2002年10月27日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書7章1-8節 「口先と真心」
1節。
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イ
エスのもとに集まった。
主イエスが最初の頃に伝道活動したのは、ガリラヤ地方でした。
前の6章53節には、「ゲネサレトという土地」とあります。
これは、ガリラヤ湖の北の沿岸の町です。
そしてその少し前の45節には、ベトサイダとあります。
これもガリラヤ湖畔の町です。
また、はじめの方では、カファルナウムでも活動されました。
これもガリラヤ湖畔の町です。
主イエスは、この地方の民衆に神の福音を伝えましたが、この地方の人々は
農民や漁民が多く、素朴な人々でした。
しかし彼らは一般に貧しく、生活上のいろいろな苦難を負っていました。
当時ガリラヤはローマ帝国の支配下にあり、重い税金が課せられ、経済的に
虐げられていました。
それだけでなく、外国の民に支配されているという精神的な苦痛もありまし
た。
6章34節の所では、そのような群衆が「飼い主のいない羊のような有様」
と言われています。
そして主イエスは、そのように経済的に、また精神的に苦しみを負っている
ガリラヤの民衆を「深く憐れんだ」とあります。
さらに彼らは、外国の支配者によって苦しめられていただけでなく、自分た
ちの同じ民からも宗教的な面で疎外されていたのです。
すなわち、ユダヤ教のいろいろな戒めを守らない汚れたものだ、とみなされ
ていたのです。
先ほどの7章1節に出る「ファリサイ派の人々と律法学者」は、そのユダ
ヤ教の正統派を自認する人々でした。
彼らは、エルサレムから来た、とあります。
エルサレムはユダヤ教の指導者達が大勢いる所です。
彼らが何をしにガリラヤにやってきたのかは、はっきりとは分かりません。
しかし、「イエスのもとに集まった」とありますから、彼らの目的はイエスだ
ったでしょう。
恐らく、イエスの名声がエルサレムにも聞こえていたのでしょう。
恐らく、ガリラヤにいた律法学者がイエスのことをエルサレムの上司に報告
したのでしょう。
イエスが多くの人々に教えをして多くの民衆が彼に従っているとか、彼が病
人を癒している、といったことでしょう。
そしてその報告を受けたエルサレムの宗教指導者達は、イエスの言動が宗教
的な伝統から見て正しいかどうかを調べに来たのかも知れません。
エルサレムから来たというのは、ある種の権威をもってきたのです。
もう少しいえば、ある種の威圧をイエスに加えるために来たのです。
イエスはけしからん教えをしている、と弾圧を加えに来たのです。
そこで彼らはまず、イエスの弟子たちを調査したのです。
2節。
そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事を
する者がいるのを見た。
調査するとさっそく、イエスの弟子たちがユダヤ教の戒めに違反することを
していることを発見しました。
すなわち、彼らは食事の前に手を洗わなかった、と言うのです。
当時のユダヤ教において、食事は単に食欲を満たすというだけでなく、一種
の宗教的な儀式でもありました。
食事は清いもので、清い状態で食べなければなりませんでした。
食べるものも清いものでなければなりませんでした。
汚れたものは食べてはなりませんでした。
そこで、動物は、清い動物と汚れた動物に分けられていました。
汚れた動物の肉は食べてはならなかったのです。
清い動物(すなわち食べることのできる動物)と汚れた動物(すなわち食べ
てはいけない動物)のリストは、レビ11章に記されています。
例えば、魚なら鱗のないものは汚れたものでした。
従って今でも厳格なユダヤ教徒は、イカとかカニとかタコなどは決して食べ
ません。
また、豚も汚れた動物とされ、ユダヤ教徒は豚肉は食べません。
さらに食事の規定は、主イエスの時代には、非常に細かなことがありました。
4節。
また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。
そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固
く守っていることがたくさんある。
食事の規定だけでも、このような細々したことが沢山あり、その他の日常的
なことを数え上げればきりがありません。
そして、そのようなことをすべてマスターできる人は、教育のある一部の人
に限られるということになります。
主イエスの弟子たちは、ガリラヤの田舎の素朴な人たちであり、そのような
細かな規定を小さい時から教えられるというような環境には育たなかったの
です。
そして、ガリラヤ地方の多くの人たちはそうでした。
そして、それはエルサレムの宗教指導者達から見れば、汚れた行為と映った
のです。
イエスは立派なことを人々に教え、多くの人が彼に従っていましたが、この
弟子たちはユダヤ教の伝統から外れたことをしている、と。
そういう風にファリサイ派と律法学者には映ったのです。
3節。
ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守
って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
「昔の人の言い伝え」というのは、聖書の戒めを解釈したものです。
