2003年8月24日   マルコによる福音書10章46−52節
         「信仰による救い」
 
 マルコによる福音書は11章からいわゆる「受難物語」に入ります。
ドイツの有名な新約学者が、かつてマルコによる福音書は長い序文のついた
「受難物語」だ、と言いましたが、マルコの関心の中心は主イエスに受難に
あるということができます。
今日の記事は、その「受難物語」の直前の記事ということになります。
 46節。
 
  一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、
  エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイとい
  う盲人の物乞いが道端に座っていた。
 
主イエスは、いよいよ十字架にかかるためにエルサレムに行こうとされてい
ます。
彼は、ガリラヤから東ヨルダンを通り、そしてヨルダン川を渡って、エリコ
の町にやって来ました。
このエリコは、エルサレムの東27キロの所にありました。
かつて、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、ヨルダン川を渡って、ま
ずエリコを占領しました。
 さて、主イエスがエリコに入られた時、ひとりの盲人が道ばたで物乞いを
していました。
この盲人は、ティマイの子でバルティマイという人でした。
ここで注目すべき事は、この盲人の名前が記されていることです。
古代社会において、名前が記されるのは特別な場合です。
社会的に有名な人とか、地位の高い人などです。
しかし、聖書においては、必ずしもそうではありません。
少し前の17節には、金持ちの男の話がありました。
恐らくこの人は、社会的にも地位の高い人だったように思えます。
しかし、名前は記されずに、「ある人」といわれているだけです。
普通なら、この金持ちの人の方が名前が記され、物乞いをしていた盲人の方
が名前が記されないと考えられるでしょう。
しかし、聖書においては、そのような社会的な地位などで判断されるのでは
ありません。
恐らく主に対する信仰ということからすると、この盲人の方が名前が記され
るに値するとされたのでしょう。
旧約聖書には、天には名前の記された書があるという信仰がありますが、そ
の名前は、社会的な地位などのこの世的な判断から記されているのではない
でしょう。
私たちにとっても、この世的に名前が知られるよりも、天の書に名前が記さ
れる方が重要なのではないでしょうか。
 47節。
 
  ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐
  れんでください」と言い始めた。
 
彼はイエスに対して、「ダビデの子イエスよ」と言いました。
この「ダビデの子」という称号は、マルコではここだけにしか出ません。
これは、イスラエルにおいては、やがて来るであろうと期待されたメシアに
対する称号でした。
初期の教会において、イエスを何と呼ぶかと言うことでいろいろ言われまし
た。
もっともポピュラーなのが「主」とか「キリスト」ですが、そのうちの一つ
に「ダビデの子」というのもありました。
これは、文字通り、イスラエルを救うのは、イスラエルの偉大な王ダビデの
子孫から生まれるという信仰からでした。
マタイによる福音書のはじめは系図で始まっています。
聖書の冒頭になぜこんなに名前ばかり並べられているのかと疑問に思う人も
いるでしょう。
これは、イエスがダビデの子(子孫)であることを示すためです。
この盲人は、ナザレのイエスが、「ダビデの子」、すなわちメシアである、と
思ったのです。
彼は盲人ですから、肉眼でイエスを見ることはできなかったでしょう。
そして、イエスの話を直接聞いたこともなかったでしょう。
しかし彼は、イエスの本質を見抜いていたのです。
目には肉眼と心眼があります。
そして、信仰のことは心眼で捕らえなければなりません。
否、霊の目、すなわち「霊眼」によって捕らえるのです。
いくらよく見える目があっても、信仰の本質を捕らえることのできない人も
います。
この盲人は、心の目によって、あるいは霊の目によって、イエスの本質を捕
らえたと言っていいと思います。
ここにこの盲人の信仰があります。
 48節。
 
  多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの
  子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
 
ところが、周りの人々はこの盲人が激しく叫ぶのを黙らせようとしたのです。
きっと、忙しいイエスによってこんな人と関わり合っている暇はない、迷惑
だ、と判断したからでしょう。
少し前のところで、イエスに祝福してもらおうと子供たちを連れてきた人々
を、弟子たちが叱った、と言う記事がありました。
ここでは、弟子たちではなく、一般の民衆がこの盲人を妨げたというのです。
しかし、この盲人は、そのような圧力にもめげず、いっそう激しく叫んだ、
とあります。
大勢の人に咎められたら、よほど強い信念がない限り、それに負けてしまい
ます。
しかし、本当に確信がある場合、いかなる圧力にも負けず、それを押し通す
ことができるでしょう。
この盲人は、恐らく、日頃は人々から無視され、人々に自分を主張するとい
うことはなかったでしょう。
しかし、ここでは一歩も譲っていません。
 49節。
 
  イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は
  盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
 
