2002年1月20日     室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書2章18-22節
「新しい時代にふさわしく」
 
 新約聖書の主張は、主イエスの到来でもって新しい時代が来た、というも
のです。
主イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて宣教活動を開始された
時、まず最初に「時は満ちた」と言われました。
これは、今までとは違う全く新しい時代の到来を告げるものでした。
主イエスとともに新しい時代が始まったのです。
 しかし、新しい時代が知らされても、依然として古い時代に固執する者も
います。
主イエスの時代にも、また初期の教会の時代にもそのような問題があったよ
うです。
古い時代に固執しようとする者は、大体律法主義的になります。
今日のテキストでは、そのような問題が扱われています。
18節。
 
  ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人
  々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の
  弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないの
  ですか。」
 
これは恐らく、マルコが福音書を書いた時代(紀元60年代)のことが反映
されているでしょう。
というのは、主イエスに向かって「あなたは断食しない」とは言われずに、
「あなたの弟子たちは」と言われているからです。
これは、マルコの時代のキリスト者を暗示しています。
また、「ヨハネの弟子たち」というのは、バプテスマのヨハネを信奉していた
グループでしょう。
ヨハネ教団という言い方もします。
このヨハネ教団も原始キリスト教団と並んでしばらく存在していたようで
す。
このヨハネ教団と原始キリスト教との違いは、一方は断食をするのに、他方
は断食をしなかった、ということです。
そして、今日の箇所では、人々がイエスに尋ねたということになっています
が、当時の教会においてそのようなことが問題になっていたのでしょう。
あのヨハネの信奉者たちは熱心に断食しているのに、我々キリスト者は断食
をしなくてもいいのか、という問いです。
自分たちも何か苦行のようなものをする必要はないのか、という問いです。
 断食は、文字通り、人間に最も基本的な食を断つことですから、非常に苦
しいことです。
私も学生時代、靖国神社国家護持法に反対して、キリスト者でハンストに参
加したことがあります。
確か5−6日断食したと思いますが、さすがに三日目くらいになると非常に
苦しくなったことを覚えています。
主イエスが、悪魔の誘惑の時に40日も断食されたことが、どんなに苦しか
ったかと思いました。
昔から、断食は、宗教的な苦行として行われてきました。
今でも、イスラム教では、ラマダンという断食月には、断食をしています。
古代イスラエルにおいては、年に1回、贖罪日には断食しなければなりませ
んでした。
しかしその他にも、大きな苦難にあった時とか、特に神の憐れみを乞う時に
は、自ら進んで断食が行われました。
しかし、元々神への懺悔の気持ちを表すために行われていたこの断食は、次
第に人々の徳と考えられるようになりました。
すなわち、断食を熱心にする人は、それだけ信仰深い人だと考えられるよう
になりました。
主イエスの時代のユダヤ人の間では、施しと祈りと断食が三つの徳とされて
いました。
しかし主イエスは、当時のファリサイ派の人々が、自分たちを敬虔にみせる
ためにわざと見苦しい格好をして断食していたのを批判されました。
当時のファリサイ派の人々は、週に2回断食するのが信仰深い者だ、と考え
ていました。
ルカによる福音書18章のところで、神殿に祈りにやってきたファリサイ派
の人は、「わたしは週に2度断食しており、全収入の10分の1を献げてい
ます」と誇らしげに言っています。
ヨハネ教団といわれているグループも、恐らく週に2度断食をしていたので
しょう。
 ところが、キリスト者はそのような断食を行っていなかったのです。
それは、キリストの十字架の贖いが私たちの救いに十分なものであって、そ
れに付け加えて何か徳を積むという必要がなかったからです。
断食は、元々、己の罪を自覚して、神の憐れみを乞う謙虚な行為でした。
しかし、当時のファリサイ派の人々の断食は、自分たちの義を、自分たちの
信仰深さを人々に誇るための手段となっていたのです。
断食をすることによって、自分の方から神に一歩近づくことができる、と考
えたのです。
さらに、断食をしない人々を見下げ、彼らは神から遠い存在だと非難したの
です。
断食は、人に誇るためのものでなく、神の前に立つ人間の敬虔な行為でなけ
れば意味がありません。
主イエスは、断食を否定された訳ではありませんが、人に見せるための断食
を批判されました。
マタイによる福音書6章16−18節。(P.10)
 
  「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをして
  はならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見
  苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あな
  たは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなた
  の断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見てい
  ただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父
  が報いてくださる。」
 
 さて、今日のテキストにおいて、主イエスは人々の問いに対して、なぜ自
分たちは断食をしないのか、ということを言っています。
19節。
 
  イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろ
  うか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
 
