2002年12月1日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書7章24−30節 「異邦人の救い」
24節。
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、
だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまっ
た。
さて、主イエスはここで、ティルスの地方へ行かれた、とあります。
このティルスというのは、ガリラヤから北東に行ったところの地中海沿岸の
都市で、古くから栄えた港町でした。
昔は、フェニキアの国に属していましたが、主イエスの時代は、ローマのシ
リア州に属していました。
そこで、26節では「シリア・フェニキア」と言われているのです。
これはすなわち、シリア州に属するフェニキアということです。
この町は、ユダヤ教からすれば、異邦人の町でした。
かつては、バアル宗教がこのティルスからイスラエルにもたらされ、ヤハウ
ェ宗教が危機に陥りました。
それは、紀元前9世紀、預言者エリヤが活動した時代です。
時のイスラエルの王アハブがティルスの王の娘であったイゼベルという女と
結婚し、このイゼベルによってバアル宗教がイスラエルに持ち込まれたので
す。
イゼベルは、バアル宗教を持ち込んだだけでなく、イスラエルの人々にこの
バアルの礼拝を強要し、伝統的なヤハウェの礼拝を禁止したのです。
そして、それに従わない人は、捕らえられ、殺されたのです。
ヤハウェの預言者も迫害を受け、エリヤがただ一人、神に守られて生き残り
ました。
そして、2年間旱魃が続いた時に、エリヤはただ一人、バアルの預言者たち
と、カルメル山で雨乞いの対決をしました。
この話は、列王記上18章に記されています。
さて、主イエスは、この異邦人の町であるティルスに何をしにいったので
しょうか。
「だれにも知られたくないと思っておられた」とありますから、多くの人に
伝道に行かれたというのではなさそうです。
むしろ、人々から隠れて、ひそかに行かれたようです。
8章27節のところでは、主イエスはフィリポ・カイサリア地方に行かれた、
ということが記されています。
このフィリポ・カイサリア地方も異邦人の町でしたが、そのときも異邦人に
伝道するためではなく、弟子たちに重要なことを教えるためでした。
すなわち、イエスとは誰か、ということを教えるためでした。
そして、今日のこのティルスに行かれたのも、人々に伝道するためではなく、
恐らく弟子たちに信仰を教えるためであったと思われます。
しかし、一人の女がイエスのことを聞きつけて、早速主イエスのところに
やって来たのです。
25−26節。
汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞き
つけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニ
キアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
この女性がギリシア人であったということは、ユダヤ教からすれば異教徒で
あったということです。
もちろん、聖書の神への信仰は持っていなかったでしょう。
ギリシア人とありますから、伝統的なギリシアの神々を信じていたと思われ
ます。
この女性の娘が重い病気にかかっていました。
どういう病気かは分かりません。
「汚れた霊に取りつかれた」とあります。
昔は、病気になるというのは、悪霊によると信じられていました。
この考えの背後には、究極的には、神は病を欲し給わず、むしろ病気は神に
敵対するものだ、という考えがありました。
これは死も同じことであって、コリントの信徒への手紙一15章26節では、
「最後の敵として、死が滅ぼされます」と言われています。
主イエスが病の人を深く憐れみ、癒しのみ手を伸べられたのは、やはり病を
神に敵対するものと捉えたからでしょう。
さてこの女性は、重い病気にかかっているわが子を何とかして治してやり
たい、と強く思っていたのでしょう。
ここに、自分の子どものことを深く思う親の愛が窺われます。
この子が癒されるためには、今までもいろんなことを試みてきたことが想像
されます。
しかし、恐らくどれもうまく行かなかったのでしょう。
しかし、この女性は決して諦めませんでした。
ちょうどそのときに、イエスの評判を聞きつけたのです。
そして彼女は、早速イエスのところにやってきました。
そして、イエスの足下にひれ伏した、とあります。
これは、イエスに対する全くの信頼を表しています。
彼女はなぜ、初対面のイエスにこのような信頼を表明したのでしょうか。
恐らく彼女は、今まで娘を助けてもらおうといろいろな人と出会ったと思わ
れます。
そのような経験の中から、真実な人が誰か、ということを悟るようになった
のでしょう。
そして、イエスこそ真実なお方である、イエスこそ全く信頼に足るお方であ
るという、そのような信仰を持ったのでしょう。
ここでは彼女は、すべてをイエスに委ねています。
それは一種の賭です。
パスカルは「人生は賭である」と言いました。
それは、神を信じて生きるか、信じないで生きるかです。
そしてパスカルは、信じて生きる方に賭けたのです。
そして、その方が喜びの人生である、と言います。
さてこの女性に対してイエスはどうされたでしょうか。
27節。
イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。
子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ここでイエスは、この女を非常に冷たくあしらっています。
「子供たち」というのは、ユダヤ人のことです。
そして、子犬と言われているのは、異邦人を指しています。
ユダヤ人はしばしば、異邦人のことを軽蔑を含めて犬と呼んだのです。
ただ、イエスはここで「子犬」と言っており、これは飼い犬を表し、むしろ
大事にされるものが意図され、軽蔑の意味は含まれていません。
