2002年1月6日     室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書2章13-17節
「罪人を招くため」
 
 今日は、2002年最初の礼拝です。
昨年一年間神が私たちを豊かに導いてくださったことに感謝をささげ、新し
い年も主の恵みと導きを祈りつつ、この礼拝を捧げたいと思います。
そこで、年頭に当たって、神が私たち罪人を招いてくださっていることを改
めて覚えたいと思います。
13節。
 
  イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来
  たので、イエスは教えられた。
 
主イエスは、主にガリラヤ湖の周辺で宣教活動をされましたが、彼の周りに
は常に大勢の群衆が集まってきました。
その前の記事は、主イエスが中風の人を癒した記事でした。
この出来事を大勢の人が聞き、主イエスの評判が非常に高まったものと思われ
ます。
そこで、大勢の人が主イエスのそばに集まってきたのです。
 主イエスは、ユダヤ教の会堂(シナゴグ)でも話されましたが、むしろ野外
の自然の中でしばしば話されました。
山上の説教は、文字通り、ガリラヤの山で、そこに咲く花やそこを飛ぶ小鳥
を見ながら話されたものです。
 また、今日のテキストのように、ガリラヤ湖のほとりでもしばしば話され
ました。
ここは恐らく、2章1節にあるカファルナウムの近くの湖畔であったと思わ
れます。
カファルナウムは、ガリラヤ湖の北に位置し、交通の要路になっていたの
で、支配者はここに収税所を設け、そこを通る商人に物品税を掛けていたの
です。
この収税所は、町の一番よく人の通るところに建てられていたと思われま
す。
そしてこの収税所に、徴税人のレビが座っていたのです。
主イエスは、これまでもよくこの収税所の前を通って湖に行っていたことで
しょう。
そしてその後には、大勢の人がついて行っていたでしょう。
そして、そのついて行く人々を見て、また新たな人が仕事の手を休めて、つ
いて行ったのではないでしょうか。
収税所に座っていたレビもきっと、たびたびこの光景を見たことでしょう。
しかし彼は、多くの人のようには、仕事を放ってイエスについて行くという
ことはしなかったのです。
彼は、イエスには全く無関心であったのです。
仕事を放り出してまでイエスの話を聞きに行く価値を見いだしていなかった
のでしょう。
それよりは、せっせと働いて、お金を儲ける方が、彼にとっては大事だった
のでしょう。
 同じ記事を伝えるマタイによる福音書9章9節では、このレビはマタイと
言われています。
主イエスの十二弟子のリストにはレビという人はいません。
マルコによる福音書3章16節以下に主イエスの十二弟子のリストがありま
すが、そこではマタイとなっています。
従って、このレビは主イエスの十二弟子のマタイのことだと思われます。
しかし、「レビ」というヘブル名でも呼ばれていたとしたら、それは象徴的な
意味があったのではないでしょうか。
レビというと、レビ人を連想します。
レビ人は、神殿において祭司の下働きをしていた人たちのことです。
しかし、この徴税人レビは、神に仕えるどころか、逆に世俗的な仕事に忙し
く、神の話などには全く関心がなかったのです。
金儲けのために、そんな時間は惜しかったのです。
そして、この徴税人は、当時のユダヤの社会では、皆から嫌われた存在でし
た。
当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマ皇帝によって重い税金が
掛けられていました。
そして、ローマの手先になって同胞から税金を取り立てていたのが徴税人で
した。
それだけでなく、彼らの多くは貧しい民衆から不正な取り立てをして、私腹
を肥やしていたのです。
征服されていたユダヤ人たちは、非常に貧しかったけれども、心の誇りだけ
は失っていませんでした。
征服者の手先となって貧しい人々から不正な取り立てをして私腹を肥やして
いた徴税人は、人々から嫌われた存在でした。
 そういうレビは、よけいに意固地になって、仕事にのみ精を出していたの
です。
そういうレビは、主イエスが前を通られても何の関心も示さなかったので
す。
神の話など聞いても、自分には何の利益にもならない、と思っていたのでし
ょう。
 しかし、そのようなレビに、主イエスの方から目を留められたのです。
14節。
 
  そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見
  かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに
  従った。
 
