2002年7月14日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書5章35-43節 「ただ信じなさい」
今日のテキストは、ヤイロという会堂長の娘が癒される話です。
この物語は、本当は21節から始まっていますが、途中の25-34節に別の
話が挿入されて、話が中断されてしまっていました。
即ち、前の時に学びましたが、12年間出血の止まらない女が癒されたとい
う話が途中で挿入されたのです。
どうしてそのようになったのかは分かりませんが、その方が緊迫感がある、
ということかも知れません。
22-23節。
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひ
れ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、
おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、
生きるでしょう。」
今、会堂長の娘が死にそうになっています。
イエスは、一刻も早くこの娘のところに行かなければならない、という状況
です。
その時に、12年間出血の止まらない女に出会うのです。
しかし、今一行は非常に急いでいるので、本当はこの女に関わっている時間
はないのです。
周りの者は、非常にいらだっていました。
しかし、主イエスは、この女を放置せずに、この女と人格的に関わるのです。
ここに、苦しみを抱えるものを憐れむ主イエスの姿があります。
しかし、そうこうしている間に、会堂長の家から人々が来て、娘が死んだ
ことを知らされます。
35節。
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょ
う。」
これを聞いて会堂長ヤイロは、非常にがっかりしたのではないでしょうか。
但し、ここにはヤイロの反応については記されていません。
22-23節を見ますと、この人は「イエスの足下にひれ伏して、しきりに願
った」とありますから、何としてでも娘を助けたいという気持ちは非常に強
かったでしょう。
恐らく彼は、自分の娘の病気について、いろんな医者に診てもらったでしょ
う。
また、いろんな薬も試したことでしょう。
しかし、薬も効かず、医者にも見放され、最後の望みとしてイエスに頼った
のでしょう。
しかし、今その望みは絶たれたのです。
彼は非常に失望したでしょう。
しかし、イエスに対して何の苦情も言っていません。
途中で出血の止まらない女に関わって遅くなったからだ、というような恨み
言は言っていません。
この事態を静かに受け止めているようです。
36節。
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」
と会堂長に言われた。
この「そばで聞いて」と訳されている語は、口語訳聖書では「聞き流した」
と訳されていますが、この方がいいように思います。
最近訳された岩波の『新約聖書』でも、そう訳されています。
即ち、使いの者は、娘はもう死んだのだから、もはやイエスに来てもらう必
要はない、と言った訳ですが、その言葉をイエスは聞き流した、ということ
です。
確かに、この使いの者の言葉は常識的な判断です。
しかし、イエスは、そういう人間の常識的な判断を聞き流すのです。
そして、神の世界への目を開かせようとするのです。
神の世界は、そのような人間的な常識を遙かに越えた世界です。
そして、この世界には、信仰が要求されるのです。
使いの者の言葉を聞いて失望していたヤイロに、イエスは「恐れることはな
い。ただ信じなさい」と言います。
人の死に直面する時、人間は畏れの感情を抱きます。
この死に直面して、人間は何の為す術もないのです。
ただ、見守るしかないのです。
どんなに力ある人でも、どんなに財産がある人でも、どんなに賢い人でも、
死を克服することはできません。
パウロは、死を人間の最後の敵である、と言いました。
私たちは、日頃の生活においていろんな恐れを抱きますが、この恐れの一番
深い所には死というものがあります。
この死が解決しない限り、人間は恐れから解放されないでしょう。
しかし、主イエスは、その死に打ち勝たれました。
パウロは、「死は勝利にのまれてしまった」と言っています。
また、「しかし感謝すべきことには、神は私たちの主イエス・キリストによっ
て、私たちに勝利を賜ったのである」と言っています。
それゆえに、恐れを取り除くのは、死に勝利したもうた主キリストへの信仰
です。
そこで主イエスはここで、「ただ信じなさい」と言います。
人間的な常識を越える神のみ業を信じなさい、ということです。
信仰によれば、主イエスは生ける者も死ねる者も支配されるお方です。
使徒信条によると、キリストは終わりの時に「生ける者と死ねる者とを裁き
たまわん」と告白されています。
さて、イエスは弟子のうち3人だけを連れて、会堂長の家に向かいました。
37節。
そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもつ
いて来ることをお許しにならなかった。
イエスは、しばしば重要なことをなす時に、この3人だけを連れて行かれま
した。
その有名なのは、いわゆる変貌の記事と言われているものです。
9章2-3節。(P.78)
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い
山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、
この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
ここで、イエスは、この3人だけに神の子としての栄光の姿を見せられまし
た。
このような秘儀的なことは、信仰を持たずに接するならば、誤解を招く恐れ
があります。
そこでイエスは、特に信頼のおける3人だけを連れて行かれたのです。
38ー39節。
一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いで
いるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。
子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
当時のパレスチナにおいて、死者を悼む行事は大声で泣きわめくというもの
でした。
そのために泣き女を雇うのが常でした。
そして、その泣き声が大きければ大きいほど、その家の勢力を表したのです。
会堂長も、町の有力者であったので、大勢の泣き女を雇ったのでしょう。
