2003年9月14日 マルコによる福音書11章1−11節
「子ろばに乗って」
マルコによる福音書は11章より「イエスの受難物語」に入ります。
ある新約学者は、マルコによる福音書は長い序文のついた受難物語だ、と言
いましたが、ここからいよいよマルコの主張しようとすることが始まる訳で
す。
1節。
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲと
ベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとし
て、
オリーブ山というのは、エルサレムの東に位置する山で、山頂は800メー
トル位です。
そこからは、エルサレムの町が一望に見渡せます。
京都でいうとちょうど大文字山のような感じです。
私たちも先年のイスラエル旅行において、オリーブ山にも行きました。
私たちが行った時は、異常気象だったのでしょうか、何十年ぶりにエルサレ
ムに雪が降った時で、オリーブ山から雪景色のエルサレムを見ることができ
ました。
良子がそれを絵にしました。
さて、オリーブ山のふもとにベトファゲとベタニアの村がありました。
オリーブ山は、旧約聖書のゼカリヤ書においては、来るべき時にメシアが現
れる所とされていました。
ゼカリヤ書14章4節には、(P.1494)
その日、主は御足をもって
エルサレムの東にある
オリーブ山の上に立たれる。
と記されています。
このゼカリヤの預言の通り、主イエスは最後の1週間、このオリーブ山の付
近で過ごされたのです。
あの血の汗を流して祈られたゲッセマネの園も、このオリーブ山にありまし
た。
さて、主イエスは、このオリーブ山のふもとに来た時に、二人の弟子を使
いに出されました。
この二人が十二弟子のだれであったかは、記されていませんので分かりませ
ん。
2−3節。
言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗っ
たことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連
れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言っ
たら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いな
さい。」
ここで主イエスは、二人の弟子たちに子ろばを連れてくるように命じられま
した。
それは、その子ろばに乗ってご自身がエルサレムに入られるためでした。
このことは、先ほどのゼカリヤ書において預言されています。
ゼカリヤ書9章9節には、次のようにあります。(P.1489)
娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
これは主イエスが生まれるよりも300年も前のひとりの預言者の預言です。
この預言者は、やがてエルサレムにひとりのメシアが現れるが、このお方は
ろばの子に乗ってやって来る、と預言したのです。
しかし、この預言は、当時の考えからすると、非常に変わっていました。
なぜなら、世を救う英雄であるメシアは、一般には威風堂々とした馬に乗っ
て、さっそうと登場する、と考えられていたからです。
ろばに乗る英雄などは、ほとんど考えられなかったのです。
ろばに乗る姿というのは、余り格好のいいものではありません。
英雄というイメージは全くありません。
どちらかというとみすぼらしい姿です。
ろばは、昔から、人間に使われている家畜です。
主に人や荷物を運んだり、土を耕すために用いられてきました。
昔から最も人間に親しまれた動物です。
しかし、ろばは格好のいい動物ではありません。
主役としては登場しません。
いつも陰に隠れた脇役です。
その点、馬は非常に目立つ動物です。
戦争には、もっぱら馬が使われました。
白馬にさっそうとまたがっているのが英雄の姿でした。
また、ろばは愚鈍な動物とされていました。
「ろばのように」というのは、「愚かな」という意味で使われました。
世を救うメシアが、人々の歓迎に応えてエルサレムに入城するには、このよ
うな小さな少し愚かな、見栄えのしないろばよりも、格好のいい白馬に乗っ
て、さっそうと入城する方がふさわしいと思われたでしょう。
事実、当時、凱旋する王は、白馬にまたがって、さっそうと行進したのです。
凱旋門などに飾られている英雄の像は、ほとんど馬にまたがったものです。
しかし、主イエスは、そのような格好のいい馬ではなく、見栄えのしない
小さなろばを選んで、それにお乗りになりました。
白馬は確かに見栄えもいいし、速く走ります。
そして、そのことによって、古くから戦争に使われました。
しかし、ろばは戦争には使われませんでした。
戦争には役に立たなかったのです。
それ故、ろばは平和の動物とされました。
主イエスが、平和の動物とされていたろばに乗られたということは、まさに平和の主にふさわしかったのです。
先ほどのゼカリヤ書9章9節には、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」
とありました。
ろばは高ぶらないのです。
この「高ぶることなく」と訳されている語は、元々は貧しいとか、権力のな
い、ということを意味しました。
また、謙遜をも意味しました。
主イエスは、まさに貧しいお方であり、この世の権力を求めず、自らへりく