主イエスは、熱心に求めるものの声を決して無視されません。
そこで、「あの男を呼んできなさい」と言われます。
そこには、このバルティマイの叫びに応えようとする断固たるイエスの意志
があります。
「あの男を呼んできなさい」というのは、主イエスの招きです。
主イエスの招きは、だれも妨げることはできません。
そして、この招きを私たちも受けているのです。
そして、私たちは、この主イエスの招きに応えて、毎週礼拝に来ているので
す。
主イエスの招きがなければ、だれひとりとして、礼拝に来ることはできませ
ん。
私たちが教会に来ているのは、当たり前のように思っているかも知れません
が、まず主イエスの私たちに対する招きがあったのです。
ここで、主イエスが大勢の群衆の中にいるバルティマイに目を留められたよ
うに、多くの人々の中にある私たちに主イエスの方から目を留めてくださっ
たのです。
 50節。
 
  盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
 
主イエスの招きを受けたバルティマイは、大喜びでイエスの所に来ました。
「躍り上がって」とあります。
彼は主イエスに応えてもらい、本当に嬉しかったのでしょう。
 51節。
 
  イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見
  えるようになりたいのです」と言った。
 
ここに主イエスとバルティマイとの人格的な出会いが起こりました。
主イエスは、彼に優しく「何をして欲しいのか」と聞かれます。
これは、親が子に対する態度です。
親は常に、自分の子が何を求めているかを思うものです。
自分の子が何かで苦しんでいるなら、親はそれを取り除いてやりたいと思う
でしょう。
そして、できることなら、その望みを叶えてあげたいと思うでしょう。
主イエスはここで、この盲人の今までの苦しみを思いやったことでしょう。
そしてその盲人の望みを叶えてあげたいと思ったのです。
主イエスはここで、この盲人の今までの苦しみを思いやられたことでしょう。
そして、その盲人の望みを叶えてあげたい、と言われたのです。
そして、この盲人は子が親に対するように、率直に自分の心にある望みを述
べました。
すなわち、「目が見えるようになりたいのです」と言いました。
ここには、この盲人の主イエスに対する全き信頼があります。
52節。
 
  そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救
  った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
 
ここで主イエスは、このバルティマイの信仰を評価しています。
聖書において、救いは信仰によって与えられます。
パウロは、ローマの信徒への手紙において、人が義とされるのは、律法の行
いによるのではなく、キリストを信じる信仰による、と言いました。
そしてこれは、主イエスご自身がいっておられるのです。
主イエスは、私たちの信仰を見られるのです。
私たちの信仰を重んじてくださるのです。
そのほかの何ものでもありません。
私たちに誇る所が何一つなかったとしても、主イエスに対する信仰が堅けれ
ば、主イエスはそれを評価して下さるのです。
その逆に、私たちに誇るものが多くあっても、もし信仰がなければ、主イエ
スは私たちに目を留めて下さらないでしょう。
金持ちの男は自分に誇るものがたくさんあったのです。
しかし、この盲人は自分に誇るものは何一つありませんでした。
しかし、主イエスに目を留められ、そして名前が記憶されたのは、金持ちの
男ではなく、この貧しい盲人でした。
 さて、この盲人は見えるようになってどうしたでしょうか。
最後に「イエスに従った」とあります。
これは珍しいことです。
奇跡物語において、癒された人は必ず、主イエスに「家に帰りなさい」と言
われています。
すなわち、社会に復帰して、そこで証の生活をしなさい、と言われています。
しかしこのバルティマイだけは、イエスに従った、とあります。
イエスに従ってどうしたのでしょうか。
それは何も記されていません。
しかし、その数日後には、主イエスは捕らえられ、十字架にかけられたのです。
恐らく彼は、十字架につけられているイエスの姿を見たことでしょう。
今ついて行くイエスは、そのような結果になる方であったのです。
しかし、このことをバルティマイは知ってついて行ったのです。
彼は「見えるようになった」と言われていますが、これは肉眼の目が開かれ
たことは確かでしょうが、それと共に霊の目が開かれたのです。
そして、主イエスが本当はどういうお方かと言うことが分かったのです。
その前のところで、イエスの十二弟子のヤコブとヨハネの兄弟が、やはりイ
エスに「何をして欲しいのか」と聞かれた時、「ひとりをあなたの右に、もう
一人を左に座らせて下さい」と言いました。
彼らは主イエスの本質を理解せずに、自分たちの栄達のことだけしか考えて
いませんでした。
長い期間主イエスに従い、常にイエスの近くで教えを受けていた弟子たちに
は、イエスの本質が分からなかったのです。
そして、初対面の盲人にイエスの本質が分かったのです。
このバルティマイには、主イエスに対する信仰があったのです。
イエスに呼ばれた時、50節に「上着を脱ぎ捨て」とあります。
恐らくこれは、貧しい彼の身につけていたもっとも貴重なものであったでし
ょう。
それを脱ぎ捨てたということは、一切を捨ててイエスに従った、ということ
を意味しています。
彼にとっては、イエスは他の何ものを犠牲にしてでも従っていく価値のある
お方だったのです。
私たちにとっても、主イエスは、そのようなお方ではないでしょうか。
私たちも常に信仰を堅くして、主イエスの救いに与る者でありたいともいま
す。