2003年8月10日 マルコによる福音書10章35−45節
「仕える者になりなさい」
今日の話は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスにあることをお願いし
たという記事です。
この二人はイエスに何をお願いしたのでしょうか。
37節を見ますと、
二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの
右に、もう一人を左に座らせてください。」
とあります。
このヤコブとヨハネの兄弟は、ペトロとアンデレの兄弟に次いでイエスによ
って弟子に召された者で、十二弟子の中ではペトロに次いで重要な人物でし
た。
主イエスは、しばしば特に重要なことをなす時に、ペトロとヤコブとヨハネ
の3人だけを連れて行きました。
例えば、前に学びましたマルコによる福音書9章において、高い山に登った
時に主イエスの姿が変貌し、そこに旧約の人物であるエリヤとモーセが現れ
た時も、この3人だけがイエスと一緒に山に登りました。
また、初代のエルサレム教会においても、この3人が指導的な立場にあった
ようです。
使徒言行録12章には、ヤコブがヘロデ・アグリッパによって殺された記事
があります。
彼は、十二弟子の中では、最初の殉教者となりました。
彼は気性の激しい人であったようであり、イエスによってボアネルゲス(雷の子)というあだ名を付けられました。
そのために彼が一番ユダヤ教の人々からにらまれたのでしょう。
さて、このヤコブとヨハネの兄弟は、常にイエスのそばに仕えていたので、
イエスが栄光を受ける時、すなわち、この世の支配者になる時に、彼らは最
も高い地位につくことを期待し、そのことをお願いした、というのです。
マタイによる福音書の記事を見ますと、そのお願いをしたのは彼ら自身では
なく彼らの母という風になっていますが、これは初代教会で重要な地位にあ
った二人への批判をマタイは控えたからだと思われます。
しかし、母がそのようなお願いをするというのは不自然であり、実際にはヤ
コブとヨハネが直接イエスに申し出たと思われます。
それを聞いた主イエスは、非常に悲しまれたのではないでしょうか。
38節を見ますと、
イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かって
いない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受ける
ことができるか。」
とあります。
しかも主イエスは、その直前でご自分の受難のことを予告されているのです。
33−34節には次のようにあります。
「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律
法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人
の子は三日の後に復活する。」
しかし、ヤコブとヨハネだけでなく、弟子たちは皆、このイエスの予告を真
剣には聞いていなかったのです。
さて、ヤコブとヨハネの願いを聞いた他の弟子たちは腹を立てたというの
です。
41節には、
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始め
た。
とあります。
ほかの10人の弟子たちがなぜ腹を立てたかというと、彼らも実は同じ事を
願ったからでしょう。
彼らは決して、主イエスの受難予告を理解し、イエスの思いに立って腹を立
てた訳ではありません。
そうではなく、自分たちも同じ思いをもっており、それを二人に先を越され
たという思いからでした。
そこで主イエスは、ご自分が何のためにこの世に来られたかということを弟
子たちに教えられました。
42節。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っている
ように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、
偉い人たちが権力を振るっている。
異邦人の支配者というのは、ここではローマ帝国の支配者のことです。
彼らは支配している国の民の上に権力をふるっていました。
これは当時のユダヤ人の日頃実感していたことです。
当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあり、特に重税に苦しんでいました。
このような帝国の支配者は、被支配国に権力をふるって、自分の欲を満たし
ていたのです。
すなわち、被支配国から富を吸い上げて、例えば自分の宮殿を建てるといっ
たことをしていたのです。
かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時のエジプトのファラオも
そうでした。
ファラオは絶対権力者であり、外国の民を奴隷として使い、自分のための町
や宮殿、そして自分の墓を造っていたのです。
これがこの世の権力者の常の姿です。
しかしその反面、権力者に支配されている人々は、非常に苦しい目に遭って
いたのです。
権力を求めるということは、そのように非常に苦しい立場の人々を造り出す
ということなのです。
イスラエルの民は、かつてエジプトの奴隷であったから、支配されている者
の苦しみというのがよく分かっているはずです。
そこで旧約聖書においては、外国人を苦しめてはならない、という法があり
ます。
例えば、レビ19章33−34節には次のようにあります。(P.193)
寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。
あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者
同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエ
ジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたち
の神、主である。
しかしイスラエルの実際の歴史においても、現実の王の多くは、自分の権力
を求め、弱い立場の者を虐げていました。
そして、その時々に預言者が現れ、そのような権力者のあり方を非難したの
です。
例えば、紀元前9世紀に北イスラエルにアハブという王がいました。
彼は、自分の宮殿に隣接したナボトという農民の土地が欲しくなり、策略を
巡らしてその農民を死に追いやり、その土地を手に入れたのです。
しかしその後、預言者エリヤがアハブ王の所に現れて、その罪を非難し、神
の裁きを告げたのです。
そのように、権力を志向することが神の御旨でないことは、弟子たちも分
かっていたはずです。
しかし、現実には弟子たちもやはり人間であり、イエスがただの人でないこ
とが分かると、権力の座について欲しいと願ったのです。
そしてその暁には、自分が最も高い地位につけてもらいたい、と思ったので
す。
そして他の弟子たちも同じ思いをもったので互いに相手のことに腹を立てた
のです。
しかし主イエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうではない」と言われ
ました。
この世ではそうであるかも知れないが、「あなたがたの間では」そうであって
はならない、というのです。
ここにこの世の論理と神の原理が違うことが主張されています。
教会においてもそうです。
教会の論理とこの世の論理は違うのです。
従って、教会で事をなす場合、容易にこの世の論理を持ち込んではならない
のです。
さて、この世の論理が権力を志向することであるなら、神の論理は何でし
ょうか。
43−44節。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くな
りたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべて
の人の僕になりなさい。
神の論理は、支配とか、権力志向ではなく、仕えることであり、僕だ、とい
うのです。
そしてこの神の論理に全く従ったのが、主イエスです。
イエスは十字架にかかる前の晩、すなわち最後の晩餐の席で、このことを身
をもって示されました。
すなわち、主イエスは自ら弟子たちの足を洗われたのです。
45節。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代
金として自分の命を献げるために来たのである。」
「人の子」というのは、旧約聖書においては単に人間、しかも弱くはかない
存在としての人間を意味しました。
しかしそれが後には、黙示文学において、終末時に来るメシアを意味するよ
うになりました。
イエスのこともしばしば「人の子」と言われています。
そこで、神から遣わされるメシアは、この世の権力者のように、仕えられる
ためではなく、仕えるためである、というのです。
これは、当時のメシア観とは非常に違っていました。
すなわち、当時待望されていたメシアは、この世の権力者のように、白馬に
乗って、栄光の姿で天から下り、多くの人々を支配する、と信じられていま
した。
そして、弟子たちもそのような姿を期待したのです。
しかし主イエスはそうではなく、むしろ逆に人々に仕える者だ、というので
す。
それも「身代金として」と言われています。
「身代金」というのは、私達の間ではよく誘拐の時などに使われます。
「身代金目的の誘拐」などと言います。
すなわち、人質に取られた人を「身代金」を払うことによって、解放しても
らうのです。
誘拐の場合、親は子供を解放してもらおうとして、どんな無理をしてでも身
代金を用意するでしょう。
ここには親の子供に対する深い愛情があります。
イエスは、私達を救うために、お金を払うのではなく、自らが身代金となっ
て命を献げて下さったのです。
そして、そのことによって、私達に真の自由を与えて下さったのです。
旧約聖書には、身代金の制度というのがありました。
それは、ある人が非常に貧しくなって、自分自身を奴隷として売らなければ
ならなくなった時、その人の近親者がお金を払って買い戻して自由にさせる
という制度です。
そこで、身代金は、人に自由をもたらす行為とされました。
そして主イエスは、お金を払ったのではなく、ご自分の尊い命を差し出され
たのです。
そしてそのことによって、私たちに真の自由を与えて下さったのです。
ペトロの手紙一1章18−19節には、次のようにあります。(P.429)
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたの
は、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊
のようなキリストの尊い血によるのです。
ここでは私たちは、キリストの尊い血によって空しい生活から贖われた、と
いうのです。
私たちは本来罪の奴隷であり、空しい生活をしており、永遠の滅びへと向か
う者でした。
しかし、キリストの尊い血によって、その罪の奴隷から解放され、永遠の滅
びから永遠の命へと移されたのです。
この恵みに入れられたのは、キリストがこの世の論理である権力を志向した
のではなく、神の論理である仕える者となられたからです。
私たちも、この世の論理に従うのでなく、神の論理に従って、互いに仕える
者となりたいと思います。