2002年7月28日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書6章1−6a 「イエスの苦難」
1節。
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
「イエスはそこを去って」とありますが、「そこ」とは前の箇所の5章でヤイ
ロの娘を癒した町でしょう。
それは、ガリラヤ河畔の町カファルナウムだと思われます。
主イエスは、ガリラヤの町ナザレでお育ちになりましたが、大体30歳位に
ナザレを去り、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、宣教活動を始められま
した。
これを公生涯といいます。
マルコによる福音書は、この公生涯から書き始めています。
そして最初は、カファルナウムを拠点にしてガリラヤ地方で活動されました。
このカファルナウムにはペトロの家があり、ここを拠点にしていたようです。
前の箇所のヤイロの娘を癒したのも、このカファルナウムにおいてでした。
さて、6章では、そのカファルナウムを去って故郷にお帰りになった、と
言われています。
この故郷というのは、ナザレです。
カファルナウムはガリラヤ湖畔の町ですが、ナザレはそこから35キロほど
内陸に入った所にあった小さな村です。
ナザレは、旧約聖書には一度も出てこず、比較的新しい町のようです。
ところで、主イエスは何のために故郷ナザレに帰られたのでしょうか。
そこには、ご自分のお母さんや兄弟姉妹がいたので、久しぶりに会いに行か
れたのでしょうか。
しばらくの休息を求めて故郷に帰られたのでしょうか。
そうではありません。
主イエスは、ナザレに伝道のために帰られたのです。
2節前半には、
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。
とあります。
主イエスは、しばしば会堂を利用して、福音を宣べ伝えました。
この当時のユダヤ教の会堂は比較的自由であって、専門のラビがいない場合
は、会堂長の監督の下に、参加している者が自由に話をするということが一
般に行われていたようです。
ここで主イエスが何を教えられたかということは言われていません。
しかし、この当時の習慣として、それは聖書の説き明かしであったでしょう。
聖書といっても、もちろん旧約聖書です。
会堂長が聖書のある箇所を開いて、そこを一人の人に朗読させるのです。
そして朗読した人は、それについて説き明かしをすることができたのです。
素人にはそのような説き明かしはできなかったでしょうが、イエスの説き明
かしは専門家のように、否それ以上に優れたものであったので、礼拝に参加し
ていた人々は驚いた、というのです。
2節後半。
多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなこと
をどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われる
このような奇跡はいったい何か。
ナザレの人々は、イエスの聖書の説き明かしの素晴らしさに驚いたのですが、
イエスがこのような素晴らしい説き明かしをすることが信じられなかったの
です。
そこで彼らは、イエスの言葉に素直に耳を傾けるのでなく、一体イエスがど
こでこのような知識を得てきたのかを詮索するのです。
人間はしばしば素直でなく、常日頃評価していない人物から意外なことを聞
くと、それを素直に受け入れないのです。
同じ内容のことを言っても、若い人が言った場合「あんな若僧のことなど」
ということになることも、年輩の人が言った場合「なるほど」という風にな
ったりします。
ナザレの人にとってイエスは、ほんの若僧に過ぎなかったのです。
貧しい家で育ち、教養などもなく、聖書の説き明かしなどできるはずがない、
と思っていたのです。
「この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何
か」というのは、そんなはずがない、という疑いの言葉です。
自分たちの知っていたイエスはそんな知恵はなかったはずだ、自分たちの知
っていたイエスにそんな力ある業が行えるはずがない、というのです。
3節。
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シ
モンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるで
はないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
「この人は、大工ではないか」という言葉に、いささか軽蔑の気持ちがあり
ます。
ナザレの人にとって、イエスは大工であるという思いしかありませんでした。
一介の大工が聖書を説き明かしするような教養を身につけているはずがない、
という気持ちです。
さらに「マリアの息子」と言われています。
イエスの父ヨセフは、恐らく若くして死んだのでしょう。
そして、長男であったイエスは、家族を支えるために、父の仕事を継いだの
でしょう。
恐らく、何年間かは、一家の大黒柱として働いたでしょう。
30歳位に故郷を離れて、公生涯に入られたというのは、恐らく他の兄弟が
一人前に働くことができるまでイエスが一家を支えねばならなかったからで
しょう。
ここに言われている母マリアも他の兄弟も、ナザレの町においては特別優れ
た人たちではなく、ごく平凡な人たちであったでしょう。
それゆえに、イエスだけが特別能力のある者とは認められなかったのです。
ここで主イエスの兄弟として4人の名が記されています。
この中で、ヤコブ以外の人は、聖書の他の所には出てきません。
従って、イエスの兄弟達は、影の薄い、これと言って特別のものを持ってい
