2002年3月10日     室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書3章20-30節   「受難の序曲」
 
 私たちは、主イエスを救い主と信じていますが、主イエスが活動された当
時の人々は、必ずしもそうではなく、いろいろな誤解や無理解があったこと
が福音書に記されています。 
前回は、十二弟子の選びの記事でしたが、主イエスの弟子たちも、主イエス
が活動された時には、いろいろな誤解や無理解がありました。
そしてそのような無理解から、イスカリオテのユダはついにはイエスを裏切
ったのです。
そして、人々の誤解からついにはイエスは十字架につけられることになりま
すが、ガリラヤで活動されていた時から、人々に誤解され、受難が始まって
いたということがでいます。
今日の記事では、身内の人にも誤解されていたことが記されています。
 21節。
 
  身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が
  変になっている」と言われていたからである。
 
この身内の人のなかには、イエスの母マリアも含まれていたでしょう。
31節の所には、「イエスの母と兄弟たち」と言われています。
マリアは、イエスの誕生物語においては、神の子を宿したことを素直に受け
入れ、その信仰が誉めたたえられていました。
しかし、ここでのマリアは、イエスのことを全く理解していないのです。
受胎告知や誕生物語におけるマリア像は、後の初期のキリスト教会において
表現されたもので、実際はここのマリアのようにイエスのことを本当には理
解していなかったのかも知れません。
また、この中には、イエスの弟のヤコブも含まれていたでしょう。
このヤコブは、イエスの死後、エルサレム教会の指導者として活躍した人物
です。
しかし、この時はイエスのことを全く理解していなかったのです。
 身内の人たちは、なぜイエスのことを気が変になっていると思ったのでし
ょうか。
イエスは、少年時代を過ごした故郷のナザレをある時去り、ヨルダン川でバ
プテスマのヨハネから洗礼を受け、神の国の宣教に出ました。
このことを家族のものはどう思ったでしょうか。
イエスの父ヨセフは、非常に若くして死んだようなので、長男であったイエ
スが大工の仕事をして、一家を支えていたかも知れません。
そのイエスがある時、仕事も家も故郷も放り出して、神の国の宣教のために
出て行ったのですから、身内の人はきっといい思いをしていなかったでしょ
う。
さらに、彼が病人を癒したり、多くの人が彼の所に殺到しているということ
を聞いて、これはきっとイエスは何かに取りつかれたのだ、と思ったのです。
そこで、「取り押さえに来た」と言われています。
これは、もう全く異常な人間としての扱いです。
これはイエスに関する全く無理解から出た行動ですが、しかしまだ家族とし
ての愛情ある態度でした。
イエスが人々に迷惑を掛けているのではないかと思い、無理にでも郷里に連
れ帰ろうとしたのでしょう。
 しかし、次の律法学者たちの態度は、無理解だけでなく、悪意がありまし
た。
彼らは、イエスが多くの民衆を引きつけていたことに嫉妬を抱いていたので
す。
あるいは、イエスが多くの民衆に支持されていたことを危険視したのです。
主イエスは、最後は律法学者を中心とするユダヤ教の指導者によって十字架
に掛けられましたが、既にガリラヤの宣教活動の初期に、律法学者による受
難の序曲があったのです。
 22節。
 
  エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取り
  つかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」
  と言っていた。
 
ここで「エルサレムから下って来た律法学者」とあります。
イエスの活動していたのは、ガリラヤ地方です。
ガリラヤは、エルサレムからは遙か北の辺境の地です。
わざわざエルサレムから律法学者が、その辺境の地にやってきたということ
は、エルサレムの宗教指導者たちの結論を携えてやって来た、ということで
しょう。
イエスが多くの人の病気を癒していたという噂はエルサレムにも聞こえてき
ており、これをどう解釈するかがエルサレムの律法学者たちの問題となった
のでしょう。
しかし、エルサレムの宗教指導者たちは、イエスという一介の田舎者の青年
に神からそのような力が与えられていたと認める訳には行かなかったのです。
そこでエルサレムで出た結論は、「彼はベルゼブルに取りつかれている」とい
うものでした。
「ベルゼブル」というのは、本来は、古いシリアの神の名でした。
これは「家の主人」という意味です。
このシリアの神がイスラエルに入ってきた時、人々はこれを嘲って「バアル
ゼルール」と呼んだのです。
これは「蝿の神」という意味です。
後には、異教の神の名が、悪魔を示すようになっていきました。
ここでは、「ベルゼブル」は、悪霊の頭、サタンと同じものとされています。
律法学者たちは、イエスが病人を癒したことを否定できませんでした。
それならイエスに神の力を認めて尊敬する、というのではなかったのです。
人間にとって厄介なのは、メンツです。
律法学者は、ユダヤの社会ではもっとも地位の高い宗教指導者でした。
一方イエスは、何の教養もない田舎の貧しい青年でした。
このような名もない青年が不思議な業を起こし、多くの人々に慕われている
ことを、彼らのメンツが許さなかったのです。
そこで、イエスの不思議な業を素直に認めずに、イエスは悪霊に取りつかれ
ているのだ、と宣伝したのです。
そのように、イエスは魔術師、サタンの手下だと言って、イエスに従ってい
る民衆を彼から引き離そうとしたのです。
律法学者たちは、自分たちの立場を守ることだけを考え、イエスの行為にお
ける神の力を全く見ようとはしなかったのです。
イエスの本質を見なかったのです。
福音の中心的な事柄を全く無視して、末端のことにしか目を向けなかったの
です。
 これに対してイエスは譬で彼らに答えられました。
イエスは実に多くの譬を語られました。
譬とは、良く知られているものを通して、隠された神の世界を説明する仕方
です。
例えば、「神の国は一粒のからし種のようなものである」という譬は、人々が
良く知っているからし種を通して、隠された「神の国」について説明するも
のです。
イエスは実に沢山の譬を語られましたが、それらは弟子たちが記憶していて、
それが集められて初期の教会において「譬集」というものができていたよう
です。
そして、マタイ、マルコ、ルカの福音書記者は、福音書を記す時に、この「譬
集」から自分の文脈に引用したようです。
従って、マルコ、マタイ、ルカで違った文脈の中に同じ譬が引用されている
場合があります。
そしてマルコはここで、イエスがサタンによって悪霊を追いだしているので
はないということを言おうとして、これらの譬を引用しています。
 23節。
 
  そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうし
  て、サタンがサタンを追い出せよう。
 
ここでイエスはまず、律法学者たちの矛盾を指摘します。
すなわち、もしイエスがサタンに取りつかれているのなら、どうして同じサ
タンを追い出すことができるだろうか、というのです。
律法学者たちは、当時の社会においては、エリートでしたが、イエスを陥れ
ようとしていた訳ですから、論理に矛盾があったのです。
そこをイエスは見事に付いています。
 24節。
 
  国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
 
これも見事な論法です。
すなわち、もしイエスがサタンに取りつかれているのなら、彼が悪霊を追い
出すのは、サタンの国の内部紛争になるではないか、というのです。
 27節は、別の譬ですが、やはりマルコがこの文脈に入れたのです。
 
  また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入っ
  て、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略
  奪するものだ。
 
イエスは、律法学者が悪宣伝したように、サタンに取りつかれたのではなく、
逆にサタンを縛り上げたのだ、というのです。
ここで「強い人」というのはサタンを意味します。
「家財道具」というのは、悪霊どもを意味します。
すなわち、イエスがサタンを支配したので、その手下である悪霊どもを追い
出すことができた、というのです。
イエスは、荒れ野でサタンの誘惑に打ち勝ちました。
サタンはとても強く、私たちならいっぺんに負けてしまいますが、イエスは
それよりも遙かに強いお方であり、サタンを縛り上げることのできるお方で
す。
そこでサタンの支配する国は敗れ、神の国が到来したのです。
 しかし、現実の世の中においては、悪魔の力は依然として強いです。
悪の力がなぜこうも強いのかと、現実の世でつくづく感じます。
昨年からの世界の出来事を見ましても、テロとか報復とか、また政財界の不
正な事件とか、ますます悪の力が強くなっているように思われます。
私たちは、この世の暗い現実を見て、心が滅入りそうになります。
なぜ、この世に悪がはびこるのでしょうか。
エーリッヒ・フロムという心理学者は、人間に殺人や残虐な行為(彼は特に
ナチスの悪を問題にしていますが)がどうして起こるのか、ということを問
題にして、『悪について』(原題は「人間の心」)という本を書きました。
どうしてこの世に悪がはびこるのか、これは私たち人間の永遠のテーマです。
しかし、実は、この強い悪の力よりもっと強い力があるのです。
主イエスは、悪霊どもの頭なるサタンに打ち勝たれたのです。
そして私たちは、そのもっと強いお方によって救われているのです。
そのことを心から信じるならば、私たちは決してこの世の悪だけを見て絶望
する必要はないのです。
 28-29節。
 
  はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて
  赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責
  めを負う。
 
イエスはここで、私たちに人間にはすべてが赦されている、と言います。
「どんな冒涜の言葉も赦される」というのは、驚くべきことです。
なぜなら、旧約聖書においては、神を冒涜する言葉は、厳罰に処されたから
です。
しかし、ここでイエスは、それさえも赦される、と言います。
これはキリストの購いによります。
私たちは、なんと大きな赦しの中にあるのでしょうか。
ここでは、赦しの大きさが言われています。
しかし、赦されない罪もあります。
それは聖霊を冒涜する罪です。
イエスをどういうお方として捉えるか、ということはわたしたちの信仰の根
本です。
そして、イエスをペトロの告白のように「生ける神の子キリスト」と認める
のは、わたしたちの血肉ではなく、聖霊の働きによります。
それゆえ、聖霊を冒涜する者は、イエスを正しく捉えることができず、自ず
とイエスへの無理解となってしまいます。
キリスト信仰にとって、聖霊の働きは非常に重要です。
わたしたちの信仰は、結局聖霊の働きに己を委ねることです。
ここの律法学者はそうではありません。
聖霊に委ねるのでなく、自分の力ですべてを判断します。
すなわち、それは自分を神の座に置くことです。
このような態度は、自分の思い上がり以外ではありません。
その結果、イエスを神の子と認められずに、自分たちのメンツをつぶす者と
見、そしてイエスに嫉妬をし、結局は十字架に掛けてしまったのです。
自分たちのメンツ、イエスへの嫉妬は、イエスの受難の序曲となりました。
私たちはそうであってはなりません。
私たちは、聖霊の助けによって、イエスを正しく信じる者でありたいと思い
ます。