2003年6月22日   マルコによる福音書10章17−22節
         「天に富を積む」
 
 17節。
 
  イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋
  ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょう
  か。」
 
ここに登場する人物は、マルコによる福音書では「ある人」としか記されて
いませんが、マタイによる福音書の記事では「青年」と言われており、また
ルカによる福音書では「議員」と言われています。
そして三つの福音書ともこの人が金持ちであった、と記しています。
それらから想像して、この人はまだ若いけれども相当地位の高い資産家であ
った、と考えられます。
一般に「富める青年」と言われていますが、その表現がふさわしいと思われ
ます。
しかし、にもかかわらず、この青年は傲慢ではなく、むしろ謙虚であり、ま
た自分の人生の問題について真剣に考えていた非常に真面目な人物でした。
この人が問題にしていたのは、「永遠の命を得るためにどうすればいいか」と
いうことでした。
すなわち、この青年は救いの問題を真剣に考えていたのです。
 この当時の真面目なユダヤ人は、常にこの救いの問題を真剣に考えたので
す。                            
そしてこれに対しては、ユダヤ教では一定の答えがありました。
すなわち、モーセの律法を忠実に守る、というものでした。
例えば、先ほど「交読詩編」で読んだ詩編15編。(P.845)
 
  それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。
  心には真実の言葉があり
  舌には中傷をもたない人。
  友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
  主の目にかなわないものは退け
  主を畏れる人を尊び
  悪事をしないとの誓いを守る人。
  金を貸しても利息を取らず
  賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。
  これらのことを守る人は
  とこしえに揺らぐことがないでしょう。
 
これは「門の式文」と言われ、神殿で礼拝することのできる人を祭司が神殿
の門で問うたものである、と言われています。
すなわち、このようなことを行う人は、聖なる山に住むことができる(永遠
の命を得る)と考えられたのです。
しかし、そのような教えに満足できない人もいたのです。
彼らは、そのほかにも何かが必要ではないか、と思い悩んだのです。
ヨハネによる福音書にもそのようなことに悩んだ一人の老人の話が出てきま
す。
それはヨハネによる福音書3章に記されているニコデモという人です。
彼は人目をはばかって、夜こっそりイエスの所に来て、どうすれば神の国に
入ることができるか、ということをイエスに聞きました。
 さて、今日の富める青年の求めは、非常に熱心でした。
彼は、イエスの所に「走り寄った」とあります。
ここに彼の熱心さ、また自分の生き方に対する真剣さ、というものが窺われ
ます。
さらに、「イエスの前にひざまずいた」とあります。
これは、イエスを非常に尊敬していることの表明です。
彼はまた、非常に謙虚な人であったようです。
彼は、地位も高く、相当な資産家でした。
それ故常日頃、人々からちやほやされていたと思われます。
そういう彼が、イエスの前にひざまずいた、というのです。
普通だったら、この人のメンツが許さない行為だったでしょう。
ここに、この人の真面目さ、謙遜な人柄が窺えます。
 しかし、イエスはこの真剣な青年の真面目な質問にすぐには答えませんで
した。
18節。
 
  イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりの
  ほかに、善い者はだれもいない。
 
何か話しをはぐらかしているようにも思われます。
この青年がイエスのことを「善い先生」と呼んだ、その呼び方にいちゃもん
をつけている、という印象を受けます。
イエスは時々、このような受け答えをする場合があります。
しかしそれは、話しをはぐらかそうとするのでもなく、また大切な問題を避
けているのでもありません。
この青年はイエスに「善い先生」と呼びかけました。
そして、それに対してイエスは、「神おひとりのほかに、善い者はだれもい
ない」と言っています。
すなわち、イエスは、この青年に、神の方に目を向けなさい、と言っている
ように思われます。
「善い先生」という場合、目は人に向けられているのです。
ここでこの青年は、当時評判であったイエスに評価されたい、と思ったのか
も知れません。
それ故、イエスに非常に丁重に相対しようとしたのかも知れません。
真面目な思いを持っており、さらに自分の生き方に非常に真剣である、その
ような姿を洞察力の鋭いイエスに見てもらって、すばらしい男だと評価され
たかったのかも知れません。
しかしイエスは、そのような態度に対して、人間にではなく、神に評価され
なければならない、ということを言おうとされたのかも知れません。
人に評価されるよりも、天に富を積むように、すなわち神に評価されるよう
に、と言っているのです。
 19節。
 