しかし、異邦人はかわいい飼い犬であっても、より愛すべき子どもではない
のです。
主イエスは、イスラエルの失われた羊を探し求めることが第一の使命でした。
神の民であったユダヤ人は、イエスの時代全く飢えた状態でした。
特にイエスの郷里のガリラヤ地方の貧しい人々はそうでした。
6章34節には、次のようにありました。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような
有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
この飼い主のいない羊のようなガリラヤのユダヤ人に、真の羊飼いとして、
神の恵みを伝えるのがイエスの第一の仕事でした。
これが「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」と言うことです。
同胞のユダヤ人が飢えた状態にあるのに、ユダヤ人を放っておいて、異邦人
を助けるべきではない、と言うのです。
イエスの活動は、ガリラヤ地方のユダヤ人に対して神の国を宣べ伝えること
であり、ティルスやあるいはフィリポ・カイサリアなどの異邦人の町は伝道
のために行ったのではありませんでした。
28節。
ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供
のパン屑はいただきます。」
この女の人は非常に謙虚です。
イエスに自分の願いも聞き入れられずに、非常に冷たくあしらわれたのに、
イエスの対して「主よ」と言っています。
しかも、自分たちのことを犬と言われているのに。
普通なら激しく怒るとこです。
そして、もうそんな人に頼まない、と言って、踵を返すところです。
あるいは、イエスに対して失望して、引き下がるところです。
しかし、彼女はイエスに失望するのでもなく、イエスに対して怒るのでもな
く、そのイエスになお信頼し、食い下がるのです。
この女性は、非常に謙虚でしたが、ちょっとやそっとのことでは失望したり
諦めたりしない、芯のしっかりした女性でした。
また、熱心な求めの女性でした。
最後まで、イエスに賭けた姿勢です。
私たちも、どんなことがあっても、主イエスに最後まで賭けられるでしょう
か。
主イエスは、マタイによる福音書7章7節において、
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見
つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
と言われましたが、この女性はまさにそのような諦めずに求める人でした。
それは、イエスに心から信頼したからでしょう。
彼女は、確かに神の恵みはまず神の民であるユダヤ人に与えられるべきであ
るが、しかしそのおこぼれは自分たち異邦人にも与えられていいのではない
か、と言います。
この言葉にイエスは動かされました。
29節。
そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りな
さい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
主イエスは、この女性の言葉に、イエスに全く信頼する真実な姿を見ました。
イエスは、ティルスにおいて、異邦人に働きかけることは考えていませんで
したが、異邦人の側からの熱心な働きかけによって、とうとう異邦人への働
きかけをなしたのです。
そして、彼女の娘は癒されました。
これは、彼女のイエスに対する信頼、イエスへの熱心な求めによって癒され
たのです。
まさに、「求めよ、さらば与えられん」という言葉の通りです。
主イエスはしばしば、熱心な求めは必ず聞かれるということを譬えで教え
られました。
ここで私たちは、一人のやもめの熱心な訴えを聞いた不正な裁判官の譬え
を思い起こします。
ルカによる福音書18章1−5節です。(P.143)
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるた
めに、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも
思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判
官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っ
ていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、
その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しか
し、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をし
てやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざん
な目に遭わすにちがいない。』」
この話はいささかオーバーで、実際にはありそうにもありませんが、しかし
ここでイエスは、熱心に求めるならば、神は必ずそれを聞いてくださる、と
いうことを言っているのです。
親は子供の願いを叶えてあげたいと思うものです。
そのことが子どものためになると思われることであるならば、なおさらそう
です。
ました神さまは、私たちのよいと思われる願いを必ず聞いてくださいます。
私たちに必要なのは、そのような願いを必ず聞いてくださるという神に対す
る信頼です。
主イエスは、このシリア・フェニキアの女の熱心に動かされて、異邦人を
救いましたが、しかし異邦人にも救いを宣べ伝えるのは、イエスの最初から
の思いでした。
ルカによる福音書2章32節で、神殿で幼子イエスに出会ったシメオンは、
イエスのことを「異邦人を照らす啓示の光」と言っています。
主イエスは、私たち異邦人を救うためにこの世に来られたのです。
私たちも、シリア・フェニキアの女のように、謙虚でありつつ、イエスによ
ってを救いを熱心に求めるものでありたいと思います。