2003年7月13日  マルコによる福音書10章23−31節
         「神は何でもできる」
 
お読み頂きましたマルコによる福音書10章23節をもう一度読みます。
 
  イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るの
  は、なんと難しいことか。」
 
これは、その前の話しについてのイエスのコメントです。
その前の話しは、「金持ちの男」の話しでした。
この男がイエスの所に来て、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでし
ょうか」と尋ねました。
これに対してイエスは、最初モーセの十戒を示して、「殺すな、姦淫するな、
盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」と言われました。
するとこの男は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきまし
た」と少々誇らしげに言いました。
するとイエスは、次に「あなたに欠けているものが一つある。行って持って
いる物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むこ
とになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われました。
これを聞いた金持ちの男は、悲しみながら立ち去った、と言うのです。
その後主イエスは、弟子たちに、神の国に入ることがいかに難しいかを教え
られました。
25節には、
 
  金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。
 
とあります。
らくだが針の穴を通る」というのは、非常に誇張的な表現ですが、これは
不可能だと言うことです。
 私たちは、自分の力でキリストに従うことは、殆ど不可能なのです。
ここで言い逃れがあります。
まず一つは、23節に「弟子たちに言われた」とあり、イエスの直弟子だけ
がすべてを捨てるという厳しい戒めが課せられたのだ、というものです。
すなわち、一般のキリスト者には、そんなことは要求されない、という言い
逃れです。
第二は、私たちにはそれほどの財産はない、というものです。
暮らしに困ると言うこともないけれども、かといって有り余るほどの財産も
ない、という言い逃れです。
第3は、30節に迫害という言葉がありますが、このような厳しい要求は迫
害という特殊な状況の中にあるものに対して言われたものだ、という言い逃
れです。
 確かに、そのようなことは言えるかも知れません。
しかしそれは言い逃れであって、私たちがキリストに従うということを突き
詰めて考えていけば、このようになります。
これは直接には、イエスの十二弟子に言われたかも知れませんが、私たちも
キリストを信じ、キリストに従う者として、キリストの弟子の端くれに属す
るものです。
有り余るほどの財産はもっていないかも知れませんが、無一物でもありま
せん。
今は迫害という状況にありませんが、キリストを取るか他のものを取るかの
二者択一を迫られるかも知れません。
そして、そういう時に、一切を捨ててキリストに従うほどの信仰は多分無い
のではないでしょうか。
そういう時、私たちは殆ど失格者になるに違いありません。
私たちは、そういうぎりぎりの状況に追いやられないようにと、主の祈りで
「試みに合わせず、悪より救い出したまえ」と祈っています。
私たちは、すべてを捨てて主に従うという強い信仰はないのではないでしょ
うか。
 そしてそれは、主イエスの弟子たちもそうでした。
26節には、次のようにあります。
 
  弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と
  互いに言った。
 
しかし、その中でペトロは28節で次のように言いました。
 
  ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに
  従って参りました」と言いだした。
 
ペトロには、「何もかも捨ててイエスに従った」という誇りがあったのでしょ
う。
金持ちの青年のようではない、という思いがあったのでしょう。
彼は少し前に、イエスの所に尋ねてきた金持ちの男とイエスとのやり取りを
そばでじっと見ていたことでしょう。
そしてここで、この金持ちの男と比較して、自分はすべてを捨ててイエスに
従ってきた、といささか自慢なのです。
少なくとも、あの金持ちの男よりは自分の方が神の国に近い、と思ったので
しょう。
確かに、ペトロは、イエスに出会って、自分の今までの商売道具である舟と
網、それに家や家族を捨ててイエスに従ってきました。
しかしこのペトロも、イエスが捕らえられた時は、「あんな人は知らない」と
言ってイエスを裏切ったのです。
結局、イエスに最後まで従うことはできなかったのです。
従って、26節の言葉は、ペトロにも当てはまるのです。
 私たちは、いくら信仰の篤い人であっても、すべてを捨てて主に従うとい
うことはできないものです。
 すべてを捨てて神に従った者として、私たちは旧約においてアブラハムを
知っています。
ヘブライ人への手紙11章8節には、次のようにあります 。(P.415) 
 
  信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土
  地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに
  出発したのです。
 