なかった人たちだったでしょう。
ごく平凡な田舎の人たちでした。
ただ、イエスのすぐ下の弟ヤコブは、ガラテヤの信徒への手紙や使徒言行
録に記されており、イエスの死後、エルサレム教会の指導者となった人物で
す。
しかし、これも彼に特別な能力があったからというのでなく、イエスの弟で
あるということで、原始教会において重要視されたのでしょう。
さて、ナザレの人々は、イエスの母や兄弟たちがごく平凡な人であったの
で、イエスが素晴らしい聖書の説き明かしをし、力ある業を行っても、それ
を全然理解することができなかったのです。
3節の終わりには、「人々はイエスにつまずいた」とあります。
カトリックのフランシスコ会訳では、「イエスを理解しようとしなかった」と
訳されています。
また、エルサレム聖書という英語の訳では、「イエスを受け入れようとしなか
った」と訳されています。
即ち、彼らは主イエスの素晴らしい業を見ていながら、意識的にイエスを理
解しようとしなかった、ということです。
ここには、人間の自尊心、あるいは嫉妬心というものが表されています。
主イエスは、最終的には、大きな苦難を受け、十字架に掛けられますが、そ
れはユダヤ教の指導者たちの嫉妬心から来ている面が多分にあります。
そこで、このナザレでの出来事は、その苦難の始まりと言っていいかも知れ
ません。
人間は、自分より劣っていると思っている人が何か素晴らしいことをした
時、なかなかそれを素直に認めないのです。
それは何かの間違いだろうとか、偶然に起こったに過ぎないと、故意に思う
のです。
素直にその人を評価したり、あるいはそのことを共に喜んだりということが
なかなかできないのです。
ここに人間の罪があります。
人間的な評価でもって、あんなやつに何ができるか、という思いを持つので
す。
ヨハネによる福音書1章43節以下のところに、フィリポとナタナエルがイ
エスの弟子になった記事があります。
フィリポが先にイエスに出会って弟子になりましたが、その後彼が友人のナ
タナエルに「ナザレの人で、ヨセフの子イエスに出会った」と言うと、ナタ
ナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。
これもいささか軽蔑を含んだ言葉です。
4節。
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ
である」と言われた。
これは、当時の諺であったようです。
ヨハネによる福音書4章44節では、
預言者は自分の故郷では敬われないものだ
と言われています。
こういう諺が生まれたということは、昔から神に仕える人が、故郷や身近な
人に理解されなかったということがあったのでしょう。
預言者エレミヤは、アナトトという所の出身でしたが、彼はこのアナトトの
人に全く理解されず、預言をする度に憎まれたり、ある時は殺されかけたり
しました。
5節。
そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほか
は何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
主イエスが力ある業を行う時、そこには何らかのイエスに対する信頼とか求
めというものがありました。
5章に出てきたヤイロの娘の癒しにしても、まずその父のイエスに娘を助け
てもらいたいという熱心な求めがありました。
また、その次の12年間出血の止まらない女が癒された時も、彼女は最後の
望みをイエスに掛け、イエスの後ろからイエスの服に触れたのです。
そのような切なる求めに答えて、イエスは力ある業をされたのです。
福音書において、イエスが奇跡を行う時、決してただ機械的に行ってはい
ません。
そこには必ず、人格と人格の出会いがあります。
イエスが愛を傾け、そしてイエスを信頼してそれを受け入れる、そこに奇跡
が起こっているのです。
そこには何らかの形でのイエスへの信頼というものがあります。
信頼に根ざした求めというものがあります。
最も、その信頼や求めは、不純なもの、不十分なもの、自分勝手なものも多
くあると思います。
否、私たちの求めは、多くは不純なものかも知れません。
しかし、主イエスは、私たちの実に不十分な信頼にもかかわらず、私たちに
答えてくださるのです。
主イエスは、マタイによる福音書7章7節で、
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つ
かる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
と言われました。
求めるという熱心がなければ、与えられることもないでしょう。
そして、熱心に求める場合、そこには相手に対する信頼があります。
そしてイエスは、この信頼に応えてくださるのです。
しかし、全く信頼しない、あるいは故意にイエスを理解しない所からは、
何の力ある業も起こらないのです。
6節に、「人々の不信仰に驚かれた」とあります。
要するに、大切なのは、主イエスへの信頼、信仰ということです。
主イエスは、疑うトマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさ
い」と言われました。
主イエスの私たちに求められるのは、イエスを信じるということです。
そこにイエスとの人格的な出会いが起こります。
主イエスを信じない所からは、イエスが私たちに対して愛を行うという余地
がないのです。
ナザレの人々がイエスを信じないところからイエスの苦難が始まりました。
私たちももし、イエスに信頼しないなら、イエスに苦難を与えていることに
なります。
私たちは、イエスが私たちに十分働きかけてくださることができるように、
常にイエスを信じ、イエスに信頼する者でありたいと思います。