2002年10月13日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書6章45−52節 「恐れることはない」
今日のテキストは、「イエスの奇跡物語」です。
奇跡物語は、元来は、素朴な民衆の素朴な信仰として伝えられていたものです。
これと同じ話は、マタイによる福音書にもヨハネによる福音書にも記されて
います。
また、これと似た話は、以前に学んだマルコによる福音書4章35−41節
にもあります。
そこでは、主イエスは最初から弟子たちと一緒に舟に乗っていましたが、途
中で激しい嵐になり、弟子たちは非常に恐れました。
その時主イエスが「黙れ、静まれ」と言われると風は止んで、すっかり凪に
なった、という話でした。
そしてこの話は、マタイによる福音書にもルカによる福音書にも記されてい
ます。
従って、このような話は、マルコによる福音書が書かれた当時(紀元65〜
70年)に、多くの地方に広く伝わっていたと思われます。
そして、今日のテキストは、もとの伝承においては、主イエスが湖の上を歩
かれたという素晴らしい奇跡の話として伝えられていたようです。
しかし、マルコがその民衆に伝わっていた素朴な話をこの福音書に取り入
れたときは、中心点はイエスが湖の上を歩かれたという所にはありません。
これを当時の教会の信仰の問題として理解したのです。
舟はしばしば、教会の象徴として理解されてきました。
マルコも、この素朴な民衆の伝承を取り入れる際に、この舟を現実の教会と
二重写しにして理解したのです。
48節。
ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明け
るころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎよう
とされた。
ここの湖は、ガリラヤ湖です。
イスラエルの人々にとって、自然は人間と美しく調和し、人間を暖かく包む
ものではありません。
むしろ自然は、人間に敵対する厳しいものです。
讃美歌の155番に「山べにむかいて」というのがあります。
これは詩編121編を歌ったものです。
「山べにむかいてわれ、目をあぐ」というものです。
われわれ日本人は、この「山べ」というので、緑豊かな美しい山というもの
を連想するのではないでしょうか。
しかし、この詩編121編で歌われている「山」は、そのような美しい山と
いうのではなく、野獣が出たり強盗が出たりし、今からその山を越えて故郷
に帰る巡礼者にとって、非常に危険な所ということが意図されています。
そのような危険な所を越えるので、神さまどうか守って下さい、という歌で
す。
そして、イスラエルの人々にとって、海もまた非常に厳しい自然でした。
このガリラヤ湖も、人間と厳しく対立する自然の一部でした。
私たちもかつて、イスラエル旅行をしたとき、ガリラヤ湖を舟で横断しまし
た。
ガリラヤ湖の北部のカファルナウムという所から、中部のティベリアスとい
う所まで、約1時間乗りましたが、海は穏やかで、カモメが飛び交い、非常
に美しかったです。
しかし、ガリラヤ湖は、時々突風が起こることがあるので、穏やかな時でも、
湖上を操るものは、注意しなければならなかった、ということです。
ガリラヤ湖は、周囲を山に囲まれた湖で、あたかもすり鉢の底のような状態
にあるので、気温の変化により、不意に山から吹き下ろす突風が激しく湖面
を荒らすことがあるのです。
ことに終日、暑い日光に照らされ、蒸気によって幾分湖面の空気が希薄にな
っている所へ、日暮れになって山上の空気がにわかに冷却するために、湖を
震動させるような突風が低い湖面に向かって激しく吹き下ろす場合が最も恐
るべき時ものでした。
ここは、ちょうどそれに当たります。
47節から、この逆風が吹いてきたのが夕方であったことが分かります。
一番嵐の起こりそうな時間に舟を出した、ということになります。
なぜわざわざ、危険な夕方に舟を出したのでしょうか。
45節を見ますと、主イエスは「強いて」弟子たちを舟に乗せた、とありま
す。
すなわち、主イエスはあえて弟子たちを危険な所に追いやった、ということ
になります。
初期の教会においては、キリスト者はいろいろな苦しみに遭いました。
しかし、それを神による試練と解釈した人もいたでしょう。
キリストの信仰を持つならば苦しみはなくなるかというと、必ずしもそうで
はありません。
ある時は、キリスト者であるがゆえに苦しむこともあります。
そのような時、私たちの信仰がためされるのです。
神は、キリスト者に試練を与える時があります。
しかしそれは、私たちを苦しめるのが目的ではありません。
それは、私たちに対する神の訓練なのです。
ヘブライ人への手紙の著者は、次のように言っています。
ヘブライ人への手紙12章7節、11節。(P.417)
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子
として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子がある
でしょうか。
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと
思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という
平和に満ちた実を結ばせるのです。
さて、今日のテキストで、48節の「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んで
いる」というのを、マルコは紀元64年に起こったネロ帝によるキリスト者
への迫害と見たのかも知れません。
ネロ帝による迫害の時、キリスト者は大きな試練にさらされました。
キリスト者であるがゆえに捕らえられ、苛酷な刑を受けた人も大勢いました。
そしてその時に、信仰が問われたのです。
ある人は、迫害に耐えかねて信仰を捨てた人もいたでしょう。
