2002年5月12日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書4章35-41節 「風を従わせる方」
マルコによる福音書4章35節以下5章の最後までは、主イエスのいくつ
かの奇跡物語が集められています。
これらの奇跡物語は、一定の型に従って叙述されており、学者に拠れば、紀
元1世紀のギリシア・ローマ世界の奇跡物語と類似している、と言います。
しかしながらこれらの出来事は、イエスが実際に行われたことが元になって
いることは確かだと思います。
主イエスと生活を共にした弟子達は、多くの不思議なことを体験したでしょ
うが、それらがすべて伝えられた訳ではありません。
聖書に書かれていないことも多く体験したはずです。
そして、聖書に記されるに至った出来事は、特に印象的に体験したものでし
ょう。
それにもう一つは、弟子達が印象深く体験しただけでなく、その話が伝えら
れた当時の教会で同じような体験があって、余計に印象深く記憶された、と
いうことがあると思います。
奇跡物語は、それを伝えた人々の体験や信仰とダブらせて伝えられていく、
ということが多くあります。
今日のテキストもやはりそのようなものでしょう。
今日の話は、湖に突然突風が吹いてきて、舟が水浸しになった、というこ
とです。
このような時、乗っている人は非常なる恐怖心に襲われます。
そして、この話を伝承した人も、同じような体験をしたのではないでしょう
か。
舟はしばしば、教会を表す象徴とされてきました。
そこに突風が襲いかかったというのは、教会の迫害の状況が考えられます。
すなわち、この奇跡物語は、教会の迫害の状況の中で伝承されていったので
す。
古代のキリスト教は、ローマ皇帝によって何度か迫害を受けました。
その中でも大きな迫害が10ありました。
十大迫害と言われています。
その十大迫害の最初のものが、紀元64年のネロ帝の迫害です。
紀元64年7月18日に、ローマに大火事が起こりました。
そして火は6日間燃え続け、全市の3分の1が灰に帰しました。
そしてこれは、ネロが部下に放火させたのだという噂が立ちました。
そこでネロ帝は、自分への非難をかわすために、その放火の罪をキリスト教
徒に転嫁しようとしたのです。
そこでキリスト教徒は、放火の疑いで捕らえられ、獄に入れられ、残虐なや
り方で殺された、と伝えられています。
そして、一説によると、この迫害の時に、ペトロもパウロも殉教したと伝え
られています。
さて、ネロ皇帝の迫害は、初期のキリスト教会に大きな動揺を引き起こし
ました。
そして、この動揺は、ローマだけでなく、各地のキリスト者にも及ぼされま
した。
そして、今日のテキストは、突然の嵐の中に揺れる舟を、動揺している教会
と重ね合わせて読まれたことでしょう。
マルコによる福音書が書かれたのは、ちょうどこの頃です。
35-36節。
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言
われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま
漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4章1節で、イエスは舟に乗って陸地にいる群衆に教えた、とあります。
この湖はガリラヤ湖です。
その話が終わって、イエスはその舟に乗ったまま「向こう岸に渡ろう」とい
った、ということでしょう。
主イエスは、できるだけ多くの人に神の国のことを宣べ伝えたいと思いまし
た。
そこで、湖の向こう岸に住んでいる人の所へ行こうとされたのです。
ここに食する暇も打ち忘れて働くイエスの姿があります。
37節。
激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
私たちも以前にイスラエルを旅行した時、ガリラヤ湖で舟に乗りました。
その時は、天気も良くて、湖面は穏やかで、とてもきれいでした。
しかし、その穏やかなガリラヤ湖も、時には突風が吹いて、荒れることもあ
るそうです。
この話は、当時の教会の人々には、ネロ帝の迫害によって動揺している教会
と重ねて考えられたでしょう。
教会はよく舟に譬えられてきました。
ノアの箱船も、よく教会に譬えられます。
ローマ世界という大海原にあって、そこに漂う1そうの小さな舟、それが教会
です。
海が穏やかな時は静かに進みますが、いったん嵐に遭うと舟は風に翻弄され
る木の葉のように揺れ動きます。
大海原の真ん中にある1そうの舟は、全く無力です。
迫害の中にあるキリスト者は、そういう思いをしていたでしょう。
38節。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエス
を起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言
った。
舟が水浸しになるほどであったのですから、乗っていた人々は非常に動揺し
たでしょう。
不安と恐れに襲われたでしょう。
人間は実に弱い者です。
少し事が起こるとすぐ動揺します。
キリストを信頼しているはずの教会でも同じです。
