
ころです。
軍隊を送って農夫たちを捕らえることもできたでしょう。
しかしこの主人はそうはしなかったのです。
そうではなく、別の僕を遣わしたのです。
しかし、農夫たちは、今度はその僕の頭を殴って、侮辱した、というのです。
しかし、今度も主人は忍耐し、もう一人の僕を送った、というのです。
しかし、今度は農夫たちは、その僕を殺した、というのです。
それでも主人は忍耐し、また別の僕を送りました。
そして何度も繰り返しました。
農夫たちは、それらを殺した、というのです。
この農夫たちの行動もはなはだ非常識ですが、この主人の忍耐力も異常です。
農夫たちは、イスラエルの支配者をさしていますが、送られた僕というのは、
預言者をさしています。
イスラエルの預言者は、神の言葉を人々に伝えるために召された者ですが、
彼らの伝えた言葉はしばしばイスラエルの指導者たちを批判したので、迫害
を受けました。
初代教会で最初に殉教したステファノは、自分も旧約聖書の預言者の系統だ
と思っていたようです。
そして、殉教する前に次のように言っています。
使徒言行録7章52節。(P.227)
 
  いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいた
  でしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しま
  した。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。
 
これはいささかオーバーな言葉のように思えるかも知れませんが、しかし実
際旧約の預言者たちは、多かれ少なかれ、当時の権力者によって迫害を受け
ました。
エリヤの時代は、その迫害が最も激しかった時代です。
エリヤ以外の主の預言者は、イゼベルによって殺され、エリヤがただ一人残
りましたが、山奥に身を隠さなければなりませんでした。
アモスもイザヤもエレミヤも、多かれ少なかれ迫害にあっています。
主イエスの譬え話で、ぶどう園の主人から遣わされた僕がことごとく殺され
るのは、この旧約聖書の預言者を暗示しています。
 6節。
 
  まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』
  と言って、最後に息子を送った。
 
ここでの主人の行為は理解をはるかに超えています。
今まで僕を何人送ってもことごとくひどい目にあった訳ですから、普通なら
そんな危険なところに最愛の息子を送るなどという考えは起こらないと思い
ます。
しかし、この主人は、とんでもないお人好しというか、まだ相手に期待を持
って、最愛の息子を遣わすのです。
実に不思議な行為です。
普通の常識では考えられないことです。
神が主イエスをこの世に送られたというのは、このような普通ではとても考
えられない、実に不思議に見える業です。
ここに、神の側のとてつもない大きな恵みがあります。
神の恵みというのは、本当は私たち人間にはとても理解できない不思議な業
なのです。
主イエスは、このことをしばしば譬えを用いて話されています。
例えば、マタイによる福音書18章には、王に1万タラントンの借金を赦さ
れた男の話があります。
この1万タラントンというのは、今のお金になおしたら、数10億、あるい
は数100億円位の途方もない金額です。
一生かかってもとても返せないほどの借金です。
この譬えは、このように一生かかっても返せないような借金を赦された男が、
その帰り道で、100デナリオン(20万円位)を貸していた友人に会い、
それを待ってやることができなかった、というのです。
20万円は確かに大金です。
しかしこの男は、その何倍ものお金を許されていることを忘れているのです。
その額があまりに大きくて、考えられないのでしょうか。
しかし、主イエスは、神の恵みというものを人々に教えるのに、私たちが大
金だと思っている100デナリオン(20万円)よりもはるかに大きい、
というのです。
私たちが現実に誰かに20万円もらったとするなら、どんなに大喜びする
でしょうか。
しかし、その何倍、何百倍、否何千倍もする恵みを神から与えられているこ
とは、当たり前のようにして、それほど感謝していないのではないでしょう
か。
 今日の譬えでも、農夫たちは、主人の愛を全く理解せずに、その愛する息
子を殺した、というのです。
7−8節。
 
  農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そう
  すれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、
  ぶどう園の外にほうり出してしまった。
 
恩を仇で返すというのはまさにこのことです。
これは少々オーバーな譬えと思われるかも知れませんが、しかし実際イスラ
エルの歴史は、神に背き続けた歴史でした。
とりわけ、その指導者のあり方はそうでした。
そして、この主イエスの譬えを聞いていた律法学者たちは、それが自分たち
のことだと分かった、というのです。
12節。
 
  彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づい
  たので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエス
  をその場に残して立ち去った。
 
しかし、ユダヤ教の指導者たちは、この極悪非道な者たちが、自分たちをさ
していると分かっていながら、それを悔い改めないのです。
人間、自分の罪を指摘されたら悔い改めるかというと、必ずしもそうではあり
ません。
自分の罪を指摘した者を憎み、それに反抗するのです。
イスラエルの預言者たちが迫害されたのも、事情は同じです。
すなわち、彼らは神から与えられた言葉を告げ、特に支配者の罪を指摘した
ので、支配者に憎まれ、迫害されたのです。
そのような時に、本当に自らを省みて、悔い改めることは難しいのです。
そこで聖書では、悔い改めの心がもっとも神の喜ばれることである、という
ことが言われています。
主イエスは、「見失った羊の譬え」に於いて、迷い出た羊が見つかった時、
 
  言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改
  める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にあ
  る。
 
と言われました。
 さて、今日の譬えで、農夫たちが非道にも主人の最愛の子供を殺してしま
いましたが、それを通して神の御業を行われたのです。
ここに、私たち人間には捕らえることのできない神の深い御旨があります。
10節には、次のようにあります。
 
  聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
  『家を建てる者の捨てた石、
  これが隅の親石となった。
 
これは詩編118編からの引用です。
人間の目には何の価値もないように思われる捨てられた石が、家の土台とな
る親石となった、というのです。
詩編の記者も、これは「私たちの目には不思議に見える」と告白しています。
神の御業は、私たちには捕らえることのできない不思議な業です。
この捨てられた石は、もちろん主イエスのことです。
彼は何の価値もない人間のように十字架にかけられて死んだのです。
しかし、このイエスから、真の救いが私たちに与えられたのです。
私たちは、ただ神のなさる不思議な業を思い、これに感謝するしかありませ
ん。
そのような方法で神は私たちを愛し、救いに入れて下さるのです。
私たちもこの神の愛を少しでも悟り、感謝を献げる者でありたいともいます。