2002年4月21日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書4章1-9      「豊かな収穫」
 
1節。
 
  イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そ
  ばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上に
  おられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
 
前の所では、イエスが身内の人にも誤解され、律法学者たちには悪意をもっ
て「ベルゼブルに取りつかれている」と非難された、ということを学びまし
た。
しかし、それにもかかわらず、多くの群衆が主イエスの話を聞こうとして集
まってきたのです。
ここに「湖」とありますが、これはガリラヤ湖のことです。
余りにも大勢の人々が集まってきたので、主イエスは舟に乗って、湖の上か
ら湖畔に集まっている群衆に話されました。
 2節。
 
   イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
 
主イエスは、よくたとえで話されました。
譬とは、良く知られているものを通して、知られていない秘儀を語る方法で
す。
この譬は、比喩とは区別されるものです。
比喩の場合は、話に出てくる一つひとつのものに何かの意味を持たせるもの
です。
しかし、譬は、話全体で一つのことを言おうとしています。
ここでは主イエスは、譬(ギリシア語では、パラボレー)で語った、とあり
ます。
「たとえ」は、一つのことを言おうとするものですから、ここの話は元々は、
種まきと豊かな収穫ということです。
すなわち、主イエスの宣教とその豊かな実りということだけが本来言われて
いました。
神の国とは、神の働きとは、このように実り豊かである、というのが主イエ
スの言おうとしたことです。
道端とか、石だらけの土の少ない所とか、茨の中などには、本来特別な意味
はなかったのです。
 しかし、後の教会において、この話は比喩と受け取られ、話の一つひとつ
の事柄に何かの意味があるのではないか、と解釈されたのです。
そこで、15節以下のように解釈されました。
すなわち、「道端」とはこういうことなのだ、と。(15節)
 
  道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それ
  を聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
 
また、「石だらけの所」とはこういうことなのだ、と。(16ー17節)
 
  石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞
  くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続い
  ても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてし
  まう。
 
また、「茨の中」とはこういうことなのだ、と。(18ー19節)
 
  この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他い
  ろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
 
さらに「鳥」とはサタンを表すのだとかと言ったように、話に出てくるもの
一つひとつに何らかの意味を持たせていくのです。
 しかし、主イエスがこの話で語られたのは、「たとえ」であって、話全体で
何か一つのことを言おうとしているのです。
すなわち、神の国の働きのことを言っているのです。
神様の働き、主イエスの働き、と言ってもいいと思います。
そしてそれは、豊かな収穫をもたらすものなのだ、ということです。
 主イエスの語られたたとえは、そのほとんどが「神の国」についてでした。
「神の国」というのは、私たちには知られていないものです。
そこで主イエスは、この知られていない「神の国」について示すために、ガ
リラヤの農民なら誰でも知っている「種まき」というものでたとえを語られ
たのです。
貧しいガリラヤの農民にとっては、汗水垂らして蒔いた種の発芽や生長や結
実というのは、非常なる関心の的でした。
 ただ、種まき自体の話は誰にでも分かりますが、これで意味されている事
柄は、そう容易ではありません。
10節に
 
  イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人
  たちとがたとえについて尋ねた。
 
とありますが、弟子達は主イエスの譬の真意が分からなかったので、イエス
に尋ねた、というのです。
これは恐らく、初期の教会の事情が反映されていると思われます。
すなわち、主イエスの語られた多くの「たとえ」が、人から人へと伝えられ
ていく間に、時と共にその本来の意味が分からなくなっていったのです。
そして、その時々に教会において解釈がなされていったのです。
現在においても、聖書のみ言葉が何を意味するのか、ということを求めてい
ろんな注解書が書かれていますが、初期の教会から既にそうだったのです。
そこでこの「種を蒔く人のたとえ」についても、13節以下の所では、当時
の教会で行われた解釈であると思われます。
聖書の中には、そういう解釈も多く含まれています。
一番大きなものとしては、旧約聖書の証言を、教会がキリストの預言と解釈
したことでしょう。
例えば、イザヤ書53章に、苦しみを受ける一人の人物のことが記されてい
ますが、これは恐らくバビロン捕囚の時代の歴史上の人物のことを記したも
のだったでしょう。
しかし、教会ではこの「苦しみを受ける一人の人物」はイエス・キリストの
預言であると解釈したのです。
 さて、主イエス自身の話されたたとえに戻りましょう。
先ほども言いましたが、主イエスのたとえは、ほとんどが「神の国」につい
ての話です。
主イエスの宣教は、1章15節にあるように「時は満ち、神の国は近づいた。」
というものでした。
「神の国」というのは、神の支配、あるいは神の働きということです。
しかし、神の支配はこういうものであると説明して理解できるものではあり
ません。
11節の所を見ますと、「神の国の秘密」と言われています。
すなわち、「神の国」というのは、私たちには秘密であって、神御自身によっ
て示されなければ私たちには分からないものなのです。
 そこで、主イエスのたとえでは、3節において、「よく聞きなさい」と言わ
れています。
これは、神御自身が神の国の秘密を示すので、よく聞きなさい、と人々に注
意を促しているのです。
そしてたとえの終わりでは、9節において、「聞く耳のある者は聞きなさい」
と再び念を押されています。
神の国の秘密は、神御自身が語るものを心から耳を傾けなければ分かりませ
ん。
耳を閉ざしている所では、神の働きを経験することができません。
そこで、主イエスはまず、「よく聞きなさい」という言葉でたとえを始めるの
です。
この「よく聞きなさい」という言葉は、単に話を始める前置きとして形式的
に言われているのではありません。
実は、これが決定的に重要なのです。
この「よく聞きなさい」という呼びかけは、単に外面的に聞く、耳に入って
来るというのでなく、一つの決断を含む所の呼びかけなのです。
神の言葉を聞くならば、それを聞き流す訳にはいきません。
それに対して決断し、それに応えて行動せざるを得ません。
聞き流すのでなく、聞いて従う、ということです。
主イエスが、この譬を語る最初に「よく聞きなさい」と言い、最後に「聞く
耳のある者は聞きなさい」と言われているのは、このたとえを真剣に聞き、
そこから信仰的な決断をするように求めておられるのです。
 さて、「種を蒔く人のたとえ」ですが、主イエスの言わんとすることは、イ
エスによって神のみ言葉がまかれ、それが真剣に聞かれるならば、豊かな収
穫をもたらす、ということです。
神が働かれるならば、ほんの小さなからし種のようなものでも、実に豊かな
収穫が与えられる、ということです。
ここでは、あくまで、神のみ業の大きさが言われています。
そして、その神のみ業を信じ、己をその神に委ねていく、ということが求め
られています。
 ところが、13節以下の所では、当時の教会において、一つひとつの言葉
に意味を持たせて、人間の側の態度のことに比喩的に解釈されました。
しかし、かと言って、これは主イエスの本来の意図ではないといって、退け
てしまう必要もないと思います。
その時々の状況において聖書の言葉を新たに解釈していくことは、当然あっ
ていいことです。
ここには、当時の教会においていろいろな問題が起こったことが想像されま
す。
教会がいくら一生懸命伝道しても、全然それを受け入れない人がいました。
また、最初は喜んで教会に連なっても、何か問題が起こるとさっさと教会か
ら離れていく人もいました。
また、特に財産への執着から、全存在を掛けて「服従する」までに至らない
人もいました。
そして、そういう人たちを表すのに、このたとえがぴったりしたのでしょう。
そういう信仰的反省から、このたとえが解釈されていったのでしょう。
従って、この解釈もそれなりの意味があります。
 しかし、このたとえ全体の意味する所を見失ってはなりません。
この解釈においても、20節が中心とならなければなりません。
 
  良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、
  ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
 
このたとえは、ここにポイントがあります。
そうでないと、人をこのような種類のものに色分けして、どの人はどのタイ
プに属するというようにして、人を裁いてしまいます。
そして、それはこのテキストの意図ではありません。
人間をどのタイプに属するかと色分けするのではなく、種を蒔いたのがキリ
ストである、ということに注意をしなければなりません。
キリストが種を蒔いたなら、たとえ石だらけの所と思われる所であっても、
それを耕し、やがて豊かに実を結ぶのです。
それが神の国なのです。
それが神の支配なのです。
それが神の働きなのです。
このたとえは、そこにポイントがあります。
私たちが、道端にならないように、石だらけの所にならないように、茨にな
らないように、と戒められているのではありません。
ここでは、豊かな実を結ぶ神の働きが言われているのです。
そして私たちは、この豊かに収穫をもたらす神の働きを信じて、この神に己
を委ねて、従って行くようにと勧められているのです。
それが、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉です。
これは戒めではなく、神の招きです。
 今日は教会総会で、昨年一年間の私たちの教会の歩みを振り返ります。
ここでも重要なことは、教会の業は人間の業ではなく、神の業である、とい
う信仰です。
まさに、昨年度一年間の私たちの教会の歩みは、神が種を蒔き、神によって
豊かな収穫を与えられた歩みであったと思います。
私たちは、何よりもまず、この神の恵み豊かな導きに感謝をささげなければ
ならないと思います。
神の働きは、私たちの予想や考えを遙かに越えたものです。
たとえ私たちにいろいろな困難があっても、神は必ず豊かな実を結ばせてく
ださいます。
このたとえで主イエスが言おうとされていることは、そのことです。
この神の働きを信じ、キリストが私たち教会の頭として、私たちを常に導き、
豊かな収穫を与えて下さることを信じたいと思います。
そして、常に、私たちを導き、豊かな収穫を与えて下さる神に従って行くものでありたいと思います。