S020203 2002年2月3日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書2章23-28節
「安息日は人のため」
24,209,456,520,27,交85
主イエスがガリラヤ地方で宣教された時、多くの民衆が主イエスの言葉を
聞くために集まりましたが、イエスの言動にことごとく批判した人たちもい
ました。
その代表がファリサイ派と律法学者でした。
マルコによる福音書2章においても、そのようなことのいくつかが報告され
ています。
13節以下のところでは、徴税人レビがイエスを食事の席に招き、その所に
多くの徴税人や罪人が同席したのをファリサイ派の人々が非難したというこ
とが言われていました。
また18節以下のところでは、ヨハネの弟子たちは断食しているのにイエス
の弟子たちは断食しないことを、これまたファリサイ派の人々が非難しまし
た。
今日の記事は、主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだということ
で、これまたファリサイ派の人々がイエスを非難したという話です。
23節。
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きなが
ら麦の穂を摘み始めた。
この麦畑は、もちろん弟子たちのものではなく、他人の所有のものでした。
他人の畑の麦の穂を摘んでもいいのかというと、それは申命記の法によると
許されていました。
申命記23章26節に、
隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使
ってはならない。
とあります。
すなわち、空腹を癒すために手で穂を摘むことは許されていたのです。
ただし、鎌を使って大量に収穫することは禁じられていました。
ここには、古代イスラエルの法において、貧しい人々や弱い立場の人々を保
護しなければならない、という考えがあります。
別のところには、農民は収穫の時、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない、
畑の四隅は貧しい人々が自由に食べても良いように残しておかなければなら
ない、という法もありました。
ここで弟子たちが穂を摘んだ理由は言われていませんが、恐らく空腹を癒す
ためであったでしょう。
マタイによる福音書の記事ではそのことがはっきりと言われています。
マタイによる福音書12章1節には、
弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
とあります。
そして、このことに対してはファリサイ派の人々は何も非難していません。
24節。
ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にし
てはならないことをするのか」と言った。
ファリサイ派の人々は、そのことを安息日にしたということを非難している
のです。
この安息日の規定は、十戒の4番目にあり、当時のユダヤ人は非常に重要に
していました。
それは、「安息日を覚えてこれを聖とせよ。6日の間働いてあなたのすべての
わざをせよ。7日目はあなたの神、主の安息であるから、何のわざをもして
はならない」というものです。
この「何のわざ」というのは、時代によって様々に解釈されてきました。
最初は、商売をすること、荷物を運ぶこと、火をたくことなどでした。
しかし、時代と共に、それにいろいろな規定が付け加えられていきました。
安息日に歩くことのできる距離なども規定され、イエスの時代は大体1キロ
位の範囲しか行くことができませんでした。
紀元前2世紀のマカバイ戦争の時は、軍務につくことも控え、安息日にシリ
ア軍に攻撃を受けても、それに応戦せずに、安息日を犯すよりも死を選ん
だ、という逸話もあります。
主イエスの時代には、安息日にしてはならないことが350も定められてい
た、と言われています。
ここの、麦の穂を摘むというのも、その禁止事項の一つであったのでしょ
う。
そこで、主イエスの弟子たちは、ファリサイ派の人々に咎められたのです。
その時主イエスは25−26節で次のように答えました。
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空
腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタル
が大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも
食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたでは
ないか。」
このダビデの出来事は、サムエル記上21章1−6節に記されています。
尤も、主イエスが26節で述べておられることとは若干違っています。
サムエル記上では祭司アビメレクの名前が挙がっていますが、主イエスの語
られたのは大祭司アビアタルです。
アビアタルはアビメレクの子です。
これは話が伝えられる過程で間違ったのでしょう。
しかしこれは余り重要なことではありません。
ダビデはこの時、サウルに追われていました。
ダビデは神によって立てられたサウルに弓を引くことをせず、逃げてばかり
いました。
それでも、ダビデに忠実に従う家来がいました。
彼らの餓えを見るに忍びないダビデは、彼らを潜ませた上、ただ一人危険を
冒してアビメレクのもとに食物の入手の交渉に出掛けたのです。
