2002年8月18日 マルコによる福音書6章6節bー13節
「弟子たちの宣教」
6章の前半のところでは、主イエスが故郷のナザレで人々から受け入れら
れなかった、ということを学びました。
旧約聖書の時代から、「預言者は故郷では敬われない」という諺がありました
が、イエスもまさにそうだったのです。
今日の記事は、その続きです。
6節後半。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
ナザレでの伝道に失敗した後、主イエスはその付近の村を巡り歩いて伝道さ
れました。
ここには、熱心に伝道された主イエスの姿があります。
私たちは、一つのことに失敗するならば、それに失望して、落ち込み、しば
らくは同じことをする気になれないのではないでしょうか。
しかし、主イエスはそうではありません。
失敗したり、うまく行かないということも、また神の御旨です。
主イエスはきっとそう理解して、故郷ナザレのことは神に委ね、次の働きに
邁進したのです。
失敗したことにいつまでもくよくよしても始まりません。
問題は、それからどうするかです。
私たちは、主イエスですら伝道に失敗されたことに慰められると共に、その
失敗にもめげずにいっそう活動的に働かれるイエスの姿に励まされます。
7節。
そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。そ
の際、汚れた霊に対する権能を授け、
主イエスはさらに、ご自分だけが働かれるのでなく、十二弟子を方々に遣わ
された、というのです。
この十二弟子を召されたことは、3章13節以下に記されていました。
主イエスはなぜ十二弟子を選ばれたのでしょうか。
3章14−15節には、
そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置
くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため
であった。
とあります。
ここに「派遣して宣教させ」とあります。
主イエスが十二弟子を選ばれたのは、宣教に派遣するためでした。
そして、故郷ナザレで伝道に失敗した後、主イエスは弟子たちを宣教に遣わ
されたのです。
この多くの地方に出ていって、み言葉を宣べ伝えるという業は、イエスの死
後、初代教会において一生懸命なされましたが、その最初のものがここにあ
ります。
主イエスは、後の教会の伝道活動のために、ここで弟子たちに実際にそれを
行わせたのかも知れません。
彼らは、二人ずつの組に分けられました。
但し、誰と誰が組みになったのかは分かりません。
一気にできるだけ多くの地方に伝道したいのなら、ひとりずつ遣わす方が効
果が上がると思われます。
しかし、旧約聖書の伝統において、証人は必ず二人必要でした。
初代教会においても、伝道者を遣わすとき、二人ずつ遣わすのが常でした。
例えば、パウロは第一伝道旅行の時は、アンティオキア教会からバルナバと
組みになってキプロスに遣わされました。
さてここで、主イエスは弟子たちを遣わすとき、彼らに「汚れた霊に対す
る権能を授けた」と言われています。
「汚れた霊」というのは、悪霊と同じです。
悪霊は、その最高の統率者であるサタンのもとに自らの国を形成している、
と考えられていました。
サタンの目的は、私たち人間を神から引き離すことです。
従って、もしサタンに支配されるならば、神への信仰は成長しません。
主イエスは、人々に信仰が生じるように、まず弟子たちにその悪霊の力に対
抗することのできる力を与えられた、というのです。
汚れた霊を支配することのできるお方は、キリストのみです。
しかしキリストが弟子たちにその力をお与えになったということは、み言葉
を伝える業は基本的にキリスト御自身の業である、ということです。
すなわち、み言葉を伝えるという業は、人間の業ではなく、キリストの業で
す。
キリストは、弟子たちを宣教のために遣わしますが、彼らを放置するのでな
く、遠くにおいて彼らを守り支えるのです。
キリストが背後で支えて下さらないならば、伝道の業は不可能です。
私たちは、私たちの教会の業が常にキリストに支えられていることを信じ、
またキリストの助けを祈り求めることが重要です。
8−9節。
旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持た
ず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命
じられた。
ここで主イエスは、弟子たちに一本の杖と履き物を履くだけで、あとは何も
持たないように命じられました。
この伝道旅行は、短期間に多くの地方に伝道するということでした。
従って、できるだけ軽装の方がいいということなのでしょう。
許された一本の杖と履き物は、文字通りのものでなく、象徴的に言われてい
るようです。
杖は山道を登るときに必要だとか、獣や蛇を追い払うのに必要なものとも考
えられますが、むしろ神の守りの象徴でしょう。
モーセは、エジプトにイスラエルの民を救出に行くとき、神から一本の杖を
もらいました。
その杖で、ファラオと交渉するとき、いろいろな不思議な業を行いました。
モーセにとってこの杖は、いかなる時にも神が守って下さることの象徴でし
た。
ここでも弟子たちに許された杖は、そのような意味があったでしょう。
履き物も、足を守るということで、神の守りの象徴でしょう。
ここで、その他のものは一切持っていってはいけないというのは、彼らに
必要なものはすべてその時々与えられるということでしょう。
主イエスは、山上の説教において、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そ
うすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう」といわれまし
たが、この弟子たちの派遣において、これが実践されたのです。
具体的には、彼らが伝道するその所々で、人々から食料や必要なものが与え
られたのです。
そして、宿も提供されたのです。
10節。
また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅
立つときまで、その家にとどまりなさい。
「家に入ったら」というのは、家に迎え入れられるということです。
この当時、このように方々を巡り歩く宗教家には、たいてい面倒を見てくれ
る、いわゆるスポンサーがいました。
パウロも、伝道旅行において、しばしばそのような人の家に世話になりまし
た。
例えば、フィリピで伝道したとき、リディアという裕福な女性の商人の家に
招かれ、パウロはそこを拠点にして、フィリピ伝道をしました。
ここでイエスは、ひとつの町で、一人の人が宿を提供してくれたなら、そこ
にとどまるべきだ、と言っています。
これは、一定の所に落ち着いて伝道すべき事を言っています。
11節。
しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしな
い所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃
を払い落としなさい。」
キリストの福音が伝えられても、それを受け入れない人もいます。
これは、いつの時代でも、またどこの土地でもあります。
日本はむしろ、そのような人の方が圧倒的に多いのです。
しかし、それはせっかくの神の恵みを拒否していることなのです。
そのような時、伝道者は抗議のしるしとして足の裏の埃を払い落とすという
のです。
これは象徴的な行為ですが、、そういう不信仰な町の埃を次の町に持って行く
ことはできない、ということでしょう。
使徒言行録13章を見ますと、パウロは第一伝道旅行において、ピシディア
のアンティオキアで、人々が福音を受け入れなかったので、足の塵を払い落
として、その町を出て行った、とあります。
このことは、神の愛の大きさ、福音の喜びが分からないところから来ていま
す。
また、先ほどの悪霊が人間の欲に働きかけて、福音を拒絶させるのです。
このことを主イエスは、たとえで教えられました。
ルカ14章15節以下です(p137)。
そこでイエスは、神の国を盛大な宴会に譬えています。
その宴会に大勢の人が招かれたのに、当日になって招かれた人が断った、と
言うのです。
ある人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません」と言って断りまし
た。
また別の人は、「牛を2頭ずつ5組買ったので、それを調べに行くところで
す」と言って断りました。
また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言って
断りました。
これらの断った人々は、自分たちが何に招かれているのかを知らないのです。
それは盛大な宴会です。
キリストの福音は、神から与えられた最大の恵みです。
確かに、土地や家畜や妻も大切なものでしょう。
しかし、そのことに目を奪われて、最も大切なものを見失っているのです。
そして、サタンは常に私たちにこの世の欲をちらつかせて、私たちを神から
引き離そうとするのです。
私たちは、このサタンの手にまんまと乗らないように気を付けないといけな
いと思います。
すなわち、私たちもキリストの弟子たちから足の埃を払い落とされるような
者にならないように気を付けたいと思います。
12−13節。
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多
くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
最後に弟子たちのなした業が三つ言われています。
一つは、悔い改めの宣教です。
これは、イエスの最初の宣教に一致します。
すなわち主イエスは、宣教のはじめに1章15節にあるように、「時は満ち
た、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言いました。
悔い改めとは、神に立ち帰るということです。
今まで神なしに生きていた者が、神の愛に気づき、神中心に生きるように方
向転換させられることです。
そしてこれは、絶えず行われるべきことです。
私たちも、聖日の礼拝においては、神中心の心になりますが、月曜日からは
また神を忘れ、この世を中心に歩んでしまいがちです。
そこで、日曜には、神に立ち帰って新たな気持ちにさせられるのです。
私たちにとっても、この悔い改め、すなわち神に立ち帰ることが常に必要で
す。
次に、悪霊を追い出すということですが、悪霊とは先ほども言ったように、
私たちを神から引き離そうとする力です。
私たちは、悪霊を追いだしてもらわなければ、神に立ち帰ることが難しいの
です。
しかし、聖霊が私たちに働くことによって、それが可能とされるのです。
そこで私たちは、常に聖霊の働きを祈らねばなりません。
次に、病人を癒すということですが、これは救いと言っていいと思います。
私たちが教会に来て礼拝するのは、私たちの罪がキリストの購いによって赦
され、救いに入れられると言うことです。
そして、この十二弟子の働きは、教会に委ねられているのです。
私たちは、教会にしっかりとつながることによって、神に立ち帰り、悪霊か
ら解放され、真の救いに与る者とされたいと思います。