2002年6月23日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書5章21−34 「信仰があなたを救った」
21節から43節の間に、二つの奇跡物語があります。
すなわち、「会堂長ヤイロの娘の物語」と、「12年間出血の止まらない女の
物語」です。
前の記事は、主イエスがガリラヤ湖の向こうのゲラサ人の地方で、ただ一人
の悪霊に取りつかれた人を癒した物語でした。
ガリラヤ湖の東では、主イエスが出会ったのは、ただ一人の人だけでした。
このただ一人の人を癒して、もとのガリラヤ湖の西側に戻られると、大勢の
群衆が主イエスのそばに集まった、とあります。
21節。
イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集
まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
さて、今日の「12年間出血の止まらない女の物語」は、「ヤイロの娘の物語」
の間に挟まっています。
すなわち、会堂長のヤイロが自分の娘を助けてほしいと主イエスの所にやっ
て来て、主イエスと弟子が会堂長の家に行く途中に、12年間出血の止まら
ない女と出会ったのです。
こういう構成は、恐らくマルコの手によるものと思われます。
さて、この女性は「12年間も出血の止まらない女」と訳されています。
これは恐らく、女性の慢性の出血であったと思われますが、この病気は肉体
的な苦痛だけではありませんでした。
古代イスラエルにおいては、出血は宗教的な汚れとされていました。
その詳細なことは、レビ記15章に記されています。
こういう出血のある場合は、汚れたものとして、公の場には出ることができ
なかったのです。
この女性がこの病気から癒されたいとどんなに願っていたかは想像に難くあ
りません。
26節。
多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何
の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
この言葉に、この女性の12年間の苦しみが要約されています。
まず、「多くの医者にかかった」ことが記されています。
ここに何としてでもこの病気から癒されたいというこの女性の願いが現れて
います。
人の評判を頼りにあちらの医者、こちらの医者と高いお金を払って尋ね歩い
たことが想像されます。
また、いい薬があると聞くと無理をしてでも遠くまで求めに行ったでしょう。
そして、12年間の間に全財産を使い果たしてしまったのです。
ここから、この女性は相当由緒ある家柄の人であったという伝説が生まれま
した。
すなわち、エデッサという所の王女で名をベレニケと言った、という伝説で
す。
これはしかし、歴史的な根拠のない単なる伝説に過ぎません。
しかし、この女性に関して、いろいろな伝説が生まれた背後には、いつの時
代にも難病に苦しむ者が、その治療のために全財産をはたいてでもいろいろ
なことを試した、ということがあるでしょう。
しかし、この女性は、いろいろなことを試しましたが、結局は無駄だった
のです。
それだけでなく、さんざん苦しめられた上、ますます悪くなったというので
す。
この当時の医者は、病気を悪魔や悪霊の働きで起こると考え、呪文やまじな
いなどによって悪魔払いをしていたのです。
そのようなことは、かえって苦しみを増すだけでした。
全財産を使い果たした今、普通の人ならもうあきらめるしかなかったでしょ
う。
しかし、この女性は、なお諦めていませんでした。
この女性は、まだ生きたい、そして自分の病気が治り社会に復帰したい、と
いう望みを持っていました。
この物語を通して、私たちは、「どんなときにも決して望みを捨ててはなら
ない」ということを学びます。
望みを捨てない所から、道が開けてくるのです。
そして、この望みが主イエスに出会うことによって、叶えられたのです。
27節。
イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触
れた。
彼女は、群衆の中に紛れ込んだ、とあります。
彼女は、出血の止まらない病気ということで、本当は人前に出ることができ
なかったのです。
しかし、何としてでもイエスに近づきたいという思いがあったのでしょう。
「イエスのことを聞いて」とあります。
恐らく、イエスが病人を癒したという噂を耳にしたのでしょう。
彼女は、このイエスに最後の望みを掛けたのです。
当時、病気癒しに評判の人に見てもらうのは、普通は大金が必要でした。
しかし、彼女にはもう財産がありませんでした。
そこで、堂々とイエスにあって治療をお願いするということはできませんで
した。
そこで、後ろからそっとイエスの服に触れたというのです。
ここに哀れな女性の、しかもひたむきな姿があります。
そして、イエスの服に触れると病気が治った、というのです。
29節。
すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
そして34節前半を見ますと、イエスはこの女性に、
。
娘よ、あなたの信仰があなたを救った。
と言われました。
しかし、この女性に本当に信仰があったのでしょうか。
イエスの後ろからそっと服に触れたのが果たして信仰なのでしょうか。
私たちには、信仰というよりはむしろ、迷信のように思えます。
少なくとも、この女性はイエスに対する信仰はなかったでしょう。
イエスの評判を聞いて、そんな人なら服に触れただけでも御利益がある、と
思ったのではないでしょうか。
日本の御利益信仰ともそれほど変わらないようにも思えます。
日本にも至る所にこのような迷信があります。
