2003年5月4日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書9章2ー節8 「神の愛する子」
2ー3節。
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い
山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、
この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
ここで主イエスは、3人の弟子だけを連れて高い山に登られた、とあります。
今日の記事の少し前の8章の27節を見ると、イエスは弟子たち(これは
12弟子全員)を連れてフィリポ・カイサリアに行った、とあります。
そして、イエスはこのフィリポ・カイサリアの途上で、弟子たちに、イエス
はだれか、ということを教えられたのです。
この時ペトロは、「あなたは、メシアです」と答えています。
主イエスがメシア(キリスト)である、というのは、教会の最も中心的な信
仰告白です。
そして、その後31節を見ますと、主イエスは、ご自分がもうすぐ殺され、
そして復活することを教えられました。
そして、今日のテキストでは、弟子の中からその中心メンバーである3人を
選んで、主イエスの本質について教えられました。
何故主イエスはここで3人だけを連れて行かれたのでしょうか。
ここで主イエスは、相当慎重な態度を取っているように思われます。
9節を見ますと、ここで起こったことはだれにも話してはいけない、と厳し
く口止めされています。
何故でしょうか。
それは、主イエスに対する誤解を警戒してのことでした。
弟子たちは、これまでもイエスのことを十分には理解していませんでした。
そしてしばしばそのことについて、イエスから叱られました。
8章33節を見ますと、ペトロが主イエスに叱られています。
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っ
ている。」
弟子たちの中には、イエスが地上の王になる方だという期待をもっていた者
もいました。
イスカリオテのユダなどは多分にそうです。
彼は結局イエスが自分の期待していた人物でないことが分かって、イエスに
失望し、裏切ったようです。
そのような事情から、ここでイエスは、自分の特に信頼する3人を選んで、
重要な体験をさせ、イエスの本質を教えようとされたのです。
旧約の時代から、神はご自分の意志を伝えるのに、ある特定の者を選ぶと
いうことをされました。
アブラハムやモーセや、また預言者たちもそうです。
主イエスも宣教のために12人の弟子を選びました。
そしてここでは、イエスの本質を教えるのに、その中の3人を選んで、貴重
な体験をさせたのです。
そこで選ばれた者は、特別な使命を帯びます。
神の意志を知らされた訳ですから、それを人々に伝える任務があります。
主イエスの弟子たちは、初代の教会において、そのために身の危険を犯して、
イエスのことを伝えて行きました。
そして、その初代教会の中心的指導者であったのが、このペトロ、ヤコブ、
ヨハネの3人であったようです。
そして、この選びというのは、歴史を通じて、今もなされています。
私達も神によって選ばれてキリスト者とされたのです。
これは私達が特別な特権を与えられた、というのではありません。
私達はイエス・キリストのことを知らされている訳ですが、それは未だキリ
ストの福音と救いを知らない人々に伝えるためです。
教会は、そのために建てられたものです。
私達は、福音宣教のために選ばれ、教会に連なる者とされたのです。
さて、イエスは3人の弟子を連れて高い山に上られた、とあります。
どこの山かは記されていませんが、恐らくヘルモン山ではないか、と思われ
ます。
ヘルモン山は、フィリポ・カイサリアからそう遠くない所にあったからです。
この山は標高4000メートル位ですが、しかしイエスたちが頂上まで登っ
たのではないでしょう。
その中腹かと思われます。
高い山は、旧約の時代から神の啓示の場所とされました。
その代表的なのは、シナイ山です。
モーセもエリヤもシナイ山で神の啓示を受けています。
さて、主イエスは、この高い山で3人の弟子たちの目の前で、栄光の姿に
変わったのです。
真っ白く輝いた、とあります。
こういう姿は、最高の栄誉であり、旧約でもモーセがただ一度言われていま
す。
それは出エジプト記34章29ー30節です。
即ち、モーセが神から頂いた十戒の記された石の板2枚を持ってシナイ山か
ら降りて来ると、彼の顔から光が放っていたというのです。
余談ですが、この「モーセの顔が光ったいた」というヘブライ語をヒエロ
ニムスという人がラテン語に訳した時、誤って、「モーセの顔から角が出て
いた」と訳しました。
それでラテン語の聖書を読んでいたミケランジェロは、十戒の板を持つモー
セを描いた時、モーセの頭に角を生やしたのです。
このミケランジェロの「モーセ像」は、非常なる傑作ですが、それは誤訳に
基づいて作られたもので、やはりモーセの頭に2本の角があります。
さて、ここで主イエスは、モーセと同じような栄光の姿に変えられた、と
いうのです。
否、それ以上の栄光の姿です。
さて、ここで主イエスが3人の弟子たちの前で、突然栄光の姿に変えられ
たのは、弟子たちにイエスの神の子としての本質を示そうとされたのです。
