2003年3月16日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書8章31−9章1節 「命を得る」
前の所では、「イエスは何者か」という問いに対して、ペトロが「あなたは
メシアです」と答えたことを学びました。
そして、この答えからキリスト教が始まったことを学びました。
「イエスはメシアである」「イエスはキリストである」という信仰告白は、キ
リスト教の最も根本的な土台です。
しかし、ペトロは、そのメシアが受難のメシアだとは理解していなかった
のです。
イエスは、そのことを教えられました。
31節。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、
律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになって
いる、と弟子たちに教え始められた。
しかしこれを聞いたペトロは、自分のメシア像とは違っていたのでしょう。
そして、イエスをいさめた、とあります。
私たちはしばしば自分中心的であり、人の話を自分の都合のいいように聞く、
ということがよくあります。
ペトロは恐らく、メシアというのを、偉大な力を持って敵に勝利する、その
ような姿を思い描いていたのでしょう。
しかしここでイエスは、苦しみを受けて、ユダヤ教の指導者たちによって殺
される、ということを言いました。
ペトロは、メシアとはそんな弱々しいものではない、と思っていたのでしょ
う。
これは、ペトロだけでなく、当時のユダヤの一般民衆もそう思っていました。
現代のユダヤ教においても、依然としてメシア待望があります。
しかし、十字架にかけられて死んだイエスを決してメシアだとは言いません。
そんな弱々しい姿が、メシアであるはずがない、というのです。
ですから、私たちキリスト教は、「あの十字架にかけられて死んだイエスは、
メシアである」という告白をしますが、ユダヤ教ではこれは決して認めませ
ん。
さて、イエスが十字架で死なれたのは、私たちに命を与えるためでした。
私たちにとって一番大切なのは、この命です。
36節でイエスは次のように言います。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があ
ろうか。
この命と訳されている語は、ギリシア語ではプシュケーという語です。
これは、「命」とも「魂」とも訳せる語です。
これは、単に動物的に生きるという意味での命ではありません。
もちろんそれも含みますが、神との関係における本来の人間の命です。
霊的な命と言ってもいいでしょう。
そして、聖書に於いて一番大切なのは、この命です。
そしてこれは、神との関係に於いて与えられるものです。
創世記2章7節には次のようにあります。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命
の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
聖書の理解によりますと、私たち人間が「生きる」ためには、神から命の息
を吹き入れられなければならないのです。
従って、私たちの生は、本来神との関係にあるものです。
私たちは、創造者なる神に従うように造られた存在です。
従って、その命は、本来創造者なる神の意志に従って使うべきものです。
しかし、人間はいつしかこの命を自分のために使い、神のために使うことを
忘れてしまいました。
これが罪です。
そこでは、自分中心的な思いが優先します。
人間は健康が一番大切だ、と考える人がいます。
確かに健康は、私たちにとって非常に大切です。
しかし、神との関係を切り離した所では、自己中心的な健康の考え方になり
ます。
すなわち、自分さえ健康であればいいと思います。
健康を害して苦しんでいる人の苦しみが見えなくなります。
そして、健康が一番幸福だとすると、病気の人は不幸ということになります。
たとえ肉体の健康は害していても、その魂(プシュケー)が生き生きしてい
る人もいます。
星野富弘の絵や詩を見ていると、健康な人よりももっと生き生きしたものが
感じられます。
健康な人でも、魂が死んだようになっている人もいます。
また、「毎日を平和に過ごす」ということを最も大切だと考えている人もい
ます。
確かにこれも大切なことですが、これも神との関係と切り離した所では、自
己中心的な考えになります。
自分が平和に過ごせたら、他人はどうでもいいということになります。
あるいは、自分の家庭、自分の職場、あるいは自分の国が平和であれば、よ
そはどうでもいいと思います。
他の国が戦争しようが、圧迫されようがどうでもいいと思います。
今の日本の政府はそういう考えではないでしょうか。
イラクへの軍事攻撃について、アメリカのご機嫌を取ることだけを考え、イ
ラクの人たちのことは何も考えていません。
イラクの一般市民が大勢犠牲になってもいっこうにかまわないのです。
また、お金や財産が最も大切だと考えている人もいます。
しかし、イエスはルカによる福音書12章15節に於いて、「有り余るほど物
をもっていても、人の命は財産によってどうすることも出来ない」と言って
います。」
このルカによる福音書のテキストでは、ある金持ちが豊作でその作物をしま
っておく所がないと思っていましたが、大きい倉を建てて、そこに長年分の
食料を全部しまっておけば安心だと言った、というのです。
しかし、このとき神は次のように言いました。
ルカによる福音書12章20節(P.132)。
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用
意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
この命は神によって与えられたものです。
