2003年1月19日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書7章31−37節  「すばらしいお方」
 お読み頂きました今日のテキストの31節をもう一度読みます。
 
  それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリ
  ス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
 
このすぐ前の箇所で、私たちは、主イエスがティルスの地方に行かれた時、
そこのシリア・フェニキアの女の娘で汚れた霊に取りつかれた人を癒された
という記事を学びました。
ここでは主イエスは、異邦人にも福音を宣べ伝えられました。
主イエスの福音は、すべての人に対して伝えられるべきものです。
当時の異邦人は、神の民であるユダヤ人と区別されて、神の恵みには簡単に
は与れない、と考えられていました。
しかし、主イエスは、その異邦人にも、福音を伝えられたのです。
 それから、ユダヤ人であっても、ユダヤ人の社会から疎外されていた人も
いました。
例えば、徴税人や遊女、罪人、あるいは汚れた病気と考えられていた人々で
す。
イエスは、当時の社会で差別され、神の恵みには与れないと考えられていた
人々を避けるのではなく、むしろそのような人々に近づき、彼らに福音を伝
えたのです。
 しかし一方では、いろいろな障害のために、福音に接することの難しい人
もいました。
主イエスは、7章16節で、
 
  聞く耳のある者は聞きなさい。
 
と言われました
これは、耳の聞こえない人には、非常にハンディとなります。
しかしイエスは、福音は耳の聞こえない人にも分け隔てがないことを欲され
るのです。
今日の記事は、その具体的な例であると言っていいと思います。
 さて、今読みました31節には、イエスの旅された地名が記されています
が、これは実際に旅するには非常に不自然です。
ティルスもシドンも地中海沿岸の都市でした。
そして、デカポリス地方というのは、ずっと内陸部のガリラヤよりももっと
東の地方でした。
これは、「10の町」という意味で、ギリシアの植民都市が建設されていまし
た。
すなわち、ティルスは西の端であり、デカポリスは東の端であり、ガリラヤ
は真ん中という位置関係です。
ですから、旅をするならば、ティルスからガリラヤを通り、そしてデカポリ
スに行くということになります。
これは、マルコがイエスのいろいろな時期に行かれた場所を、ここにまとめ
て記したのではないかと思われます。
 32節。
 
  人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いて
  くださるようにと願った。
 
ここに、イエスのもとに1人の聴覚の障害者が連れてこられました。
人々というのは、親や親戚というのではなく、同じ町に住んでいた一般の人
々のことでしょう。
ガリラヤ湖の周辺の人々は、比較的貧しい田舎の人たちでした。
ガリラヤ湖
彼らは貧しいが、日頃互いによく助け合っていたようです。
人は、豊かになるほど、自分中心的になり、他の人のことを思わず、助け合
いということも少ないものです。
貧しい国や地方の人々は、お互い良く助け合うものです。
このガリラヤ地方の貧しい人々は、普段自分たちの近所にいるこの聴覚障害
者をいろいろ助けていたと思われます。
そして、何とかして治してあげたい、と思っていたのではないでしょうか。
そこへイエスが通りがかったので、彼を連れてきて、「手を置いてください」
とお願いしました。
手を置くというのは、癒す時の動作です。
ここには、人々のこの人に対する愛が示されています。
彼らは、恐らくかつてイエスの話を聞いたことがあったのでしょう。
しかし、自分たちはイエスの言葉を聞いて恵みに与ることができても、この
人は聞くことができません。
現代のように手話通訳ということもなかったのです。
また、文字を書くという教育も受けていなかったでしょう。
しかしながら、人々は何とかして、この男にもイエスの話を聞かせてあげた
い、と思ったのでしょう。
これらの人々は、単なる親切心からではなく、イエスに対する信頼があった
のでしょう。
単に耳が聞こえるようにというのでなく、イエスの言葉を聞いて、この人も
福音に与ることを望んだのです。
 イエスはきっと、この連れてきた人々の熱心を見られたでしょう。
マルコによる福音書2章のところで、人々が屋根をはがして中風の人を床に
寝かせたままつり降ろした、という記事がありました。
今日の箇所には、イエスが人々の信仰を見たという言葉はありませんが、き
っとイエスは人々の信仰を見られたに違いありません。
 33節。
 
  そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に
  差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
 