レビは今までに、イエスの評判は聞いていたでしょうが、全く関心がなかっ
たのです。
それが、イエスによって「わたしに従いなさい」と言われたら、素直に従っ
たのです。
実に不思議です。
今までイエスに全く関心のなかったレビが、どうしてすぐにイエスに従った
のでしょうか。
私たちには考えられないことです。
それだけ主イエスの言葉には、何か不思議な力があったのでしょう。
1章17-20節のところでもシモン・ペトロとアンデレの兄弟、及びヤコブ
とヨハネの兄弟は、イエスによって「わたしについてきなさい」と言われる
と、何の躊躇もなく、仕事の道具である網や舟をそこに残してイエスに従っ
た、とあります。
実に不思議な気がします。
 さらに驚くべきことは、これらの主イエスの弟子になった人たちは、最初
は決してイエスの信奉者ではなかった、ということです。
それどころか、それまではイエスに全く関心のなかった人たちだったので
す。
一方では、イエスの話を聞こうとして大勢の人たちが熱心にイエスに従って
きていました。
しかしイエスは、なぜかそういう人から弟子を選ばずに、それまで全くイエ
スに関心のなかった人たちから選ばれたのです。
私たちが弟子を選ぶという場合、大体は自分を尊敬し、自分に熱心に従って
くる人から選ぶのではないでしょうか。
イエスは、ご自分に全く関心を示さず、自分の仕事に精を出していたこの5
人に、イエスの方から目を留められ、「わたしに従ってきなさい」と声を掛け
られたのです。
 そして、イエスに声を掛けられたなら、今まで全く関心を持っていなかっ
た人たちが、その招きに答えて、素直にイエスに従って行ったのです。
実に不思議なことです。
これは、奇跡としか言いようがありません。
主イエスの言葉には、創造的な力があります。
自分の方はイエスを無視していても、いったんイエスに呼びかけられると、
それに従わざるを得ないのです。
ルカによる福音書の方のテキストを見ますと(5章28節)、「彼は何もかも捨
てて立ち上がり」と記されています。
今まで人に嫌われながらもせっせとためてきた財産、自分の唯一の頼りであ
る財産をすべて捨ててイエスに従った、というのです。
ここで、イエスに呼びかけられることによって、イエスに出会うことによっ
て、レビの価値観が180度転換させられたのです。
イエスに出会ったなら、今までの生き方、考え方が変えられるのです。
今までの価値観が転換させられるのです。
今までせっせとためてきた財産をすべて失っても、イエスに出会う方が価値
があるのです。
レビはそのような体験をしたのです。
 レビの生き方は、ある面で現代人と似たところがあるのではないでしょう
か。
現代の日本は、物質中心的な考えが支配しているのではないでしょうか。
バブルが崩壊して、日本人も今までの物質中心的、お金中心的な考えが少し
反省させられて、精神的なことにも目を向けるようになってきたと言われて
いますが、しかしやはり多くのところではなお物質中心的な考えに支配され
ているように思えます。
新聞紙上を賑わすいろいろな事件を見ましても、そのほとんどがお金に関係
していると言っても過言ではないでしょう。
そのような風潮の中で、精神的な豊かさを求めるとか、信仰を求めるとか、
真の命を求めるという人は、実に少ないように思えます。
多くの人は、神の言葉を聞く時間があれば、働いてお金儲けをした方がいい
と思っています。
そして、神の方には目を向けないのです。
そのような神から目を背けている私たちに、神の側から私たちに目を留めて
招いてくださっているのです。
お金よりももっと大切なものがある、と招いてくださっています。
主イエスとの出会いによって、真の命、本当の喜びがある、と招いてくださ
っています。
そして、レビはこの主イエスの招きに従ったのです。
 さて、レビはその後主イエスを食事に招きました。
食事に招いたということは、レビがイエスに呼びかけられたことがよほど嬉
しかったからでしょう。
徴税人ということで、人々から呼びかけられることはおろか、常に無視され
ていたレビにとって、イエスの方から呼びかけられたことは予想もしていな
かったことで、大いなる喜びであったのでしょう。
15節。
 
  イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多く
  の徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がい
  て、イエスに従っていたのである。
 
この席には、多くの徴税人や罪人も招かれていたのです。
「罪人」とは、律法に違反した人のことです。
ユダヤ人にとって食事は、単に食欲を満たすだけでなく、宗教的な意味もあ
りました。
食事の席は神聖なものであって、汚れを排除しなければなりませんでした。
そのために、手をきちんと洗うことが儀式的に行われたりしました。
それと同時に、汚れた者とされている人と一緒に食事をすると、汚れると考
えられたのです。
ここにある徴税人や罪人は、汚れた人と見なされていました。
しかしイエスは、あえてこのような人と一緒に食事をされたのです。
ここには、主イエスのどんな人をも分け隔てしない態度があります。
どんな人間も、神の前には全く平等であり、聖なる人や汚れた人などと言う
区別はないのです。
ところが、この時代にユダヤ教においては、それがあったのです。
16節。
 
  ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされ
  るのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をす
  るのか」と言った。
 
律法を忠実に守る律法学者は、当然イエスの態度を非難しました。
「どうして」というのは、驚きと咎め立ての言葉です。
律法学者たちも、多くの群衆に尊敬されていたイエスにある程度敬意を払っ
ていたでしょう。
神の律法を良く知っているはずのイエスがこのような行動に出たことは、ど
うしても理解できなかったのです。
 しかし、それに対してイエスは答えました。
17節。
 
  イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人では
  なく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪
  人を招くためである。」
 
イエスが来られたのは、「正しい人のためでなく、罪人のためだ」と言われま
す。
神の前に正しい人がいるでしょうか。
私たちも神の前にすべて罪人です。
そのような弱い、罪に汚れた私たちをイエスは疎んじたり、無視したりする
のでなく、イエスの方から私たちに目を留めて、優しく招いてくださってい
るのです。
私たちは、このイエスが招いてくださっていることを覚え、イエスに従って
行く者でありたいと思います。