ここでイエスは、今の時を婚礼の時と比較している。
イエス・キリストとともに始まる新しい時は、婚礼の時と比べることがで
きます。
婚礼の席に支配するのは、喜び祝うということではないか、とイエスは言い
ます。
もし、婚礼の席で出されたごちそうに手をつけず、陰気な顔をしていたら、
それこそ場をわきまえない失礼な態度となるでしょう。
詩編100編において「全地よ、主に向かってよろこびの叫びをあげよ」と
歌われていますが、この歌はイエス・キリストの到来に最もふさわしいもの
です。
 イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちには今までとは全く違
った真の喜びが与えられました。
これは、神の側からの一方的な恵みです。
そして、これが新しい時です。
これを忘れると、私たちはまた古い時に戻ってしまいます。
 初期の教会においても、しばしば古い時に戻ってしまうことがありまし
た。
この断食問題もそうです。
主イエスは、断食をするように弟子たちに命じなかったにもかかわらず、初
期の教会においては、ユダヤ教にならって週2回断食をしなければならな
い、あるいは断食をする人は信仰深いのだ、と思われるようになりました。
マルコが福音書を書いた紀元60年代の教会も、このような律法主義に逆戻
りする傾向にありました。
キリストの福音だけでは物足りず、そこに自分たちの行為、努力でもって補
おうとしたのです。
イエス・キリストによってせっかく新しい福音がもたらされたのに、受け入
れる者が依然として新しくなっていなければ、非常にちぐはぐなものになっ
てしまいます。
そのことを主イエスは、21−22節で二つの比喩を用いて言っています。
21節。
 
  だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりは
  しない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れ
  はいっそうひどくなる。
 
せっかく新しい布があっても、それを古い着物を繕うために使うなら、その
新しさは生かされません。
それと同じように、断食をしてそれを誇るような、人間の行為によって自分
を何らかの者にしようとする傾向があるのに、キリストの福音でその着物の
ほんの一部をつぎあてるというのは、意味がありません。
それはつぎはぎの信仰です。
そういう面で、私たちは日本の土壌において、つぎはぎの信仰を持ちやすい
のではないでしょうか。
私たちの周りには、日本の古くからの異教の習慣が沢山あって、その中にど
っぷり浸かって生活しています。
そういう異教の習慣の中にあって、そのほんの一部をキリストの新しい福音
でつぎはぎしているのではないでしょうか。
キリストの新しい福音を受け入れるには、私たち自身が全く新しくされる必
要があるでしょう。
 22節。
 
  また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんな
  ことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。
  新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
 
新酒の発酵力は非常に強いものです。
それは、物理的に一定の膨張が伴うので、古い皮袋はそれに対応する柔軟性
と弾力性がなく、破裂する恐れがあります。
せっかく新しい福音が伝えられても、それを受け入れる自分自身が依然とし
て古いままならば、それをきちんと受け入れることができません。
自分が新しくされるということが必要でしょう。
ヨハネによる福音書3章で、主イエスはニコデモというユダヤ教の指導者に
対して、「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」と
言っています。
 しかし、「新しくなる」というのは、新しがりとは違います。
すなわち、流行を追うようにして、何でも新しいものを取り入れていくとい
うのではありません。
流行のものは、一時的に栄えても、しばらくするとまた廃れてしまいます。
キリストの福音の新しさは、そのような時が経てば古くなってしまう新しさ
ではありません。
マルティン・ルターの宗教改革でも、全く新しいものを創り出したのではな
く、福音の真理を再発見しただけです。
 問題は、その福音を受け入れるにふさわしく、私たちが新しくなるという
ことです。
私たちが依然として自己中心的であって、自分の欲にとらわれているなら、
キリストの福音を受け入れることができません。
 主イエスは、宣教の初めに、1章15節にあるように「悔い改めて福音を
信ぜよ」と言われました。
福音を信じるためには、悔い改めが必要です。
今までの自分の欲にとらわれているなら、古い皮袋に新しいぶどう酒を入れ
るようなものです。
そうすると皮袋は裂けてしまうでしょう。
古い自分は、自己中心的な生き方でした。
自分が主でした。
しかし、新しくされた今は、私たちの主はキリストです。
そして私たちは、その主なるキリストに従う者となるのです。
これが悔い改めであって、悔い改めを通して私たちは古い皮袋から新しい皮
袋に変えられるのです。
 しかし、私たちはなかなか全く新しい皮袋に変えられません。
相変わらず、新しい布を見附はしますが、依然として古い着物のあちこちに
それをつぎはぎしているのではないでしょうか。
そして、破れを経験し、また新しい布を見つけては、そこにつぎを当てると
いうことを繰り返しているのではないでしょうか。
 このような状態の私たちですから、毎週の礼拝において神の言葉を聞き、
新しくされていく必要があるのです。
古い私たちの歩みの中にあって、「新しい時代にふさわしく」歩むために、私
たちはこの礼拝を大切にする必要があるのです。
なぜなら、この世に新しい時代をもたらしたキリストが、礼拝の導き手であ
るからです。
神のみ言葉によって、私たちは古い皮袋から、少しずつ新しい皮袋にされて
いくのです。
私たちはこの礼拝において、常に新しい時代に与っていきたいと思います。