2003年2月2日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書8章1−10節 「イエスの配慮」
今日のテキストは、主イエスが空腹の群衆をパンと魚で養われたという話
です。
これは、イエスの奇跡物語においても、最もよく知られているものです。
この物語については、4つの福音書すべてに記されています。
さらに一つの福音書においても2度記されていることもあります。
同じマルコによる福音書にも、少し前の6章34−44節にも記されていま
す。
しかし、この8章とは、若干記事が違っています。
たとえば、最初にあったパンは、6章の方では5つでしたが、この章では7
つとあります。
そして、魚は6章の方では2匹ですが、この章では少しとあるだけで何匹あ
ったかは記されていません。
従って、主イエスはこの奇跡を2度行ったのかもしれません。
あるいは、1度であったが、その話が伝えられている間にいろいろな話にな
っていったのかもしれません。
マルコによる福音書が書かれたのは、主イエスの死後大体30年位たってか
らです。
従って、話が伝えられている間に少しずつ違っていったのでしょう。
そしてもはや、元の話がどうであったのかはわかりません。
しかし、元の話を復元することが重要なのではありません。
むしろ、主イエスの奇跡の話を語り伝えた人々の信仰が重要です。
これは、初期の教会の信仰と言っていいと思います。
初期の教会の信仰は、イエス・キリストがどういうお方か、という告白です。
もっといえば、マルコによる福音書は紀元60年代の教会の信仰によって書
かれたのです。
1−2節。
そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
これがどこで行われたのかは、記されていないので分かりません。
少し前の7章31節で、「ガリラヤ湖へやって来られた」とありますから、ガ
リラヤ湖畔のどこかであったでしょう。
そして、今日のテキストの10節には「ダルマヌタ」という地名が記されて
いますが、これもどこかは分かりません。
マルコはガリラヤ地方の正確な地理を知らなかったようです。
しかし、ここでも正確な地理はさほど重要ではありません。
4節で「こんな人里離れた所」と言われていますから、町や村からは遠く隔
たった所だったでしょう。
そして、この人里離れた所に大勢の群衆がイエスに従ってきたのです。
恐らくイエスは、最初ガリラヤ湖畔の町で話をしていたのでしょう。
そして、多くの人々がイエスの話を聞きに集まってきたのでしょう。
そして、イエスは、町を離れて人里離れた所に行かれたのです。
これは恐らく、祈るため、あるいは弟子たちに教えをなすためであったでし
ょう。
しかし、イエスの話に感動した多くの群衆がイエスの後に付いてきたのです。
ここに、主イエスの話がいかに多くの人を感動させたか、ということが示さ
れています。
そして、三日間も人里離れた所で過ごした、というのです。
そして、人々は皆空腹になっていた、というのです。
そして、イエスは、この群衆の空腹のことを思いやるのです。
主イエスがまず言われたのは、「群衆がかわいそうだ」ということです。
ここには、群衆に対するイエスの非常なる思いやり、配慮というものがあり
ます。
イエスは、病人をいやすときもそうです。
常に、その病人の今までの苦しみを思いやり、非常に深い配慮をされました。
そして、ついには手を伸ばして、その者を癒されたのです。
主イエスはここでも、今の群衆の状態を思いやり、三日もご自分について来
たことを配慮し、さぞお腹がすいたであろう、ということを心配されるので
す。
そして、今空腹の群衆にはパンが必要であることを配慮されるのです。
主イエスは、荒れ野の誘惑の時には、「人はパンのみによって生くるにあら
ず」と言われましたが、しかし、決してパンはどうでもいい、お腹をすかし
てもかすみを食えばいい、というのではありません。
重要なのは神のみ言葉であって、パンのことはどうでもいいのだ、とは言い
ません。
むしろ山上の説教で言われたように、私たちにとってパンは生きていく上で
必要であることをご存じなのです。
私たちが生きていくためには、食べ物が大事であることを主イエスはよくご
存じなのです。
それ故に、空腹の群衆のために、配慮するのです。
ここで、空腹な群衆にパンが必要なことを、弟子たちが言い出したのでも、
群衆が要求したのでもありません。
主イエスが真っ先に群衆が空腹なのを配慮して、言い出されたのです。
これに対して弟子たちはどう言ったでしょうか。
4節。
弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手
に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」
ここで、弟子たちはパンのことは全く考えていません。
自分たちがお腹がすいていたことは考えていたでしょうが、群衆の空腹のこ
とは全く考えていなかったのです。
恐らく、早く群衆を解散させたい、と思っていたでしょう。
「こんな人里離れた所で」というのは、イエスに対する抗議の気持ちが表さ
れています。
群衆は、空腹かもしれないが、こんな人里離れた所でパンなど手に入れるこ
とはできません、一刻でも早く群衆を解散させてください、という気持ちで