例えば、不思議な形をした岩に触れると何か御利益があるとか、樹齢何百年
という大木に何か御利益があるとか。
この女性も、そういう御利益的な考えとそう違わないように思えます。
恐らくこの女性は、以前にも何度か人々の評判を聞いて、病気を治してもら
おうと、宗教家の服に触れたという経験があったのではないでしょうか。
服に触れることによって病気が癒されたという話は、当時のユダヤの文学に
もヘレニズムの文学にあります。
ローマのハドリアヌス帝は、ひどい熱病に冒された時、盲目の老人に触れ、
その病気が治った、と記されています。
使徒言行録19章を見ますと、パウロもエフェソにおいて、自分の身につけ
ていた手ぬぐいを病人に当てると病気が治った、ということが記されていま
す。
確かに、この女性の行為は迷信的だったと思われます。
しかし主イエスは、そういう迷信的なもので済まそうとはされなかったので
す。
この女性は、病気が治りさえすればそれで良かったでしょう。
しかし主イエスは、この女性と人格的な出会いを求められました。
この人格的出会いを通して、本当の信仰が生じるのです。
服に触れるというのは、迷信的な行為であり、この女性にとってはそれで良
かったのですが、主イエスはそれをさらに真の信仰に至らせようとされたの
です。
30節。
イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振
り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
「自分の内から力が出ていった」というのは、どういうことでしょうか。
恐らく、この女性の強い求めが、イエスに感じられたのでしょう。
それが力が出ていくほどの現象となったのでしょう。
ここに、この女性の熱心、イエスに賭ける強い求めがあります。
そして、イエスは、この強い求めを持っている人を捜そうとされました。
この女性は、このままそっと離れていきたかったでしょう。
しかし、主イエスは、この女性と人格的な出会いを求められたのです。
今、一行は、ヤイロの娘が死にそうになっているので、一刻も急がなけれ
ばならなかったのです。
こんな所でぐずぐずしてはおれなかったのです。
弟子たちは、明らかにいらだっていました。
31節。
そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分か
りでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるの
ですか。」
誰かがイエスの服に触れたかも知れないが、そんなこと今重要なことではな
いではないか、というのです。
しかし、イエスは、今重要なのは、服に触れた人と出会うことでした。
32節。
しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
女がイエスを求めたようですが、ここに至ってイエスの方が女を求められて
います。
女の方は、長年の汚れの病気が癒されたいということだけでした。
そして、そのままそこを立ち去りたかったでしょう。
しかしイエスは、その女の求めをもっと深い所にまで行くように求められた
のです。
単なる迷信的なもので終わらせないで、本当の信仰へと導こうとされたので
す。
単に病気が治るというだけでなく、真に望ましい状態、すなわち神との正し
い関係に至るように求めたのです。
33節。
女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出
てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
この女は恐ろしくなった、とあります。
すべてを知り抜いておられるお方の前で、真実を隠し通そうとした罪を恐れ
たのです。
キリストの前では隠していることもあらわとなります。
「恐れ」というのは、信仰者の態度です。
神はすべてをご存じです。
信仰のないものは、恐れがありません。
人の目さえごまかせばよいと思っています。
この女は、イエスに恐れを抱き、さらに「すべてをありのまま話した」の
です。
これは全く信仰的な態度です。
すべてを主に委ねるということです。
今まではイエスに対する純粋な信仰ではなかったのです。
服に触れて、病気が癒されたいという迷信的な態度でした。
しかし、イエスの方から人格的に出会うことによって、イエスにすべてを委
ねるという信仰に変えられたのです。
ここにおいてイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。
この信仰は、しかし、この女が最初から持っていたものではありません。
この女はむしろ、迷信的な思いからイエスの服に触れたのです。
しかしイエスは、それをも顧み、さらに人格的な出会いを求め、本当の信仰
へと導かれたのです。
そして、「あなたの信仰が」と言ってくださるのです。
私たちも、純粋な信仰を持っているとは言い難いのではないでしょうか。
むしろ、信仰と言いながらも自己中心的な思いが強いのではないでしょうか。
しかし、キリストは私たちのそのような不純な信仰をも受け入れ、真の信仰
へと導いて下さるのです。
私たちに出会い、捉えて下さるのです。
主イエスの眼差しが私たちに向けられ、捉えて下さるのです。
信仰は、私たちが本来持っているものではなく、キリストがご自分の方から
私たちに出会って、与えて下さるものです。
そして、それを「あなたの信仰が」と言って下さるのです。
そして、その信仰によって、救いへと導かれるのです。
キリストが常に私たちの信仰を養い育てて下さり、さらに救いへと導いて下
さることを思い、感謝をささげたいと思います。