  『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』
  という掟をあなたは知っているはずだ。」
 
イエスはここで、当時の一般のユダヤ人が考えていたものを、そのまま引用
しています。
これは、言うまでもなく、十戒の後半部分です。
すなわち、第5戒から第10戒までの規定です。
そしてこれは、前半部分の神についての戒めに対して、人に関する戒めです。
ただし、旧約聖書の十戒では、「父と母とを敬え」というのは、後半部分の一
番最初の戒めですが、ここでは一番最後に来ています。
このような順序の伝承もあったようです。
また、「奪い取るな」というのは、旧約聖書の十戒では「隣人の家を欲しがっ
てはならない」となっています。
そのような違いはともかくとして、ここでイエスは、当時のユダヤ人が一般
に考えていた律法を忠実に守ることによって永遠の命を得ると言うことを示
されたのです。
 20節。
 
  すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきまし
  た」と言った。
 
この青年は、イエスの示した戒めに対して、「そういうことはみな、子供の
時から守ってきました」と簡単に言ってのけました。
このように簡単に言うからには、彼には相当自信があったのでしょう。
普段の生活において、彼は律法を忠実に守っているという誇りがあったので
しょう。
また、他の人からもそのように認められていたのでしょう。
そしてユダヤ人の社会では、このことが最も尊敬されることであったし、ま
た社会的にも重んじられていたのです。
そして彼は、そう言ったならイエスも高く評価してくれると思ったのでしょ
う。
あるいは、彼はどうしたら永遠の命を得ることができるのかをイエスに聞き
に来たのですが、イエスから「そんなに立派な生活をしているのならそれで
十分です」という言葉を聞きたかったのかも知れません。
自分のあり方の正しさを、イエスの言葉によって確認したかったのかも知れ
ません。
パウロも、若い頃は、そのような律法に忠実に従う者であるということを自
他共に認めていたようです。
そしてパウロは、そのことを少し自慢して述べているところがあります。
フィリピの信徒への手紙3章5−6節。(P.364)
 
  わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤ
  ミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはフ
  ァリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については
  非のうちどころのない者でした。
 
彼はここで、誇らしげに「律法の義については非のうちどころのない者」と
言っています。
今日の所の富める青年の「そういうことはみな、子どもの時から守ってきま
した」という言葉と同じです。
しかしパウロの場合、キリストに出会ってからは、そのような誇りは損失と
見なすようになった、と言っています。
それは、律法というのは、結局人間の力に頼るということであるからです。
真の救い、ここで言う永遠の命は、人間の力によっては得ることができない
のです。
パウロは、キリストとの出会いを通して、そのことを悟らしめられ、キリス
トを信じる信仰を強調したのです。
この富める青年は、自分の力で永遠の命を得ることができると考えていたの
です。
そしてそれをもうほとんど手に入れているという自信があったのです。
そしてあと一歩何かをプラスすれば、それで完全だと思っていたのです。
 21節。
 
  イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一
  つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そ
  うすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 
「イエスは彼を見つめ」とあります。
これは、この人をじっと見た、と言うことです。
これは、この青年を深く愛された、と言うことです。
「慈しんで」と訳されている語は、原語ではアガペーであり、深く愛された
ということです。
イエスは、この自分の生き方を真剣に考える青年に何とかして永遠の命を得
てもらいたいと思ったのです。
そこで、彼に足りない一つのことをいうのです。
それは、全財産を処分して、貧しい人々に施すということでした。
しかし、これが条件というのではないでしょう。
こういう善行を積むことによって永遠の命を得ることができるというのでは
ないでしょう。
イエスの言いたいのは、「わたしに従いなさい」ということです。
キリストに従うことが、すなわち天に富を積むことなのです。
しかし、キリストに従うというときに、それを妨げるものがあります。
そして、この富める青年の場合は、それは自分の財産だったのです。
これが妨げとなって、キリストに従うことができなかったのです。
そして、人それぞれには、キリストに従うことを妨げるものがあります。
私たちにも、それぞれいろいろな妨げがあると思います。
そして、それらは、この世的な魅力があるものです。
そして、そのような妨げから完全に解放されることは、非常に困難ではない
でしょうか。
それは実は、私たちの努力では不可能と言っていいかも知れません。
この後イエスは、弟子たちに25節で、
 
  金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。
 
と言っています。
しかしイエスはまた、27節で、
 
  人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。
 
とも言っています。
私たちにとって、この信仰が大切です。
この富める青年は、小さいときから永遠の命を得るために相当努力をしてき
たと思われます。
しかし、実は、永遠の命というのは、そのような人間の努力の延長線上にあ
るのではありません。
むしろ、私たちにはできないという認識が必要です。
そして、その私たちの代わりにそのことをして下さった主イエスを信じ、主
にすべてを委ねる信仰が大切なのです。
人間にできることではないが神にはできる、という信仰が大切です。
そしてそのような信仰を持つこと、そしてすべて神に委ねることが、天に富
を積むことなのです。
私たちも、自分自身に頼ることを捨て、自分にまつわりついている信仰を妨
げるものを捨てて、主にすべてを委ねるものでありたいと思います。