2002年6月2日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書5章1−20節    「主の憐れみ」
 
 今日の話は、相当長い話ですが、ひとまとまりになっているので、全部を
読んで頂きました。
前回は、主イエスが突風を静められたという記事を学びましたが、4章35
節から5章の終わりまでは、奇跡物語が集められています。
マルコは、いろいろな地方に伝えられていた主イエスの奇跡物語を、この所
にまとめたと思われます。
今日の記事は、主イエスが悪霊に取りつかれていた人を癒したという話です。
これも、素朴な民衆の間に伝えられていた話であると思われます。
1節。
 
  一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
 
この湖は、ガリラヤ湖です。
前の所の4章35節において、主イエスは「向こう岸に渡ろう」と言って舟
に乗り込みました。
それは、ガリラヤ湖の東側の人々にも福音を伝えようとされたからです。
主イエスが舟に乗り込まれたのは、ガリラヤ湖の西側のカファルナウムの近
辺でした。
そして、舟で渡っている途中で、突風が吹いてきて舟が水浸しになった、と
いうことは前回学びました。
そのような危険な目にあって、対岸に渡ったのですが、そこで大勢の人々に
福音を伝えたのでなく、たった一人の人に出会っただけでした。
しかもその人は、悪霊に取りつかれていた人で、他の人からは全く相手にさ
れていなかった人でした。
1節に「ゲラサ人の地方」とあります。
20節に「デカポリス地方」と言われていますが、ガリラヤ湖の東の地方に
10の町があって、同盟を結んで一つの国のような共同体を形成していまし
た。
これらは異邦人の町々で、イスラエルの神は信じられておらず、異教の偶像
が崇拝されていました。
このゲラサというのは、この10の町の一つでしたが、ガリラヤ湖からは5
0キロも内陸に入った所の町であり、この話の舞台とは考えられない、とい
う意見もあります。
ここでの出来事は、湖岸で起こっているからです。
そこで、マタイによる福音書8章28節では「ガダラ人の地」となっていま
す。
しかし、ガダラもガリラヤ湖から15キロほど内陸に入っており、やはりこ
こでの話には合いません。
ですからここの「ゲラサ人の地方」というのは、ガリラヤ湖の東のデカポリ
ス地方全体を指していると思われます。
そして、ここでは正確な地名を確認する必要はないでしょう。
主イエスが奇跡を行ったという話は、地方の素朴な一般民衆の間に広まった
もので、人から人へと語り継がれていくうちに、場所とか時間の記憶は曖昧
なものになっていったと思われます。
そして、この話は、ゲラサ人の間に広まっていたものだったのかも知れませ
ん。
 2節。
 
  イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場
  からやって来た。
 
さてここで主イエスは、ただ一人の人と出会われました。
ガリラヤ湖の西側で教えられた時は、おびただしい群衆がイエスのそばに集まった、とあります(4章1節)。
しかし、この湖の反対側では、たった一人の男と出会われただけでした。
しかもこの男は、「汚れた霊に取りつかれた人」と言われています。
そこでこの男は、社会からも見捨てられていたのです。
しかし、主イエスは、この社会から見捨てられていたたった一人の人と出会
うために、わざわざ舟に乗って対岸までやってこられたのです。
主イエスは、実に一人の人を大事にされます。
主イエスは、私たち人間を決して十把一絡げに扱われるのではありません。
苦しみを負っている一人の人、悩んでいる一人の人を大事にされます。
ここに主イエスの憐れみが表されています。
 この男は、「墓場を住まいとしていた」とあります。
そして、3節には、「鎖でもつなぎ止めておくことができなかった」、と言わ
れています。
そして、5節には、
 
  彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
 
とあります。
非常にかわいそうな状況です。
当時のユダヤ人は、このような状態になった人を「悪霊に取りつかれた」と
考えました。
9節には、
 
  そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギ
  オン。大勢だから」と言った。
 
とあります。
「レギオン」というのは、ローマの1軍団のことです。
約6千人から成っていたそうです。
当時、このデカポリス地方もローマ帝国の支配下にありました。
そして、このレギオンと言われるローマの軍団が駐留していました。
想像をたくましくする人は、この男は子のローマの軍団にひどい目にあった
のだ、例えば、彼の家族がこの軍団によって虐殺されたとか、それが原因で
精神的な病になったのだ、と言います。
これは全くの想像ですが、何かの非常に悲惨な体験があったことは考えられ
ます。
そして、墓場に住むということは、この世の希望を全く失ってしまったこと
を表しています。
社会からも、家族からも、全く見捨てられてしまったのでしょう。
彼を理解する人は一人もなく、全く孤独であったでしょう。
 しかし、ただ一人、彼を憐れみ、彼を愛し、彼を救おうとされた方がいま
した。
主イエスは、既に湖の反対側でこの男の苦しみを見、この男を救おうとされ
たのです。
湖を舟で渡られたのは、この男に会うためでした。
主イエスは、この男を深く憐れみ、この男に取りついている悪霊を追い出そ
うとされました。
そしてこれは主イエスにとっては、おびただしい群衆に福音を説くのにも劣
らない重要なことでした。
しかし、この男には主イエスの憐れみが分からないのです。
 6-7節。
 
  イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高
  き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
 
この男は愛に飢えていました。
主イエスがこの男に近寄り、愛を示そうとしても、それを素直に受け取れな
いのです。
人が自分に近づいてくる時、それは自分を苦しめるために来ているとしか思
えないのです。
全くの人間不信に陥っています。
そして、他の人に対して不信になっているだけでなく、自分自身をも愛する
ことができなくなっているのです。
5節に「石で自分を打ちたたいたりしていた」とあります。
自分自身さえも愛することができずすべてに希望を失っている状態です。
 このような男に誰も近づこうとはしませんでした。
しかし、主イエスだけはこの男に近寄りました。
この人を深く憐れみ、この人の苦しみを共に担い、この人の病を癒そうとさ
れました。
この人は、今まで、本当の愛、本当の隣人を経験しなかったのかも知れませ
ん。
主イエスとの人格的な出会いによって、本当の愛、本当の隣人を経験して、
病気が癒されたのです。
奇跡が起こったとすれば、それは主イエスが魔術を行ったからではなく、本
当にこの人を憐れみ、愛されたからです。
そのことによって、失われていた本来の人間の姿が回復されたのです。
 病気が癒された話は、この人に取りついていた悪霊が2千匹の豚に移った
からだというように、民衆は説話風にこの話を伝えました。
これは、主イエスは悪霊をも支配されるのだ、という民衆の信仰に基づいた
話です。
しかも主イエスは、言葉によって支配するのです。
 8節。
 
  イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
 
前の話の突風を静めた記事においても、主イエスは風に「黙れ。静まれ」と
言われると、風がやんだ、とあります。
聖書において、神が言葉を発されると、それは出来事となるのです。
神の言葉には、大きな力があるのです。
 私たちは、礼拝において、このキリストのみ言葉に与っているのです。
人々は、この男を鎖でつなぎ止めようとしました。
しかし、この男は鎖を引きちぎったのです。
力で押さえようとすれば、それに必ず抵抗しようとする力が生じます。
権力あるものや、武力のあるものは、力で相手を押さえ込もうとします。
現在のパレスチナ問題もそういう様相を呈しています。
イスラエルは、圧倒的な軍事力でもってパレスチナ人を押さえ込もうとして
います。
しかし、パレスチナ人はそれに対して自爆テロのような形で抵抗するのです。
力で押さえ込もうとしても、それは決して真の解決にはなりません。
主イエスは、最も手強い敵である悪霊に、言葉で支配しました。
そしてそれによって、この男は癒されたのです。
 さて、この一人の男が癒された出来事を見ていたその地方の人々は、イエ
スに出て行ってもらいたい、と言ったというのです。
16-17節。
 
  成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったこ
  とと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出
  て行ってもらいたいと言いだした。
 
彼らは、一人の人が癒されたという大きな出来事に目を向けずに、2千匹の
豚が湖に飛び込んでおぼれ死んだことに目を向けたのです。
確かにその村にとっては大損害だったでしょう。
1匹1万円としても、2千万円の損害ということになります。
しかし、それよりももっと価値のある一人の人が生かされたことには目を向
けないのです。
ここに、いつの時代にもある経済優先の考えがあります。
現在の日本もそうではないでしょうか。
経済優先で、老人や弱い立場の人たちに対する配慮に欠けています。
儲けるためには、たとえ人を犠牲にしても、公害をまき散らしても、平気な
のです。
聖書においては、あくまで一人の人間を大事にするのです。
それは、神が与えた命であるので、どんな小さな人、どんな弱い立場の人、
あるいは社会にとって何の価値もないと思われるような人であっても、どん
なものとも比較できないほど貴重なのです。
 さて、この癒された人は、イエスについて行きたいと申し出ました。
18−19節。
 
  イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きた
  いと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰
  りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくだ
  さったことをことごとく知らせなさい。」
 
彼は、今まで自分に冷たくした家族や社会には帰りたくなかったのでしょう。
しかしイエスはあえてそこに帰りなさい、と言います。
それは、そこに於いて彼のなすべき務めがあるからです。
彼は、神の憐れみによって癒されたのです。
そうならば、その神を他の人にも伝えるということが、神の憐れみを受けた
者の務めです。
誰にでも、その場その場において、神を証する場があります。
神を証する場所は、特定の場所ではありません。
それぞれの属している所、それが神を証する場所です。
私たちも、神の憐れみを受けていることを思い、私たちの場でキリストを証
していく者でありたいと思います。