アブラハムは、住み慣れた自分の国を捨て、親族を捨て、家を捨てて、神の
示す地に旅をしたのです。
そしてアブラハムは、一生このような放浪の旅をしました。
そしてついには、自分の一人子イサクを、神の命令に従って焼き尽くす献げ
物に献げようとしました。
私たちは、このようなことは決してできないのではないでしょうか。
わが愛する子を神に献げることができるか、と問われるならば、恐らくそん
なことはできないでしょう。
アブラハムは、自分の愛する子を献げてまで神に従おうとしました。
しかし、自分の子を殺して犠牲に献げるなどということは、神の御心ではあ
りませんでした。
そこで神は、自らその代わりに、1匹の雄羊を備えたもうたのです。
 今日のテキストの27節で、主イエスは、
 
  人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。
 
と言われました。
私たちは、すべてを捨てて主に従うなどということはできないでしょう。
それは、らくだが針の穴を通るようなものです。
しかしながら、神にはできるのです。
このテキストの中心はここにあります。
私たちは、使徒信条に於いて「全能の神を信ず」と告白しています。
私たちにはできなくても、神にはできるのです。
ルカによる福音書1章の受胎告知の記事に於いても、この信仰が言い表され
ています。
すなわち、天使ガブリエルがマリアに受胎告知をした時、マリアは「どうし
てそんなことがあり得ましょうか」と言いました。
その時天使は、「神には、何でもできないことはありません」と言っています。
そしてマリアは、この天使の言葉を素直に受け入れて、「お言葉通りこの身に
なりますように」と言いました。
 今日のテキストに於いて、25節は、私たちは自分の力で、自分の努力で、
自分の修行によって、神の国にはいることは不可能だ、ということです。
私たちは、すべてを捨てて神に従う者としては失格者です。
しかし、この失格者のために、キリストが代わって神に徹底的に従って下さ
ったのです。
彼は、ご自分の命まで捨てて、神に従いました。
これは、私たちの不十分な従順を代わりに負って下さったのです。
先ほどのアブラハムは、結局自分の子どもを犠牲に献げなかったのです。
しかし、神は自らご自分の一人子を、十字架の贖い、全き生け贄としてささ
げたのです。
これは、全くの従順を意味しています。
フィリピの信徒への手紙2章8節には、
 
  へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
 
とあります。
キリストは、神の子として、最も富める者でしたが、私たちの救いのために
最も貧しい方となられました。
 もし、私たちがキリストのために、福音のために、少しでも何かを捨てる
ことができるならば、それは神の賜物です。
ここで主イエスは、すべてのものを捨てる禁欲生活を命じておられるのでは
ありません。
すべてを捨てて、かすみを食って生きよ、と言っているのではありません。
宗教によっては、非常に厳しい修行を求めるものもあります。
古代インド教、特にジャイナ教では、すべてを捨てる修行が重んじられ、そ
の厳格なものは、着る者さえいけないということで、裸業派というものがあ
ります。
主イエスと弟子の集団は、もちろんそんな修行はしておらず、むしろあちこ
ち旅をするのに必要なものはすべて用意され、イスカリオテのユダがその会
計係をしていたと言われています。
主イエスは、物に支配されることから自由になることを教えられました。
キリストのため、福音のために捨てることを教えられましたが、一方では私
たちに必要なものは与えられるとも言われました。
マタイによる福音書6章25節では、
 
  だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、
  また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大
  切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
 
と言われた後で、
 
  あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことを
  ご存じである。
 
と言われました。
アブラハムは、生涯、神に忠実に従う生活でしたが、彼は何も所有物がなか
ったかというと、決してそうでありませんでした。
生まれ故郷を捨て、裸同然でカナンの地を旅しましたが、旅の途中でいろい
ろな財産が与えられました。
必要な物は、ちゃんと神から与えられました。
アブラハムには神に従う信仰がありました。
そして神に従うために必要であれば、すべてを捨てました。
しかし一方では、「神備え給う」という信仰がありました。
この信仰があったから、必要な時は、大切なものを惜しげもなく捨てたので
す。
大切なものを捨てても、もしそれがキリストのため、福音のためならば、必
要な物は必ず備えられるのです。
もし、全財産を損しても、永遠の命を受けることができれば、その方が大切
でしょう。
 私たちは、すべてを捨てて主に従うことはできないかも知れませんが、「神
には何でもできる」という信仰を持ちたいと思います。
そして、キリストが不従順な私たちに代わって、徹底的に神に従って下さった
ことを覚えたいと思います。