2003年5月18日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書9章33−37節「小さい者を受け入れる」
 
 33節。
 
  一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、
  「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
 
カファルナウムという町は、ガリラヤ湖の北西岸にあり、当時交通の要路で
あったので、非常に栄えていました。
主イエスは、この町で最初に伝道を開始されました。
そこには、ペトロの家があって、最初の頃イエスはこの家を拠点として伝道
活動を行ったようです。
私たちもかつてのイスラエル旅行において、このカファルナウムにも行きま
した。
そこには、ペトロの家の跡というところもありました。
もっとも、そこが本当にペトロの家の跡であるかどうかは非常に疑問ですが、
しかしそれは、イエスの時代の民家の跡であることは確かのようです。
 さて、イエスの一行は、しばらくガリラヤ湖の北の地方に行っていたので
すが、再び故郷のカファルナウムに帰ってきたのです。
久しぶりに自分たちの故郷に帰ってきたこともあって、幾分浮かれた気持ち
になったのでしょうか。
気を許して、自分たちの本心を語り合ったようです。
それは、弟子たちのうちで誰が一番偉いか、ということでした。
弟子たちは、12人の集団でした。
その12人がイエスの伝道活動に従って、何ヶ月か寝食を共にして生活して
きました。
そして、最初はそうでもなかったでしょうが、次第にこの集団で、一番偉い
のは誰かということが問題になってきたのでしょう。
誰が一番偉いのかというより「我こそは一番偉い、我こそはこの弟子集団の
筆頭である、我こそはイエスの一番弟子である」と主張しあったのでしょう。
人間は生来、自分こそもっとも偉いと思いこむ浅ましい愚かさを持っていま
す。
先生をめぐって、12人の弟子がいれば、その中で我こそは一番弟子になり
たい、という欲望を抱きます。
ましてこのイエスは、神の国を説いているが、やがて地上に理想的な王国を
打ち立てて、その王になる方かも知れない、と思われていました。
そうなれば、我こそは、その一番上に位につきたい、皆はそう思っていたの
でしょう。
 しかし、弟子たちは、こういう欲望を抱くことをイエスは喜ばない、とい
うことも思っていました。
そこで、イエスが弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と問われたと
き、弟子たちは黙っていた、とあります。
この沈黙は、「誰が一番偉いか」という議論は、イエスの教えには反すること
だと自覚していたからでしょう。
 しかし、イエスの教えに反すると自覚していながら、彼らは同じ過ちを繰
り返したのです。
10章35−37節にそのことが出てきます。
 
  ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願
  いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほ
  しいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わ
  たしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
 
マタイによる福音書のテキストでは、さすがに初代協会において尊敬されて
いた十二弟子のヤコブとヨハネが自らこのような要求をしたというのには抵
抗があるので、その母がそのような要求をしたように変えています。
マタイによる福音書20章20−21節。(P.39)
 
  そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエス
  のところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望
  みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二
  人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃっ
  てください。」
 
人間は弱い者です。
他の人と自分を比べて、自分を他の人よりも少しでも高い者としたいもので
す。
それは、すべての人間の持っている罪ではないでしょうか。
それの行き着くところは、「神のようになりたい」という思いではないでしょ
うか。
そういう罪の問題を扱っているのが、創世記の禁断の木の実を食べる物語で
す。
蛇の「その実を取って食べると神のように賢くなる」という誘惑に負けて、
人は禁断の木の実を取って食べたのです。
 弟子たちの中で、自分が筆頭だと主張したのは、最初に弟子になったペト
ロとヤコブとヨハネだったようです。
彼らは、一介の漁師に過ぎず、自分自身にイエスの弟子になる資格は何らな
く、ただイエスの一方的な選びによって弟子になったのですが、一番最初に
弟子になったということで、優先権を主張したのではないでしょうか。
ヤコブとヨハネについては、先ほどの記事にそのような主張が具体的にあり
ました。
それではペトロはどうだったでしょうか。
マタイによる福音書19章27節には、次のようにあります。(P.37)
 
  すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも
  捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただける
  のでしょうか。」
 