従って神の戒めそのものではありません。
このような言い伝えは、時代が経つにつれて、いろいろ細かいことが付け加
えられていったのです。
そしてそれらは、本質的なことでは決してありませんでした。
手を洗うという場合でも、例えば、どの指から洗うかとか、どちらを下向き
にして洗うとか、細かいことが規定されていました。
そのようなことは本当はどうでも良いことなのです。
そして、そのような細々した規定に縛られて、肝心の神の戒めそのものがど
こかに行ってしまうと言うようなことがイエスの時代には多くあったのです。
本末転倒ということです。
主イエスの時代のファリサイ派の人々や律法学者達は、しばしばこの本末転
倒に陥ったのです。
そして重箱の隅を突っつくような非難を人々にしたのです。
5節。
そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの
弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするの
ですか。」
ここで、ファリサイ派の人々と律法学者達は、主イエスを直接非難せずに、
弟子たちを咎めています。
それは、イエスに対しては、一種の尊敬とまでは行かなくても、これだけ大
勢の人々が従っているのだから普通の人ではない、という思いがあったので
しょう。
そして、主イエスもきっと自分たちの権威には従うであろう、と思ったので
しょう。
これに対して主イエスは、預言者イザヤの言葉を引用してファリサイ派の
人々を批判されました。
これは、イザヤが当時のエルサレムの指導者達を非難した言葉です。
イザヤの時代、ユダの国はアッシリア帝国によって脅かされていました。
この危機の時代にあって、イザヤは、神により頼むことを主張しました。
特に、国を指導するものにそれを主張しました。
人々は、表面的にはイザヤの言葉を聞き、神を礼拝したようですが、それは
口先だけのことであって、ユダの指導者達は、神に頼るよりも、エジプトに
頼ったのです。
いくら口先で神を礼拝していても、その行いが神から離れているならば、本
当に神を礼拝したことにはなりません。
主イエスが批判された当時のファリサイ派の人々や律法学者も同じであっ
たと思います。
8節には、
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。
とあります。
ここで主イエスは、「神の掟」と「人間の言い伝え」とを対照させています。
ファリサイ派の人々が大切にしていたのは、実は人間の言い伝えでした。
しかし主イエスは、真に大切なのは、人間の言い伝えではなく、神の掟だ、
と言います。
人間の言い伝えは、神の言葉を解釈したものです。
そしてこの人間の解釈は、しばしば自分勝手なものになってしまいます。
私たちはややもすると自分の都合のいいように解釈してしまいがちです。
真に大切なのは、その人間の解釈ではなく、神御自身の言葉です。
すなわち、私たちにとっては、特に聖書と言っていいでしょう。
10月31日は、宗教改革記念日です。
16世紀にマルティン・ルターが宗教改革を起こしましたが、彼は何か新し
い宗教を起こそうとしたのではありません。
そうではなく、彼は聖書の信仰に戻ったのです。
彼の主張の一つは、「聖書のみ」ということでした。
ラテン語でsola Scriputuraと言います。
中世においては、聖書よりも、カトリック教会の伝統やローマ法王の言葉や
聖人の言葉が重んじられていました。
そして、しばしば、何かこの世の利益のために聖人の言葉などが利用された
りしました。
しかしマルティン・ルターは、そういう人間の言葉ではなく、神の言葉が真
に大切である、ということを主張しました。
これは、スイスで宗教改革を起こしたカルヴァンもそうでした。
彼らは、宗教改革で何を行ったかというと、聖書を一生懸命研究したという
ことです。
ルターは、今まで聖書はラテン語で読まれ、一般の人には理解されていなか
ったのを、一般のドイツ人にも分かるように、聖書をドイツ語に翻訳したの
です。
カルヴァンも、スイスのジュネーブ教会において、ひたすら聖書の研究をし
ました。
そしてそれらがまとめられて、注解書として出されました。
プロテスタント教会では、礼拝において、特に説教が重んじられます。
これも、神の言葉たる聖書の説き明かしが大切であるからです。
私たちにとっても真に大切なのは、神の言葉です。
人間の言い伝えは、しばしば人間を束縛し、ある時は人を殺しもします。
しかし、神の言葉は人間を本当に解放し、人間を生かします。
人間を本当に救うのです。
しかし、せっかく人間を解放し、生かしてくださる神を、口先だけで敬っ
ていては、真の救いにはなりません。
真心をもってその神に仕えることが重要です。
旧約の預言者は、形式を整えるのでなく、「真心をもって神に仕える」ことを
主張しました。
ホセアは、当時の上層階級が贅沢な犠牲を献げるが、神を真心から礼拝しな
いのを非難しまして、
わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。
と言いました。
主イエスは、ヨハネによる福音書4章24節で、
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しな
ければならない。
と言っています。
私たちも真心から神に仕えていく者でありたいと思います。