フィリポ・カイサリアの出来事で、イエスは、ペトロが「あなたは、メシア
です」と言った時に、自分はやがてエルサレムで苦しみを受ける、というこ
とを弟子たちに教えました。
しかし主イエスは、ただ苦しみを受けて無残に死んでいくだけではありませ
ん。
復活して、天に上げられるのです。
栄光の姿に変えられるのです。
そしてそのことをイエスは、この高い山での出来事で、3人の弟子だけに教
えられたのです。
即ち、これからエルサレムに行って、祭司長や律法学者から苦しみを受け、
十字架に付けられて死ぬけれども、しかしそれで終わるのではない、という
ことです。
神の子として栄光の姿に変えられる、ということです。
4節には、
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
とあります。
不思議なことに、イスラエルのずっと昔の英雄がここに現れてイエスと語り
あっている、というのです。
こんな聖書を代表するような3人の人が一同に会するのは、夢のような光景
です。
モーセは律法を代表する人物であり、エリヤは預言者を代表する人物です。
旧約聖書を代表する2人とイエスは、今語りあっているのです。
弟子たちはこの光景をうっとりと見とれていたでしょう。
「こんな素晴らしいことが世の中にあるであろうか」そうペトロは思ったこ
とでしょう。
そして、この光景がいつまでも続いて欲しい、と願いました。
5節。
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいる
のは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなた
のため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロは、この素晴らしい光景がいつまでも続いて欲しい、と思ったのです。
そのためにどうしたらいいか、ということを考えて、小屋を三つ建てる、と
いうことを思い付いたのです。
しかし、この光景は地上の光景ではないのです。
しかし、終わりの時には、それが実現します。
この変貌の記事は、終わりの時の姿を示しているのかも知れません。
私達も、終わりの時には、キリストと共に、栄光の姿に変えられる、と言わ
れています。
フィリピの信徒への手紙3章21節には、次のようにあります。(p.365)
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたした
ちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
ペトロが最高に素晴らしいと思ったその光景の中に、私達もやがて移される
時が来るのです。
7節。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの
愛する子。これに聞け。」
その時雲の中から神の声が聞こえました。
これは、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時にも言われた言葉
です。
マルコによる福音書1章11節には、次のようにあります。(p.61)
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声
が、天から聞こえた。
ここではイエスは、「わたしの愛する子」に続いて、「神の心に適う者」と言
われています。
このように言われるのは、イエスだけです。
神は、この世を造り、この世を治めるために、アダムとエバを造りました
が、この最初の人は、神のみ心に適わず、禁断の木の実を食べた。
また、神は、全世界を救うためにイスラエルという民を選んでモーセの律法
を通して、神の意志を啓示しましたが、イスラエルの歴史は神に背き続ける
歴史でした。
そこで神は、自ら神の意志を行うためにみ子イエスをこの世に遣わされたの
です。
そしてこのイエスこそ、全く神のみ心に適う者でした。
それ故に、「神の愛する子」と言われているのです。
そして神は弟子たちに「これに聞け」と言います。
神は、素晴らしい光景をずっと弟子たちに見させるのではありませんでした。
「神の愛する子」の言葉に聞け、と言われます。
私達に重要なのは、「神の愛する子」である主イエスを通して語られた神のみ
言葉に聞く、ということです。
今日のテキストで、主イエスが旧約を代表するモーセとエリヤと語ってい
るという素晴らしい光景に、3人の弟子が接し、そしてペトロは、この光景
がいつまでも続くようにと願いましたが、しかし神は、この素晴らしい光景
をいつまでも続けるのでなく、「イエスは私の愛する子である。このイエスの
言葉に聞け」と言われるのです。
8節。
弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエス
だけが彼らと一緒におられた。
この素晴らしい光景が消え去って、弟子たちは多少がっかりしたかも知れま
せんが、しかし彼らには「神の愛する子」であるイエスの言葉がありました。
そして、この主イエスの言葉こそ、彼らを本当に生かし、励ますものとな
るのでした。
そして、この神の愛するみ子イエスの言葉こそ、私達に本当に命とよろこび
与えるものであります。
私達に本当の命と本当の喜び、本当の生きがいを与える主イエスの言葉に
聞き従う者でありたいと思います。