2002年9月15日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書6章30−44節 「5つのパンと2匹の魚」
 
 前回は、洗礼者ヨハネが殺された記事でしたが、今日の記事はその前の十
二弟子が宣教に遣わされたことの続きです。
30節。
 
  さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったこ
  とや教えたことを残らず報告した。
 
十二弟子は、二人ずつの組みになって、宣教活動に出掛けた訳ですが、それ
を終えて帰ってきて、その成果をイエスに報告した、というのです。
ただし、どれ位の期間活動したのか、具体的にどこに行ったのか、どういう
成果があったのかについては、何も言われていません。
しかしこの経験は、弟子たちにとって、聖霊降臨の後の初代教会の宣教活動
に、大いに助けになったでしょう。
さてその後イエスは、弟子たちが疲れているのを配慮して、休むように言わ
れました。
31節。
 
  イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休
  むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかっ
  たからである。
 
ここにイエスの、私たちを本当に配慮してくださる姿があります。
私たちも、疲れている時は休息が必要です。
そしてイエスは、私たちに「休ませてあげよう」と優しく語りかけてくださ
います。
マタイによる福音書11章28節には、次のようにあります。(P.21)
 
  疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませ
  てあげよう。
 
「癒し系」という言葉が最近の流行語になっていますが、ストレスの多い現
代社会に生きる多くの人々が、真の癒しを求めているのではないでしょうか。
そして、イエスこそ真に私たちに癒しを与えて下さる方ではないでしょうか。
 当時のガリラヤに住んでいた一般の民衆も、それぞれに苦しみを抱えてい
て、真の癒しが必要でした。
今日のテキストの34節を見ますと、次のようにあります。
 
  イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような
  有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
 
ここに、イエスについて来たガリラヤの多くの群衆が「飼い主のいない羊」
のようだった、とあります。
彼らは、生活も貧しく、また精神的にも非常に疲れていたのです。
このような群衆を見て、イエスは「深く憐れんだ」とあります。
この「憐れんだ」と訳されている語は、単に同情したというのではありませ
ん。
この動詞は、ギリシア語でスプランクニゾマイといいますが、これは内蔵を
表す語に由来しています。
最近岩波書店から出た『新約聖書』の訳によりますと、「腸のちぎれる想いに
駆られた」と訳されています。
すなわち苦しんでいる群衆をご覧になって、イエスも同じように苦しみを共
に担われた、ということです。
子どもがつらい経験をしたならば、親も同じように痛みを覚えますが、イエ
スは私たちの苦しみを共に苦しんで下さるのです。
そして、具体的な助けの手を差し伸べてくださるのです。
今日のその次の記事は、空腹の群衆に具体的に空腹を満たしてくださった、
という出来事です。
 イエスの奇跡物語を伝える記事は、福音書に35記されていますが、4つ
の福音書にすべて同じ記事が伝えられているのは、この「5つのパンと2匹
の魚」の物語だけです。
ですからこの物語は、特別印象に残った出来事だったのでしょう。
この出来事が起こった場所は、後のキリスト教の伝統によりますと、タプハ
といわれています。
これはガリラヤ湖の丘陵地にありますが、私たちもかつてイスラエルを旅行
した時、ここにも行きました。
そこには、この奇跡を記念する教会があり、その床には「5つのパンと2匹
の魚」のモザイクがありました。
35−36節。
 
  そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言っ
  た。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させ
  てください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買い
  に行くでしょう。」
 
ここで弟子たちは、群衆を解散させようとします。
それは第一に、もう時間も遅くなり、皆がお腹をすかしたからでしょう。
あるいは、弟子たちの方が煩わしい群衆から解放されたかったのかも知れま
せん。
解放されて、自分たちも早く休息し、また食事を取りたかったのでしょう。
 しかしイエスは、群衆を解散させようとはされませんでした。
37節。
 
  これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお
  答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買
  って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
 
ここでイエスは、弟子たちに自分たちで群衆に「食べ物を与えなさい」、とい
います。
イエスは、山上の説教において、「食べ物や着る物のことで思い煩うな」と言
われましたが、しかし食べ物はどうでもいいとは言われません。
神は、私たちの精神的なことだけを満たして下さるのではなく、肉体的なこ
とも配慮して下さるのです。
「武士は食わねど高楊枝」などといって、食べ物のことなどを考えるのは下
世話なことだ、とイエスは決して言われません。
それどころか、福音書を見ますと、イエスは実によく人々と食事をされました。
そういうところから、イエスは「大食漢で大酒飲みだ」と言って非難された
ということが記されています。
ここでイエスは、遠くからやって来た群衆が、時間も遅くなってお腹をすか
したことを心配し、何とかしようとされているのです。
 さてここで、イエスについてきた人々は実に大勢いました。
44節を見ますと、男の人だけで5千人いたと記されています。
従って、女や子どもを入れると、1万人は越えていたでしょう。
こんなに大勢の人をどうやって養ったのでしょうか。
42−43節を見ますと、
 
  すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、
  十二の籠にいっぱいになった。
 
とあります。
ここでは実際に何が起こったのでしょうか。
それはもはや分かりません。
いろいろな合理的な推測をする人もいます。
例えば、人々はイエスの言葉に精神的に満たされただけだったが、それをこ
のような表現で伝えたのだ、という人もいます。
しかしそうではないでしょう。
「食べて満腹した」というのは、いかにもリアルです。
彼らは単に精神的に満たされたというのでなく、実際に空腹を満たされたの
だと思います。
ただどのようにしてかということは、詳しく書かれていないので分かりませ
ん。
 しかし、聖書において神は、私たち人間にはとても不可能と思えることで
も可能にされます。
5つのパンと2匹で5千人の人を養うということは、人間の常識で考えれば
不可能です。
しかし、神は不可能を可能にされるお方です。
食べ物の危機に瀕している人々を神が不思議な業をもって養ったという記事
は、聖書の至る所にあります。
例えば、エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野で食べ物がなく、モ
ーセに不平を言った時、神はマナでもって彼らを養った、と言われています。
このマナは、シナイの荒れ野においてマナ虫がギョリュウの木の樹液を吸っ
て出した分泌液だと言われています。
イスラエルの民は、しばらくこれを喜んで食べましたが、それにも飽いて、
また不平を言った時、神は不信仰な彼らを今度はウズラで養ったと言われて
います。
神は常に私たちを食べ物で養って下さるのです。
41節。
 
  イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、
  パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
 
ここでイエスは、「天を仰いで賛美の祈りを唱えた」とあります。
ここに創造者なる神への信頼と、その神が空腹の群衆を養って下さるという
確信があったと思います。
そしてその祈りに神は応えてくださったのです。
イエスは、普通に考えれば5千人を養うには何の足しにもならない5つのパ
ンと2匹の魚でもって、みんなに十分食べさせることができたのです。
これは、神の私たちに人間に対する豊かな恵みを表しています。
神は、実際に私たちに大きな恵みを与え、私たちの命を養ってくださってい
ます。
イエスは、山上の説教において
 
  空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしな
  い。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、
  鳥よりも価値あるものではないか。
 
と言われましたが、その通り、神は空の鳥を養う以上に、私たちを養ってく
ださるのです。
それが、この「5つのパンと2匹の魚」の奇跡です。
私たちは、この神の恵みを忘れてはいないでしょうか。
現在私たちは、何でも好きなものを腹一杯食べることができます。
そしてそれが当たり前だと思っています。
しかし、これは私たちの力によるものではありません。
一重に神の恵みです。
そして、この神の恵を思う時、十分な食事は決して私たちだけが独占すべき
ものではなく、それに与れない人と共に分かちあうべきです。
 古代イスラエルにおいて、収穫の時に農園主は貧しい人々を食事に招いて
共に収穫を喜ぶという習慣があります。
申命記16章13−14節。(P.307)
 
  麦打ち場と酒ぶねからの収穫が済んだとき、あなたは七日間、仮庵祭を
  行いなさい。息子、娘、男女の奴隷、あなたの町にいるレビ人、寄留者、
  孤児、寡婦などと共にこの祭りを喜び祝いなさい。
 
「仮庵祭」というのは、秋の収穫感謝の祭りです。
この時、農園主は、自分の子供たちだけでなく、レビ人、外国人、孤児、寡
婦など貧しい人々を招いて、その収穫物を分かち合うというのです。
これは、豊かな収穫物は、決して農園主の力だけで出来たのでなく、一重に
神の恵みによるという信仰から来ています。
レビ人も外国人も孤児も寡婦も、自分の土地をもたない貧しい人々でした。
しかし、神の恵みはこのような人にも等しく与えられるべきである、という
のです。
 今日の所で、人々が食べた後、その余りを調べると12の籠に一杯になっ
た、とあります。
ここでは、神の恵みは少しも無駄にしてはならない、ということが言われて
います。
この余った残りの籠は、恐らくここに来れなかった人々に分け与えようとさ
れたのだと思います。
 さて、今日の所でもう一つ重要なことは、人々は確かに十分な食事を与え
られて満腹したでしょうが、しかししばらくするとまたお腹はすくでしょう。
しかし、命のパンであるイエスを信じる者は、飢えることがないと言われて
います。
ヨハネによる福音書6章には、「わたしは命のパンである。このパンを食べる
ならば、その人は永遠に生きる」と言われています。
イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人の人を養ったのは、より重要なこと
を示すためでした。
すなわち、イエスは食べ物を与えて私たちの命を支えて下さると共に、命の
パンであるイエスを信じる者に永遠の命を与え給うということです。
私たちは、神が常に私たちに豊かな食べ物を与えて命を支えて下さることに
感謝をすると共に、イエスを信じることによって真の命に与る者でありたい
と思います。