2003年10月12日 マルコによる福音書11章20−26節
「信じて祈る」
お読み頂きましたマルコによる福音書20−21節をもう一度読みます。
翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れてい
るのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧
ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
ここで主イエスは、いちじくの木を呪ったとありますが、これは前日のこと
です。
12−14節には以下のようにあります。
翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、
葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄
られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったから
である。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実
を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
ここで主イエスは、いちじくの木に対して呪い、そして次の朝それが枯れて
いたというのです。
イスラエルにおいていちじくは、オリーブと共に重要な植物でした。
そこでいちじくは、しばしばイスラエルの民を象徴するのに用いられました。
ここにおいても、このいちじくはイスラエルの民を象徴していると考えられ
ます。
イスラエルは元々、神によって選ばれた神の民でした。
イスラエルの民は最初エジプトで奴隷でしたが、その苦しみの声を神が聞か
れ、モーセを送ってエジプトから救出したのです。
その後シナイ山で契約を結び、ヤハウェがイスラエルの神になり、イスラエ
ルはヤハウェの民になるという契約を結んだのです。
これは、シナイ山で結ばれたので「シナイ契約」とも言われますが、旧約と
いう「古い契約」はこれを指しています。
そしてイスラエルの民は、神の民としてふさわしく歩むために十戒を中心と
する律法を与えられたのです。
イスラエルの民は、神の民として、この律法に示されている神の御心に従っ
て歩むように求められたのです。
しかしイスラエルの民は、その歴史において、神の御心に忠実ではなかった
のです。
そしてイエスがここでいちじくの木を呪われたというのは、そのような神に
不忠実なイスラエルがもはや神の民ではない、という呪いでした。
そして、主イエスご自身が、不忠実なイスラエルの民に代わって、神の御心
に従う道を歩まれたのです。
そしてここに、古い契約に代わって、新しい契約が立てられたのです。
この新しい契約は、イスラエルの民に対してだけはなく、すべての人々に対
するものでした。
それゆえに、私たちもこの新しい契約に入れられているのです。
さてここでペトロは、昨日主イエスが呪われたいちじくの木が枯れている
のを見てびっくりしたのでしょう。
主イエスは奇跡を起こすことができると実感し、大いなる力を持っているお
方だと恐れたようです。
このペトロの言葉には、主イエスに対する驚嘆と尊敬の思いが言い表されて
います。
しかし主イエスはここで、いちじくの木が枯れたことにはもはや触れておら
れません。
ご自分の奇跡行為について自慢したり、イスラエルの民がなぜ呪われたのか
という説明はされていません。
そうではなく、ペトロをはじめ弟子たちに、「神を信じなさい」と言います。
主イエスにとって重要な関心は、実を結ばなかったイスラエルの民に対する
神の裁きにあるのではなく、これから実を結ぶ新しいイスラエルにありまし
た。
そこで主イエスは、新しいイスラエル、すなわちキリスト教会の中心メンバ
ーになるはずのペトロに対して、最も重要なことをいうのです。
それは、決して難しいことではありません。
また、複雑なことでもありません。
「神を信じなさい」ということだけです。
以前の古いイスラエルにおいては、最も重要なことは、神の民として、神に
与えられた律法を忠実に守るということでした。
ところが、この律法たるや、非常に複雑であり、それを細かいところまでき
ちんと覚えたり、正しく解釈したりということは至難の業でした。
今でも司法試験に合格するというのは並大抵ではありませんし、合格する人
は非常に能力のある人でしょう。
当時の社会においても、律法学者は社会のエリートでした。
彼らは小さい時から律法を教えられ、高度の教育を受けたのです。
パウロも、そのような環境の中で育ったエリートでした。
しかし彼らは、律法はよく知り、知識には優れていましたが、神の御心を行
うことができなかったのです。
その結果、神の御心を忠実に行われたイエスを十字架にかけて殺してしまう
ことになったのです。
しかし、主イエスは、弟子たちにそのような複雑な、難しい律法の教育は
されなかったのです。
ただ、「神を信じなさい」とだけ言われました。
しかも、その信仰も非常に単純です。
23節を見ますと、次のようにあります。
はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛
び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるなら
ば、そのとおりになる。
「はっきり言っておく」とありますが、この「はっきり」と訳されている語
は、ギリシア語ではアーメンです。
主イエスは、重要なことをいう時に、しばしばこのアーメンで始めます。
「この山」というのは、オリーブ山のことと思われます。
そして「海」というのは、死海のことでしょう。
晴れた日には、オリーブ山から死海がきれいに見えると言われます。
山が動いて海に入るということは、私たちの頭では考えられないことです。
仮に私たちが、山に向かってそんなことを言ったところで、山は決して動か
ないでしょう。