しかし、祭司の家では食事用のパンがちょうど切れており、祭司しか食べる
ことのできなかった供え物のパンしかありませんでした。
アビメレクは、ダビデの家来たちが祭司と同じ位清い生活をしているなら
ば、供え物のパンを提供する、と言いました。
ダビデはそれを固く約束して、そのパンをもらっていきました。
主イエスはこの話を引き合いに出して、危急の時には律法の規定を破っても
良いことを言いました。
人の命と律法の規定とでは、人の命の方が大切です。
これは一つの例として旧約聖書を引き合いに出したのですが、より重要な
ことを主イエスは言います。
27節。
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日の
ためにあるのではない。
この言葉は、同じ記事を伝えているマタイによる福音書にもルカによる福音
書にもありません。
しかし、だからといって、これが主イエスの言葉ではないとは言えません。
これは、明らかに主イエスが言われた言葉だと思います。
主イエスは、「安息日は人のためにある」と言われます。
これは驚くべき言葉ではないでしょうか。
安息日とは、人間を重荷から解放する時です。
安息日の起原ははっきりしていません。
バビロニアに起原があるという説や、カナンに起原があるという説などいろ
いろな説があります。
一定の時に仕事を休むという習慣は、非常に古くからあったようです。
これは、月の満ち欠けと関係があったようです。
満月や新月は、特別な時とされ、仕事を休んだようです。
従って、古くは月2回であったようです。
それから、その真ん中も休むようになって、7日目毎に休むというようにな
ったようです。
しかし、安息日の意味づけを明確にしたのは、旧約聖書の記者です。
これは、紀元前6世紀のバビロニア捕囚の中の祭司たちでした。
イスラエルにおいては、礼拝は主に神殿で行われていました。
しかし、バビロニア捕囚においてはもちろん神殿がなかったので、彼らは安
息日を重んじるようになりました。
そして、安息日を聖なる日として意味づけたのです。
それは、天地創造の物語において、神が7日目に創造のわざを休まれたこと
と関連づけられました。
満月だから仕事を休むとか、新月だから仕事を休むとか、その他どんな理由
からでもなく、神が創造のわざを休まれたから人々も仕事を休むのだ、とい
う理由付けです。
これは、6日間労働をして疲れたので休息を取る必要があるからといった人
間中心的な理解ではありません。
そうではなく、神が創造のわざを完成し、それを祝福した、そしてその喜び
に人は招かれて、その日に人は神の恵み深いわざを覚えて、神の祝福に与る
のだ、ということです。
この世の労働から解放され、この世の煩いから解放され、神の恵みと祝福に
与る日、それが安息日です。
従って、安息日は重荷となるのでなく、重荷から解放される日です。
それを、「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」「麦の穂を摘んで
はいけない」「何メートル以上歩いてはいけない」「食事の用意をしてはいけ
ない」「火をおこしてはいけない」といろいろ細かな規定で束縛していくな
ら、本来の安息日の解放という意味がなくなってしまいます。
そういういろいろなこの世の重荷、思い煩いから解放されて、神の恵みと祝
福に与る日が、本来の安息日なのです。
古代イスラエルには、安息日のほか、安息年というものもありました。
すなわち、7年目を安息年と言いましたが、この年には畑も1年間何も植え
ずに休ませなければなりませんでした。
この年は、畑にとっても休養の年でした。
また、7年が7回巡ってくるとヨベルの年でした。
この年には、奴隷は解放され、すべての借金は免除されたのです。
そこで、ヨベルの年は、解放の時として、最も喜ばしい時として、人々から
期待されたのです。
そのように、安息日というのは、本来、人間がいろいろなものに縛られて
いるところから解放され、神の恵みと祝福に与る時でした。
ところがイエスの時代の安息日は、それとは反対に、いろいろな規定で人間
をがんじがらめに縛り付けていたのです。
主イエスは、その本来の安息日を取り戻したのです。
28節。
だから、人の子は安息日の主でもある。」
「人の子」というのは、主イエスのことです。
主イエスが安息日の主です。
私たちにとって安息日は、キリストの復活の記念である日曜日です。
わたしたちは、この日曜日に主の安息に招かれているのです。
すなわち、この世のいろいろな私たちを縛り付けているものから解放され
て、神の恵みと祝福に与るために礼拝へと招かれているのです。
それは、この日曜日は、この世の力の支配するところではなく、安息日の主
であるキリストの支配したもうところです。
日曜日の礼拝が私たちの重荷となってはなりません。
そうではなく、この世のいろいろな重荷から解放されて、神の恵みと祝福に
与る日なのです。
わたしたちは生きていくために6日の間この世で働かなければなりません
が、日曜日はこの世のいろいろな重荷から解放されるのです。
教会の看板の聖句に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに
来なさい。休ませてあげよう。」とありますが、これはまさに、安息日の主で
あるキリストの私たちへの招きの言葉です。
わたしたちは、キリストによってこの真の解放の日である安息日に招かれて
いることを覚え、感謝をささげたいと思います。