従って、神との関係に於いて、神のために使わないと、本当は意味がありま
せん。
そうでないと、本来の命のあり方ではありません。
36節。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があ
ろうか。
「全世界を手に入れる」というのは、所有の極限でしょう。
人間は、あれも欲しい、これも欲しいと思うものです。
そして、その最大のものを「全世界」で表しているのです。
主イエスも悪魔からこの誘惑を受けました。
マタイによる福音書4章8−9節です。(P.5)
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々と
その繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみ
んな与えよう」と言った。
しかし主イエスは、この誘惑を毅然として拒絶されました。
次の10節を見ますと、
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝
み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
人間は、あらゆるものを手に入れることが出来たとしても、命を得ることは
出来ないのです。
そして今日のテキストの36節で、主イエスは、
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があ
ろうか。
と言われました。
人間はあらゆるものを手に入れることが出来たとしても、命を得ることは出
来ません。
命は決して物によって交換できるものではありません。
私たち人間のあり方は、私たちに命を与え給うた神との関係に生きること
だ、ということを考えたいと思います。
35節。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福
音のために命を失う者は、それを救うのである。
自己中心的な生き方をする者は、結局命を失ってしまうのです。
私たちに命を与えて下さった神に従って生きるということが、本当の命を得
ることなのです。
しかし私たちは、神に忠実に従って生きることは出来ません。
34節に、
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従
いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
とあります。
非常に厳しい言葉です。
この言葉の背後には、初期のキリスト教会が迫害の中にあった、という事情
があるのかも知れません。
しかし、この言葉の背後には、主イエスご自身が神に徹底的に服従して、十
字架を負われたという事実があります。
私たちは神に全く忠実に従うことが出来ないかも知れませんが、主イエスが
私たちに代わって死に至るまで従順に従われたのです。
キリストは私たちに命を得させるために、自ら犠牲として十字架に献げて下
さったのです。
「わたしに従いなさい」とありますが、その前にまずキリストが私たちに代
わって、徹底的に神に従ったのです。
まずキリストの恵みがあります。
そして、それに応えて私たちはキリストに従うのです。
私たちの十字架は、キリストの苦しみから比べると、何10分の1,何千分
の1にしか過ぎないでしょう。
しかし、少しであっても、キリストの苦しみに与ることが出来るなら、それ
は恵みだと思います。
パウロは、コロサイの信徒への手紙1章24節で、次のように言っています。
今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの
体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって
満たしています。
私たちは自分の十字架をどれほど負っているでしょうか。
それほど負っていないかも知れません。
しかし、日本という異教の世界でキリスト者としていきること自体十字架を
負うことです。
私たちは、十字架を何も負っていないと引け目を感じることはないでしょう。
そして何よりも、私たちに代わってキリストが十字架を負って下さったこと
を覚えるべきでしょう。
キリストに従うとは、キリストとキリストの言葉を信じることです。
38節。
神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人
の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その
者を恥じる。」
主イエスはここで、当時のことを「神に背いたこの罪深い時代」と言ってい
ますが、私たちの時代も変わらない気がします。
「罪深い時代」というのは、犯罪が増加しているからとか、社会正義が守ら
れないとか、倫理的に堕落しているから、というだけではありません。
神の言葉が受け入れられない時代、ということです。
主イエスは、8章12節で次のように言っています。
イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たち
はしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たち
には、決してしるしは与えられない。」
イエスの時代、ユダヤ人はしるしを欲しがり、イエスの言葉を受け入れなか
ったのです。
今の世の中も、神の言葉が中々受け入れられません。
そういう中で、キリストとその言葉を信じるのは、それなりに戦いがあり、
十字架を負うことでもあります。
しかし、その戦いは空しいものではなく、私たちにとって一番大切な命を得
ることなのです。
私たちは、キリストとその言葉に従うことによって、最も大切である命を得
る者となりたいと思います。