2003年3月2日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書8章27−30節   「イエスは何者か」
 
27節。
 
  イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけ
  になった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言
  っているか」と言われた。
 
フィリポ・カイサリアというのは、ガリラヤから北の方へ40キロ位行った
所で、ヨルダン川の源流に近い地方です。
ヘルモン山の麓にあって、自然の非常に美しい所でした。
ここは、当時はユダヤ人の居住地ではなく、異教の町でした。
そして、ここで、きわめて重要なことが起こりました。
この出来事が重要であったということは、ヨハネによる福音書以外の三つの
福音書にすべて記されていることからも分かります。
この町は、ヘロデ大王が建てました。
この町には、昔から、パンという羊飼いの守り神の聖所がありました。
ヘロデ大王は、イエスが生まれた直後に死にましたが、その領地は3人の息
子たちに分けられました。
そして、この地方を受け継いだのは、フィリポという人でした。
このフィリポは、この町を自分の名前と皇帝(すなわちカイサル)の名を合
わせて、フィリポ・カイサリアと命名したのです。
この町は全く異教の町で、この世の華やかさが満ちていました。
主イエスは、この地方には宣教のために行かれたのではなさそうです。
彼は今までのどかなガリラヤの田舎で宣教活動されましたが、そこから少し
離れたこの世の華やかさを持つ異教の町を背景にして、弟子たちに重要なこ
とを教えるためにやって来たのです。
弟子たちは、恐らく、この異教の地でイエスはやはり神の国のことを教えた
り、病人を癒すために行っているのだろうと思っていたでしょう。
ところが、その旅の途中で、イエスは突然弟子たちに「人々は、わたしのこ
とを何者だと言っているか」と尋ねたのです。
恐らく弟子たちは、このような質問を予想していなかったでしょう。
イエスは、ガリラヤにおいては、神のことを語ってきました。
ご自分のことは語りませんでした。
ここでイエスは、なぜ弟子たちに、ご自分のことを聞かれたのでしょうか。
それも、人々は何者だと言っているか、と世間の評判を聞いているようです。
イエスは、世間の評判を気にしていたのでしょうか。
そしてそれが、直接自分の耳に入ってこないので、弟子たちから聞こうとし
たのでしょうか。
決してそうではありません。
 私たちは、しばしば、人から自分がどう思われているかということを気に
します。
自分に直接聞こえてこなくても、陰でどのようにいわれているか、というこ
とを気にします。
しかしここで、イエスは決してご自分の世間的な評判を気にしているという
のではありません。
そうではなく、イエスはここで、「イエスは何者か」という信仰の根本問題を
弟子たちに教えようとされたのです。
そのために、イエスは、弟子たちに自身の考えを聞く前に、まず人々がどう
いう風に思っているかを聞かれたのです。
 28節。
 
  弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エ
  リヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
 
弟子たちは、イエスについての評判をいろいろ耳にしていたのです。
その中で、弟子たちは、三つの代表的な評判をイエスに答えています。
まず第一は、「洗礼者ヨハネ」という評判です。
洗礼者ヨハネは、イエスに洗礼を授けた人物であり、ユダヤ人には非常に尊
敬されていました。
ところが、6章14節以下の記事を見ますと、洗礼者ヨハネは、ヘロデの妻
ヘロディアの策略によって、殺されてしまいました。
ヨハネの弟子や人々は、このことにショックを受けましたが、しかしヨハネ
の再来が現れるという希望を抱いたようです。
そして、人々の中には、イエスがその洗礼者ヨハネの再来だ、と言っていた
人がいたのです。
 次の意見は、「エリヤだ」というものです。
エリヤは、旧約聖書の偉大な預言者です。
この預言者は、特にイスラエルが偶像礼拝に満たされたとき、カルメル山で
バアルの400人の預言者と戦ったことで有名です。
そしてエリヤは、最後は死んだとは言われずに、列王記下2章11節を見ま
すと「嵐の中を天に上って行った」と言われています。
そして、旧約聖書の一番最後の書であるマラキ書3章23節には、
 
見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
 
と言われています。
すなわち、「嵐の中を天に上っていった」エリヤが、再び地上に遣わされて、
苦しみの中にある人々を救う、と言うのです。
イエスの時代のユダヤは、ローマ帝国の圧迫の下にあり、民衆は苦しい生活
を強いられていましたので、このエリヤの到来を期待する傾向にありました。
そして、イエスがその再来のエリヤではないか、と思っていた人たちがいた
ようです。
 次に、「預言者の一人だ」と言っていた人もいました。
ここの預言者は、旧約聖書の預言者と同列のもので、神から遣わされて神の
言葉を伝えるものですが、ここでは特にメシアの到来を預言する預言者でし
ょう。
そして、イエスがメシアの到来を預言する預言者だと考えていた人もいたよ
うです。
 イエスは、一般の人々が「わたしのことを何者だと言っているか」と聞い
た後に、今度は弟子たちに聞きます。
29節。
 
  そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者
  だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
 
この問いは、キリスト者にとって根本的な問いです。
世間の評判を言うという段階では、それほど責任はありません。
しかし、「あなたはわたしを何者だというのか」と問われるならば、責任が生
じます。
否、自分の存在をかけて、ある場合は自分の命をかけて答えなければならな
い場合もあります。
これは信仰告白です。
「あなたにとってイエスは何者か」ということです。
私たちにもこの問いが問われています。
そして、教会も常に問われています。
そして、ペトロは、「あなたは、メシアです」と答えました。
このメシアは、ギリシア語ではキリストです。
私たちは、イエス・キリストとくっつけて言っていますが、これは最初から
くっついていたわけではありません。
イエスとキリストがくっつけられるには、初代教会での戦いがあったのです。
初期の教会の時代においても、ここにあるように、「イエスは洗礼者ヨハネ
だ」という意見もありましたし、「イエスはエリヤだ」という意見もありまし
た。
また、「イエスは預言者の一人だ」という意見もありました。
しかし、初期の教会においては、「イエスは、メシアだ」という告白がなされ
たのです。
メシアのギリシア語訳は、キリストです。
ですから、「イエスはメシアだ」というのは、「イエスはキリストだ」という
のと同じです。
そしてこれは、非常に重要な告白です。
キリスト教というのは、イエスをメシア(キリスト)と告白する宗教です。
初代の教会がそう告白し、代々の教会がこの告白を継承し、また私たちもこ
の告白を継承しているのです。
 メシアというのは、元来「油注がれたもの」という意味です。
これは、イスラエルの王が即位するときに、預言者によってその人の頭に油
が注がれたということに由来します。
そして、王国が滅亡してからは、大祭司に油が注がれるようになりました。
とにかく、油が注がれた者は、民族を指導するものでした。
ペトロが「あなたは、メシアです」と答えたことは、このような王であり大
祭司であるような一人の人物を考えたのかも知れません。
31節以下の所を見ますと、ペトロはイエスのことを完全には理解していた
訳ではありませんが、しかしこの答えは最も正しい答えでした。
このような信仰告白が出来るのは、聖霊の働き以外にはありません。
マタイによる福音書の方(16章)を見ますと、このときイエスは、「あなた
にこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われ
ました。
そして、マタイによる福音書の方では、さらにその次には、「わたしはこの岩
の上にわたしの教会を建てる」と言われました。
ここでカトリック教会は、この岩はペトロその人であると取って、教会の基
礎はペトロその人である、と言います。
それ故ペトロが教会の創始者で、最初のローマ法王であって、天国の鍵がペ
トロから次々と伝えられている、と主張します。
しかし、私たちはそうは考えません。
「この岩の上に」というのは、ペトロという個人ではありません。
そうではなく、ペトロが言い表した信仰の告白です。
そしてこれは、ペトロが言いましたが、それは弟子たちを代表して言ったの
です。
そして、ペトロ個人が教会の基礎でない証拠に、今日のテキストの続きの3
1節以下でペトロの理解がなお過っていたことが指摘されています。
33節に至っては、ペトロはイエスに「サタン、引き下がれ」と言われてい
ます。
ペトロの「あなたは、メシアです」には、十字架の理解が欠けていました。
30節でイエスは、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒め
られました。
これは、なぜでしょうか。
それは、過った理解を伝えられてはならないと思ったからです。
すなわち、メシアと言うことには、栄光の姿、王や大祭司のような民族的英
雄という理解があったからです。
しかし、イエスがメシアであるという場合、そうではなく、苦しみを受けて
十字架上で殺されるメシアなのです。
31節には、
 
  それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、
  律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになって
  いる、と弟子たちに教え始められた。
 
とあります。
イエスが苦しみを受けることは神の計画であったのです。
そしてイエスは、この神の計画に忠実に従われたのです。
ここにメシアの本当の姿があります。
「多くの苦しみを受け、殺され、三日の後に復活された」メシアです。
そして、イエスが苦しみ、また復活したのは、私たちの救いのためでした。
私たちの罪を贖い、永遠の命の希望を与えるためでした。
それが神の計画であり、イエスはその神の計画に忠実に従ったのです。
従って、イエスは2千年前の人物というだけでなく、現在の私たちに深く関
係するお方です。
「あなたは、メシアです」という告白は、まさにイエスがこのわたしの救い
主だ、と言う意味です。
そして、これが、「イエスは何者か」という問いに対する正しい答えです。
この問いは、常に私たちにも問われているものです。
そして私たちは、命をかけて「あなたは、メシアです」と答えなければなり
ません。
私たちの生活において、この問いが常に問われ、そして答えられていくのが
キリスト者のあり方であると思います。
私たちも、ペトロのように「あなたは、メシアです」と答える者でありたい
と思います。