しかし、このようなことはしばしば非常に形式的でした。
それゆえに、死者を悲しむというよりは、何か騒いでいるという印象でした。
イエスは、39節で「なぜ、泣き騒ぐのか」と言われましたが、そのような
形式的な悲しみを非難しているようです。
そして、それに続いて「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言わ
れました。
人の目には死んだとしか思えないこの娘は、イエスの目から見ると眠って
いただけなのです。
眠っているだけなら、起こすことができます。
聖書において、死はしばしば眠りにつく、と言われています。
それは、いつかは起きることができるという信仰からです。
テサロニケの信徒への手紙一4章13−14節には次のようにあります。
(P.377)
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの
人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほし
い。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同
じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導
き出してくださいます。
私たちには、眠り続けるのではない、という信仰が与えられています。
パウロは、別のところで、「死人は朽ちない者に甦らされ、私たちは変えら
れる」と言っています。
イエスがここで、少女を生き返らせるのは、私たちが眠り続けるのではない、
ということを3人の弟子たちに示すためでした。
40節。
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両
親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
「眠っているだけだ」というイエスの発言に、周りにいた人々はあざ笑った、
というのです。
そして、これも人間の常識的判断です。
この常識的判断からすると、聖書の記事はしばしばあざ笑いの対象となって
きました。
パウロがアテネのアレオパゴスの丘で説教した時、人々は死人のよみがえり
のことを聞いてあざ笑った、とあります。
人間の常識的な判断からすると、死人のよみがえりなどということは、あざ
笑いの対象でしかありません。
ここでイエスは、このような不信仰な者を外に出し、子どもの両親と3人
の弟子だけを連れて少女のところに入っていきました。
41節。
そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少
女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
この「タリタ、クム」というのは、アラム語です。
この時代のユダヤ人は日常は主にアラム語で話していました。
新約聖書は、当時の公用語であるコイネー・ギリシア語で書かれていますが、
これは当時のユダヤ以外の世界にも広く理解されるためでした。
しかし、イエスが日常使っていたのは、アラム語でした。
ここで、わざわざアラム語が記されているのは、きっとイエスがこの時に少
女に語った言葉が非常に印象的だったからでしょう。
新約聖書の中には、他にもイエスが語られたアラム語が伝えられています。
例えば、十字架上で叫ばれたと言われている「エロイ、エロイ、ラマ、サバ
クタニ」などもそうです。
42節。
少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたから
である。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
イエスが、「タリタ、クム」という言葉を発すると、その通りになりました。
しかも即座にその通りになりました。
神の言葉には創造的な力があります。
神は天地創造の記事において、「光あれ」と言われると、光があった、とあり
ます。
ここでも、神の言葉が創造的な力があることを示しています。
聖書は神の言葉です。
私たちは、この創造的な力である神の言葉により頼むのです。
彼らというのは、3人お弟子と少女の両親です。
この驚きは、神の力に対する驚きです。
人間の常識に支配されている者が、それを遙かに越えた神の力に触れる時、
驚き以外にはありません。
この驚きは、しかし、何か特別な奇跡が起こった時だけではなく、私たちの
日常的な営みの中においても認められるものではないでしょうか。
私たちの日常的な営みの中においても、神の力、神の業を認めることができ
るのではないでしょうか。
私たちは、普段は何気なく気が付かなくて通り過ごしていることでも、ある
時ふとそこに神の力が働いていることに気づき、非常な驚きに打たれること
もあるのではないでしょうか。
43節。
イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食
べ物を少女に与えるようにと言われた。
ここでイエスは、このことを誰にも知らせるな、とこの5人に厳しく命じら
れました。
これは、イエスを奇跡を行う者という誤解を与えないためです。
イエスを正しく理解しないことになるからです。
イエスは奇跡を起こした後、しばしばこのことを誰にも言うな、と命じられ
ました。
奇跡だけがクローズアップされると、イエスを本当に理解することができな
くなります。
イエスは、これを非常に警戒されたのです。
イエスの使命は、奇跡を起こして人々を驚かせるということではなく、人々
を真の神信仰に導くことでした。
さて、イエスは最後に、少女に食べ物を与えるように命じられました。
これはいささか蛇足とは思われないでしょうか。
甦らせるという大きな業をしたなら、食事という些細なことまで配慮しなく
ていいように思えます。
しかしイエスは、そのような小さなことまで配慮されます。
イエスは、この世で精一杯生きる、ということを大切にされます。
イエスは病人を癒した時も、その人が社会に復帰して精一杯生きるように、
と言います。
食事を取るということは、この世での生活を大切にするということです。
しかし、この生活は、信仰に基づいたものです。
イエスは、この前に「ただ信じなさい」と言われました。
このただ信じるということをまず第一に大切にされます。
しかし、信仰さえあれば後のことはどうでもいい、というのでもありません。
食事をするという日常的なことも大切にしていくのです。
私たちも、イエス・キリストをただ信じる信仰に生き、この世での歩みを大切に歩む者でありたいと思います。