ここでイエスは、この聴覚障害の人だけを連れ出しました。
これは、奇跡物語に共通の要素です。
神の力は、ただその人1人に向かって臨むのです。
神は、一対一の出会いをされるのです。
イエスは、奇跡を多くの人に見せるためにするのではありません。
むしろ隠れて行いました。
イエスは、決して、ご自分の力を人々に見せて、人々から称賛されようとは
なさいませんでした。
むしろ、そのようなことを極力避けられました。
36節を見ますと、癒しを行われた後、イエスは「だれにもこのことを話し
てはいけない、と口止めをされた」とあります。
イエスにとって、奇跡自体が目的では決してありませんでした。
奇跡を起こすことによって、ご自分が人々から崇められる、ということを望
まれたのではありません。
何か人にない特別な能力を持つ人は、それを人に見せて、自分が誉めたたえ
られることを欲するものです。
しかも、大体は、自分の力以上に見せようとします。
しかしイエスは、苦しみを負う1人の人との人格的な出会いを望まれるので
す。
それゆえ、他の大勢の人は必要ではなく、そのような人から隠れたところで
癒しを行われるのです。
その人が真に救われることを望まれるのです。
そして、そのために必要なことをされるのです。
そして今、イエスはこの聴覚障害者の耳が聞こえるようになって、イエスの
言葉を聞き、神を誉めたたえることを望まれたのです。
 さてここで、イエスはこの男に言葉をかけません。
ただ動作をされるだけです。
「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」とあ
ります。
他の奇跡物語では、イエスはその人に声をかけられています。
しかし、この男は聴覚障害者のゆえに、言葉をかけても聞くことができない
のです。
イエスは、常に相手の立場に立って行動されます。
 差別ということがいわれます。
それは、常に相手の立場に立たないところから来ます。
人種差別、職業差別、部落差別、障害者差別、性差別、人間の社会には至る
所に差別があります。
そしてそれは、常に自分を中心にするところ、相手がしてほしくないとか、
言ってほしくないことを考えないところから来ます。
ここでイエスは、聴覚障害者の立場に立っている、ということができます。
 34節。
 
  そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と
  言われた。これは、「開け」という意味である。
 
「天を仰いで」というのは、神に委ねる姿勢です。
イエスは、今決して自分の力で事を起こそうとするのでなく、すべてを神の
力に委ねています。
そして、「深く息をつ」いた、と言われています。
これはどういう意味でしょうか。
これは、この人に対するイエスの深い憐れみを表しています。
この人が、今まで、耳も聞こえず、口も利けなかった、ということを深く思
いやって、どれほどつらかったであろうか、どれほど苦しかったであろうか、
と憐れんで漏らしたため息です。
 そして、「エッファタ」と言われました。
これは、イエスが日常使っていたアラム語で、「開け」という意味です。
この言葉をイエスは、力一杯叫ばれたと思います。
この男を深く憐れんで深い息をつくと共に、心からの願いを込めて「開け」
と叫ばれたのです。
新約聖書はギリシア語で書かれていますが、イエスの語った特に印象深い言
葉は、アラム語のまま伝えられました。
5章の終わりの方に出てきた会堂長ヤイロの娘が癒された記事でも、イエス
は「タリタ、クム」と言われたことが記されていました。
 ここで、この聴覚障害者には、このイエスの叫んだ「エッファタ」という
言葉が聞こえたのでしょう。
そして、この言葉が聖書にそのまま記されたのは、この聴覚障害者が生まれ
て初めて耳にした言葉が、このエッファタであったので、特に印象深く記憶
されたのでしょう。
私たちにも多かれ少なかれ忘れられない特に印象的に記憶している言葉とい
うものがあるかも知れませんが、この男にとっては、エッファタという言葉
はイエスとの出会いを思い起こす特別な言葉となったのです。
 そしてこの男は、耳も聞こえるようになり、口も利けるようになりました。
そして、それを知った多くの人々は、イエスのことを称賛しました。
37節。
 
  そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、す
  ばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話
  せるようにしてくださる。」
 
ここでの人々の称賛は、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」で
す。
これは恐らく、イエスの生涯をすべて知っているマルコや初代教会の信仰告
白であったでしょう。
イエスは、「すばらしいお方」である、というのが、初代教会の信仰者達の思
いだったでしょう。
「この方のなさったことはすべて」とあります。
イエスの生涯は、すべてすばらしいことでした。
それは奇跡だけでなく、十字架の苦しみもそうです。
なぜなら、それは私たちの救いのためだったからです。
そして、神のなさることはすべてすばらしいと思います。
伝道の書の著者は、「神のなさることは皆その時に適って美しい」と言いまし
たが、実にそうだと思います。
また、天地創造の記事の最後の言葉は、「神が造ったすべての物を見られたと
ころ、それははなはだ良かった」というものです。
神のなさることはすべてすばらしい、ということが信仰者の告白です。
私たちはなかなかすべてという訳にはいかないのではないでしょうか。
すばらしいと思う時もあるけれども、そうでない時もあるのではないでしょ
うか。
むしろ疑問に思う時、神を呪いたくなるような時もあるかも知れません。
しかし、そうでないと思われる時も、ロマ書8章28節に「万事相働きて益
となす」とあるように、やはり神のなさることはすべてすばらしいのです。
 さて、イエスはこの男に「開け」と言われました。
これは耳が聞こえるようになれ、ということですが、特に神の言葉が聞こえ
るようになれ、ということです。
実際の耳が開いていても、神の言葉を聞くことのできない人もいます。
また逆に、実際の耳は聞こえなくても、神のみ言葉に耳を傾けることのでき
る人もいます。
イエスは、16節で、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われましたが、本
当に大切なことは、神のみ言葉を聞くことができるということです。
イエスは、この聴覚障害者に「開け」と言われましたが、これはまた私たち
にも呼びかけられているのではないでしょうか。
私たちも、耳を傾けて、神のみ言葉に聞く者でありたいと思います。