ここには、ペトロの自負心があります。
これまで自分は家を捨て、財産を捨て、多くの努力を重ねてイエスに従って
きた、という自負心です。
従って、我こそはイエスの一番弟子であり、それ故に特別な報いが与えられ
る、と期待したのです。
 弟子たちは、イエスの御心に反した思いを抱き、イエスよりいさめられた
とき、沈黙してしばし反省しました。
しかししばらくするとまた、人間的な思いが頭をもたげてきます。
そして、最後まで、そのようなことの繰り返しでした。
 翻って、私たちはどうでしょうか。
礼拝に出て、み言葉を聞き、日頃のこの世的な思いが反省させられます。
しかし、礼拝が終わると、またこの世的な思いが頭をもたげてきます。
そして、次の日曜に礼拝に出て、また反省させられます。
私たちもこのようなことの繰り返しではないでしょうか。
私たちは、それほど強くもありませんし、また完全でもありません。
従って私たちは、繰り返し礼拝に出て、み言葉に耳を傾けることが必要なの
ではないでしょうか。
 信仰とは、キリストに従うとは、この世的な報酬を期待するのではありま
せん。
この世的な報酬ではなく、真の命を得ることです。
マルコによる福音書8章35−36節には、次のようにありました。
 
  自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福
  音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を
  手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
 
弟子たちは一生懸命イエスに従って伝道活動を行ってきましたが、先ほどの
ヤコブとヨハネのように、内心ではこの世的な地位を求めていました。
すなわち、イエスがやがてこの世の王になったとき、自分たちは高い地位に
つきたい、と。
そして、そういう地位をめぐって論争していたのです。
 これを知って、イエスは情けない気持ちになられたかも知れません。
主イエスは、この後エルサレムに上ろうとしていました。
そしてそれは、十字架の道を歩むためでした。
その矢先で、後を託すべく弟子たちが、自分たちの欲のために争っていたの
です。
そのような弟子たちに、主イエスは次のようにいいます。
10章42−44節。
 
  そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っている
  ように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、
  偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そう
  ではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
  いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
 
主イエスは、人々の支配者になるのではなく、「仕える者になりなさい」と言
われます。
聖書の価値観は、人間的なものとは全く逆です。
この世においては、支配者、上に立つ者が偉い人と言われます。
しかしイエスは、人々に仕える者が一番偉いのだと言われます。
 主イエスの価値観がこの世のと同じであれば、ペトロやヤコブやヨハネが
弟子に選ばれることはなかったでしょう。
このような教養のない一介の漁師ではなく、都市に住むもっと優秀な者が選
ばれたでしょう。
しかし、イエスはあえてこのような者を選ばれたのです。
しかし、弟子たちは、そのようなイエスの価値観を理解せず、かえって自分
たちもこの世の権力者と同じ思いになってしまっていたのです。
イエスは、弟子たちがこのような思いを持つと、その時々に諭されましたが、
最後に自分の身をもって教えられたのです。
すなわち、最後の晩餐の席で、イエスは自ら弟子たちの足を洗われたのです。
足を洗うというのは、その当時召し使いの仕事でしたが、イエスは自らその
召し使いの仕事をされたのです。
イエスは弟子たちに、「仕えられるのでなく、仕える者となりなさい」と言わ
れましたが、まずご自身が徹底的に仕える者となられました。
弟子たちが自分の方が偉い、自分の方がいい地位につきたいと言い争ってい
たとき、イエスはすでに十字架の死を覚悟されていたのです。
10章45節には、次のようにあります。
 
  人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代
  金として自分の命を献げるために来たのである。」
 
そして今日のテキストにおいては、小さい者を受け入れることの大切さを言
われました。
36−37節。
 
  そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言
  われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、
  わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではな
  くて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 
カファルナウムのこの家はペトロの家と思われますので、この子供はペトロ
の子供であったかも知れません。
主イエスは、子供を愛されました。
それは、子供はかわいいと言うだけではありません。
また、子供は罪がないというだけでもありません。
子供でも悪い考えを持つこともありますし、悪いことをすることもあります。
意地悪をすることもあります。
そうではなく、子供は最も無力な者、何の力もなく最も小さい者です。
主イエスは、当時の社会で小さい者とされていた病人や罪人や女性などを特に
愛されましたが、それと同じように小さな子供もとても愛されました。
ここで主イエスは、子供を大人たちの真ん中に立たせた、とありますが、そ
れは最も小さいものを大切にすることを言っています。
主イエスは、最も小さい者を受け入れることを大切にされました。
イエスは、また18章4節で、
 
  自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いの
  だ。
 
と言われましたが、このような無力な者、最も小さい者を受け入れるように、
と言われたのです。
 今の世の中は強い者が勝っていく時代です。
そこで「人に負けるな」「強い者になれ」というのが今の社会の傾向ではない
でしょうか。
世間の評価は、負け組になるのでなく、勝ち組になるということではないで
しょうか。
しかし、神の前では、最も無力な者、最も小さい者を受け入れるかどうかで
評価されるのです。
主イエスはマタイによる福音書25章40節において、
 
  わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにして
  くれたことなのである。
 
と言われました。
私たちも、主イエスが小さい子供を大切にされたように、小さい者を受け入
れる者となりたいと思います。