当時の教会でも、迫害という現実にぶつかるとたちまち大きな動揺が起こっ
たようです。
弟子達は、眠っているイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもか
まわないのですか」と叫びました。
これは、詩編などにもよくある神の沈黙に対する抗議の叫びです。
信仰者が苦しんでいる。
そして神に助けの叫びを上げている。
しかし、神はその声が聞こえないかのごとくに沈黙している。
祈る者は、そこでいらだちの声を上げるのです。
迫害を受ける教会も、同じような経験をしたのでしょう。
迫害の中にあって、キリスト者は苦しみ、助けの声を上げている。
しかし、神は一向に助けの手を差し伸べてくれない。
「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。」とあります。
苦しむ者の苦しみを全く無視したような態度です。
そのようにしていらだち、また神への不信を抱いたキリスト者もいたでしょ
う。
大海原のまっただ中にあって、弟子達にとってはイエスだけが頼りでした。
しかし当のイエスは、弟子達の動揺をよそに眠っているのです。
遠藤周作の『沈黙』もこのテーマです。
純真なキリシタンが迫害を受け、苦しめられているのに、神は沈黙している。
どうしてこんな苦しい時に神は救いの手を差し伸べてくれないのだろうか。
私たちも、苦しんでいる時、神が何の手も差し伸べてくれないなら、いらだ
ちを覚え、不信を抱くのではないでしょうか。
しかし、そのような時になおかつ、否そのような時こそ、本当に信頼に足
るお方が聖書の生ける神です。
主イエスは、この生ける神に全く信頼を置いておられました。
嵐にあって大揺れに揺れている舟の中で、イエスが眠っておられたというの
は、そのような生ける神への絶対的な信頼を表しています。
旧約聖書の預言者達も、この生ける神に全く信頼するようにということを
述べました。
その一人に、紀元前8世紀に活躍した預言者イザヤがいます。
イザヤの属したユダ王国に、ある時北から連合軍が攻めてきました。
その時、「王の心と民の心とは風に動かされる林の木のように動揺した」と記
されています。
その時イザヤは、王に会見して、「気をつけて静かにし、恐れてはならない、
ただ主に信頼せよ」と言いました。
神に全く信頼するならば、神は必ず私たちを支えてくださるでしょう。
なぜなら、神はすべての支配者だからです。
39節。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。
すると、風はやみ、すっかり凪になった。
ここでイエスは、すべての主権者として行為します。
すなわち、風を叱ったとあります。
すると、騒いでいた子供が親に叱られて静かになるように、静かになったと
いうのです。
キリストは、この世の力をすべて支配されるお方です。
このキリストに全く信頼を寄せるのが信仰です。
キリストは、本当に荒れ狂う海を一喝して静めることのできるお方です。
これは、神はあらゆる敵対勢力に勝利するということを象徴しています。
旧約聖書において、創造の業は、しばしば怪物と考えられていた海に対する
神の戦いとして叙述されています。
例えば、詩編74編13-14節には次のようにあります。
あなたは、御力をもって海を分け/大水の上で竜の頭を砕かれました。
レビヤタンの頭を打ち砕き/それを砂漠の民の食糧とされたのもあなた
です。
初期の教会の人たちは、海とも思えるローマ世界の力に対しては、自分た
ちは全く無力であることを感じたでしょう。
自分たちがあくせくしても何もできない。
むしろ、ますます悲惨になるだけである。
そこで、すべての支配者であるキリストにすべてを委ね、全く信頼を寄せる
以外にない。
そして事実、キリストに全く信頼する所から道が開け、希望が生じたのです。
迫害の中にあって、殉教した人もいましたが、最も恐るべき死をもキリス
トが滅ぼされることを信じ、平安だったと言われています。
コリントの信徒への手紙一15章26節に「最後の敵として滅ぼされるのが
死である」とあります。
マルティン・ルターは、宗教改革の火蓋を切って迫害された時、このテキ
ストで説教しました。
カール・バルトもナチスによって教会が迫害された時、このテキストで説教
しました。
ナチスによって迫害されている教会と、この「波にのまれそうになった舟」
をと重ね合わせたのです。
しかし、本当に恐るべきものは、風や波ではありません。
41節に、
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や
湖さえも従うではないか」と互いに言った。
とあります。
本当に恐るべき方は、風を従わせる方です。
キリストは、たとえどんな猛威であろうと、風を従わせることができるお方
です。
本当に怖いのは、この世の力ではありません。
私たちの教会には、現在権力による迫害というものはありませんが、いろ
いろな形で舟を呑み込もうとする勢力があります。
そして、そういうものに対して私たちは無力です。
しかし私たちは、この世のいろいろな力に動揺させられるのでなく、風を従
わせる方に常に信頼するものでりたいと思います。