す。
解散させたら、後はもう群衆のことは考えなくてもいい、と思っていたので
す。
しかし、主イエスは、もし群衆をすぐに解散させたら、彼らは家に帰る途中
に飢えのために倒れてしまうかもしれない、と心配されたのです。
主イエスは、何としてでも、今ここで、群衆の飢えを満たしたい、と願って
いるのです。
そこで、イエスは尋ねます。
5節。
イエスが「パンはいくつあるか」とお尋ねになると、弟子たちは「7つあります」と言った。
弟子たちは、パンを7つ持っていたのです。
これは恐らく、群衆を解散させた後に、自分たちが食べる分として取ってい
たものだったでしょう。
しかし、大勢の群衆の前で7つでは、どうしようもないと思っていたのでし
ょう。
しかし、聖書には、神がイスラエルの民の飢えを満たしたという出来事がい
ろいろ記されています。
たとえば、荒れ野でイスラエルの民が飢えた時に、神は天からマナを降らせ
て飢えを満たしてくださいました。
また、民が肉を食べたいと訴えたときには、ウズラを飛んでこさせました。
ここで弟子たちは、イエスが神から遣わされた者であることを、まだ信じて
はいなかったのです。
ヨハネによる福音書6章51節には、次のようにあります。(P.176)
わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるなら
ば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすため
のわたしの肉のことである。
主イエスこそ、私たちに命の糧を与え給う主です。
これは初代の教会の信仰です。
主イエスに付き従っていた弟子たちは、イエスに対してこの信頼を持つべき
でした。
しかし、ここでは弟子たちは全くその信頼を持っていないのです。
しかし、主イエスは、ここで弟子たちの不信仰を責めてはいません。
今飢えて苦しんでいる群衆に早く食べさせたい、と群衆のことを配慮してい
るのです。
6節。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、7つのパンを取り、感
謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しに
なった。弟子たちは群衆に配った。
ここに出てくる言葉は、初代教会で行われていた聖餐式で用いられていた言
葉です。
すなわち、「パンを取り」、「感謝してこれを裂き」、「弟子たちに渡し」、「群衆
に配る」。
私たちの教会では、聖餐式の時には、あらかじめ小さく切ったパンを配って
いますが、初期の教会においては大きな固まりのパンを小さく割いて、それ
を配ったのです。
そこで、パンを割くというのも、重要な要素でした。
そしてこれは、十字架上に裂かれた主イエスの肉を表しました。
8節。
人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、7籠になった。
群衆は、「食べて満腹した」とあります。
主イエスの与える糧は、形だけのほんの少しというのでなく、満腹するだけ
十分のものでした。
先ほどのヨハネによる福音書6章51節では、「それを食べる物は、いつまで
も生きるであろう」と言われています。
そして、これは初代教会の信仰告白でした。
主イエスの与えるものによって、私たちは本当の命に生かされるのです。
それを「満腹した」という表現で言われているのです。
そして、少なくとも、初期の教会の人たちは、このパンの奇跡をそのように
受け取ったのです。
そして、満腹しただけでなく、さらに「7つの籠になった」と言われてい
ます。
主イエスの与える恵みは、私たちにはあまりある、ということです。
さらに、この7つというのには、象徴的な意味があります。
6章の「5つのパン」の記事では、残ったものは、12の籠と言われていま
す。
これは、イスラエルの12部族を表しています。
主イエスの福音は、まずイスラエルに伝えられました。
しかし、7章では、イエスはシリア・フェニキアの女、すなわち異邦人を癒
されました。
そこで、この8章で、7つと言われているのは、当時の7つの地方と言うこ
とで、全世界を表しました。
このパンの奇跡において、イエスが配慮されるのは、イスラエルの民だけでな
く、全世界の人々である、ということが暗に言われているのです。
そして、文字通り、主イエスの福音は、全世界に伝えられ、世界中の人々が
真の命に与ることができるのです。
そして、私たち日本にも、キリストの福音が伝えられました。
今の日本は、飢えや空腹ということはないでしょう。
むしろ、飽食の時代といわれ、食生活は非常に贅沢になっています。
何でも好きなものをお腹いっぱい食べることができます。
しかし、霊のパンには飢えているのではないでしょうか。
私たちを本当に生かすのは、実は霊のパンです。
ヨハネによる福音書6章63節には次のようにあります。(P.177)
命を与えるのは霊≠ナある。肉は何の役にも立たない。わたしがあな
たがたに話した言葉は霊であり、命である。
私たちは、キリストの深い配慮に与っていることを覚えなければなりません。
そして、キリストの配慮は、私たちを真の意味で生かすことです。
私たちは、いついかなる時も、キリストに信頼し、キリストの言葉に従って、
真の命に生きる者となりたいと思います。