だられたのです。
主イエスがろばに乗られたということは、権力の道に歩むためではなく、最
もへりくだりの道、すなわち十字架への道を歩むためだったのです。
主イエスは、
わたしは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのである。
と言われました。
さて、主イエスは、弟子たちの連れてきた子ろばに乗られました。
7−8節には、次のようにあります。
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服
をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道
に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷
いた。
このろばには、鞍がなかったので、弟子たちは主イエスのために自分の服を
その上にかけました。
そして多くの人々が自分たちの服を道に敷いた、とあります。
この多くの人々は、もうすぐ行われる過越祭のために各地からエルサレムに
集まってきていた巡礼者たちだったでしょう。
この時期、エルサレムの周辺のベトファゲやベタニアには、そのような各地
から来た巡礼者が多く泊まっていました。
この中には、主イエスの故郷ガリラヤから来た人も多くいたことでしょう。
そして、主イエスの話を聞いた人、また主イエスが病人を癒したのを見た人
たちもいたことでしょう。
自分の服を脱いで道に敷くというのは、王を歓迎する時のやり方でした。
従って、ここで人々は、主イエスをあたかも王のようにして歓迎したのです。
また、他の人々は葉の付いた枝を道に敷いた、とあります。
これは恐らく、服を敷くことのできない貧しい人々が、その代わりに敷いた
のでしょう。
ヨハネによる福音書の記事によりますと、それはなつめやしの枝であり、道
に敷いたのではなく、手に持って迎えた、とあります。
本来はどちらであったかはもやは分かりません。
とにかく、エルサレムに巡礼に来ていた多くの人々は、主イエスを大歓迎
したのです。
9−10節。
そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
時は、過越祭の少し前なので、各地から多くの巡礼者が集まっていたと思わ
れます。
「ホサナ」というのは、詩編に出てくる語で、「救いたまえ」という意味で
す。
しかし、イエスの時代には、「ホサナ」は、恐らく神の最終的な助けを呼び求
める叫びとして、極めて終末的な響きをもっていました。
すなわち、人々は主イエスがユダヤ人に最後の助けをもたらすお方だと期待
したのです。
10節に「我らの父ダビデの来るべき国」とあります。
ダビデというのは、紀元前1000年頃に、すなわち主イエスの時代より千年位
前に、イスラエルに強大な国を打ち立てた人物です。
今、ユダヤはローマの支配下に苦しんでいますが、最後の時にメシアが現れ
て、その苦しみから救い、ユダヤをダビデの国のような強大な国にする、と
いう期待があったのです。
そして民衆は今、それをろばの子に乗ったイエスに期待したのです。
そこでこのように大歓迎をしたのです。
しかし、人々は、主イエスがエルサレムに入っていく本当の意味を知らな
かったのです。
それが十字架への道だとはだれも予想しなかったのです。
そこで、自分たちの期待とは違っていたので、大歓迎した民衆も、数日後に
は、イエスを「十字架にかけよ」と叫んだのです。
人間は自己中心的な存在です。
神に対しても、自分の期待を押しつけるのです。
神とは、自分の願いを叶えてくれるものだ、と願うのです。
しかし、自分の期待通りでなかったり、自分の願いを叶えてくれなければ、
逆に失望するのです。
しかし、真実の神は、人間の思い通りに動くお方ではありません。
自分の願いをかなえてくれるのを神に求めるのは、偶像礼拝です。
聖書の神は、人間の期待に応えてくれる神ではありません。
人間の思い通りに動くものではありません。
聖書の神は、生きて働くお方です。
神の側に意志があり、御旨があり、計画があるのです。
私たちの願いを神が叶えるのではなく、神の御旨に私たちが従うのです。
主従の関係は逆なのです。
そして、神の御旨は、私たちの目先のことだけしか考えない、自己中心的な
思いではなく、はるかに深く広いものです。
人々は、ローマの支配から解放されて、ダビデの国ような強大な国の復興
を期待したかも知れませんが、神の御旨はユダヤの政治的な解放ではなく、
全人類の救いだったのです。
神の子が苦しみを受け、十字架につけられて、私たちの罪が贖われることが、
神の御旨だったのです。
主イエスが凱旋将軍のようにではなく、十字架の道を歩むことが神の御旨だ
ったのです。
そして、主イエスはそれに従順に従われたのです。
そしてそのために主イエスは、さっそうとした白馬にではなく、みすぼらし
い子ろばに乗られたのです。
主イエスが子ろばに乗られたのは、神に対する従順を表しています。
これは、主イエスが神と人とに仕える姿を象徴しています。
そして、この従順によって、私たちの罪が贖われたのです。
私たちは、常に自己中心であり、神の御旨を求めることよりも、自分の願い
や欲を優先しがちです。
私たちは、主イエスの従順を覚え、私たちも神に対して、従順な者となりた
いと思います。