よほど信仰の強い人が言えば、あるいは動くのでしょうか。
しかしそんなことはあり得ないようにも思えます。
主イエスがここで言おうとされているのは、山が動くという超自然的な現
象ではなく、「神を信じる」ということです。
同じ記事を伝えているマタイによる福音書17章20節には、
はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山
に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりにな
る。
とあります。
信仰の大小ではありません。
「からし種1粒ほどの信仰があれば」といわれています。
からし種というのは、非常に小さいものを言い表す時の比喩に使われます。
これは非常に極端な言い方ですが、信仰というのはそういうものだ、という
のです。
すなわち、大きな信仰か小さな信仰かというのでなく、信じるか信じないか、
ということなのだということです。
ここで何を信じるかというのは、もちろん22節にあるように「神を信じる」
ということです。
私たち人間は、神を信じるか、信じないかのどちらかです。
そこで、山を移すというのは、私たちの信仰の力によるのではありません。
私たちが信仰の修行をして、努力すれば、やがて山をも移すことができるよ
うになる、というのではありません。
最近、超能力のようなことができると言って、インチキまがいのことをする
団体があります。
一種のカルトだと思います。
ハンドパワーとか言って、コップの水を甘くするとか、病気を治すとか宣伝
して、高額な会費を取って、会員を集めるのです。
家族の病気を治してもらいたい一心で、高額な会費を払ってセミナーを受け
ても、いっこうにハンドパワーなるものが身に付かず、家族の病気も治せな
いという苦情が出たりしています。
人間の弱みにつけ込んだこのような詐欺まがいのことは、後を絶ちません。
このようなことは信仰でも奇跡でもありません。
ここで主イエスはもちろん、信仰を持てばそのような不思議な業を行うこ
とができると言っているのではありません。
また、弟子たちにそのような力を伝授されたのでもありません。
そうではなく、ただ「神を信じなさい」ということです。
神は山をも移すことができる方である、と信じることです。
私たちにはできなくても、神にはできるという信仰です。
10章27節で主イエスは、次のように言われました。
人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。
また、主イエスは、信じることと共に祈ることを強調されました。
24節。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさ
い。そうすれば、そのとおりになる。
ここで主イエスは、信じて祈ることの重要さを言われています。
この祈りは、もちろん旧約聖書からの伝統です。
詩編はその全体が祈りである、といってもいいと思います。
主イエスもこの祈りを常に大事にされ、弟子たちにも常に祈るように教えら
れただけでなく、ご自分も絶えず祈られました。
そして、弟子たちには簡単な祈りとして「主の祈り」を教えられました。
そして、ここで主イエスが主張されているのは、信じて祈る、ということで
す。
そもそも、神を心から信じていないなら、神に祈るということもできないで
しょう。
生半可な信仰で祈っても、それは神に聞かれません。
神にすべてを委ねて祈る時、その祈りは必ず聞かれるのです。
神を信じ、神には何でもできないことはない、と信じて祈るということが大
切です。
そして主イエスは、祈りと赦しを関係づけられました。
25節。
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、
赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの
過ちを赦してくださる。」
私たちが祈るという時、往々にして「あれが欲しい」とか「これが欲しい」
という願望ではないでしょうか。
しかしここでは、祈ることと赦すことが同列に置かれています。
私たちの祈りで最も基本的なのは、私たちの罪が赦されるようにということ
です。
主の祈りでは「われらが罪を赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈
ります。
主イエスの十字架上での祈りは、ご自分を十字架にかけた人々を「赦したま
え」という祈りでした。
私たちが神に祈るという場合、まず私たちが神に罪赦されているからこそ
祈ることができるのです。
そこで祈る時、私たちも他の人を赦さなければならないのです。
しかし私たちは、中々他の人を赦すことができないのです。
そしてそれは、私たちが神からいかに大きなものを赦されているかが分かっ
ていないからなのです。
マタイによる福音書18章21節以下に、主イエスのされた「仲間を赦さな
い家来の譬え」という話があります。
ある家来が、王様から1万タラントンという一生かかっても返せないような
借金をしていました。
最初王様は、その借金を返すように厳しく迫ったのですが、その家来を哀れ
に思って、ついにはその借金を帳消しにしてやったというのです。
しかし、その帰りに、その家来は、100デナリオンを貸していた仲間にあ
った時、その返済を迫り、返せなかったので牢に入れた、というのです。
自分の借金していた1万タラントンと仲間に貸していた100デナリオンと
を比較すれば、比較にならないほどの金額でした。
これは譬え話ですが、ここで主イエスは、私たちがいかに大きなものを神か
ら赦されているか、ということを言おうとされたのです。
私たちは、それほど大きなものを神から赦されているということが中々分か
らないのです。
ですから、他の人にも中々寛容になれないのです。
私たちが神から大きなものを赦されていることを信じる時、他の人をも赦す
ことができるのではないでしょうか。
神を信じて祈る時、私たちは他の人を赦すことができるようにという祈りを
したいと思います。