しかし、最後まで信仰を維持し、殉教していった人も大勢いました。
試練にあった時、私たちの信仰が問われます。
私たちは、大きな苦境にあった時、信仰が動揺しないでしょうか。
病気になった時、あるいは肉親の死にあった時、また非常につらい経験をし
た時、信仰が動揺しないでしょうか。
ヨブは、一瞬にして財産を奪われ、息子たちも大風に打たれて死んだ時、「わ
たしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られ
たのだ。主の御名はほむべきかな」と言いました。
果たして私たちは、このような神への信頼を持ち続けることができるでしょ
うか。
動揺して、神がいることを忘れてしまわないでしょうか。
自分の力で何とかしようとして、ますます恐れにさいなまれないでしょうか。
49−50節。
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、
大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスは
すぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
と言われた。
信仰をなくすと恐れが支配します。
恐れと信仰とは反対のものです。
イエスが近づいて来られたのだから、弟子たちにとっては嬉しいはずなのに、
信仰の目ではなく、恐れの目で見たので幽霊に見えたのです。
私たちも信仰の弱い時、喜びであるはずのことが恐れに映ります。
「大声で叫んだ」とあります。
大きな恐怖を物語っています。
マルコは、ローマ皇帝による教会の迫害とこの伝承を二重写しに見ているの
かも知れません。
その時に動揺し、慌てふためき、恐怖にさいなまれたキリスト者を思ってい
るのかも知れません。
大きな試練に遭い、キリストの存在を忘れてしまっています。
確かにここでは、イエスは舟に一緒には乗っていません。
4章35節以下の記事では、イエスは一緒に舟に乗っていて、眠っていまし
た。
たとえ眠っていても、一緒に舟に乗っていれば、起こすことができ、少し安
心です。
現にその時は、弟子たちはイエスを必死に起こしたのでした。
しかしここでは、イエスは一緒に乗っていないのです。
そこで弟子たちは、もうイエスのことをすっかり忘れてしまったのです。
イエスは、弟子たちだけを舟に乗せましたが、それは祈るためでした。
46節には、
群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
とあります。
主イエスは、弟子たちを荒海に放り出したのではなく、試練に遭っている弟
子たちのために一生懸命祈っておられたのです。
私たちがキリストを忘れてしまっている時でも、キリストは私たちを覚えて
祈っていてくださるのです。
そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言って、私たちを
励ましてくださるのです。
この主イエスの言葉を、マルコは、迫害にあって動揺し、恐怖の中にあるキ
リスト者への言葉として聞いたのです。
この状況において、このテキストの中心は、素朴な民間伝承での海上を歩か
れるイエスの超能力から、弟子たちを「恐れることはない」と励ます主イエ
スの言葉に移ったのです。
ローマ皇帝の権力の下で教会は迫害に遭い、動揺しています。
恐怖にさいなまれています。
神はいないのではないかという疑いが起こっています。
しかしそうではありません。
キリストは今も、「安心しなさい」と言って、私たちを励ましてくださるので
す。
「わたしだ」というのは、ギリシア語では、エゴー・エイミという言葉です。
これは「わたしだ」というよりは、「わたしはある」ということです。
あるいは、「わたしは存在する」ということです。
あるいは、もっと言えば、「わたしはあなたと共にいる」ということです。
迫害の中にあって動揺している教会、あたかもキリストがいないかのように
恐れています。
しかし、信仰の目をもってみるならば、キリストは厳然として存在している
のです。
キリストは、あなたと共にいるのです。
そして、「恐れることはない」と励ましてくださっているのです。
主イエスは、しばしば「恐れることはない」という言葉で弟子たちを励まさ
れました。
また、旧約聖書に登場する預言者たちも、この「恐れることはない」という
神の言葉によって励まされました。
モーセが神の山ホレブで神に出会い、エジプトにいる奴隷の民を救い出す使
命を受けた時、モーセはこの神の名前を聞きました。
すると神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました。
そして、その次には、もっと簡単に「わたしはある」と言われました。
これはギリシア語で言えば、エゴー・エイミで、主イエスがここで言われた
「わたしだ」と同じです。
すなわち、神は「存在するお方」、もっと言えば「あなたと共にいるお方」で
す。
モーセは、エジプトにいる奴隷の民を救い出す仕事は自分にはとても無理だ
と言いましたが、神は「わたしが共にいるから恐れてはならない」と言って
励まされました。
神は私たちにも「わたしが共にいる。だから恐れることはない」と励ま
してくださっています。
マタイによる福音書の一番最後の所には、主イエスが天に昇られる時に弟子たちに与えられた約束が記されています。
そこには、
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
とあります。
そしてこれは、私たちに与えられた約束です。
私たちもいろんな試練に遭います。
逆風が吹いて漕ぎ悩むこともあります。
そのような時、神を忘れてしまうのでなく、そしていたずらに恐れを抱くの
でなく、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と励ましてくださる
キリストが私たちと共にいて下さることを覚えたいと思います。