2001年11月18日     室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書2章1-12節
「あなたの罪は赦される」
 
  2章1節。
 
  数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられること
  が知れ渡り、
 
イエスは最初、カファルナウムを本拠にして伝道されました。
カファルナウムには、シモン・ペトロの家がありました。
1節の「家」というのは、きっとシモン・ペトロの家であったでしょう。
イエスがシモン・ペトロの家にいるということを聞きつけて、多くの人が集
まってきました。
集まってきた人々に対してイエスは何をなさったかというと、2節にみ言葉
を語られた、とあります。
集まってきた人々も、何かほかのことを求めにイエスの所に来たのではなさ
そうです。
私たちもイエスの所に集まる時、み言葉を求めて集めるのであって、決して
そのほかのことを求めて集まるのではありません。
なぜなら、イエスのみ言葉は、私たちに真の救いと命をもたらすからです。
 さて、家一杯に人が集まっている所へ、一人の病人が運ばれてきました。
3-4節。
 
  四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスの
  もとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋
  根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
 
ここに、イエスのみ言葉を聞きたくても聞けない人がいます。
イエスの所に行きたくても行けない人がいます。
このような現実もあることを知らなければなりません。
私たちの周りにも、病気のため、あるいは身体に障害があるために、あるい
は高齢のために、礼拝に来れない人もおられる、ということを覚えなければ
なりません。
 さてここで、中風の人が自らイエスの所に行きたいと言ったのか、あるい
は家族など周りの人がイエスの所に連れて行くことを考えたのかは、分かり
ません。
また、この人が病気を治してもらいたいためにイエスの所に連れて来られた
のか、それともイエスの話を聞きたいために連れて来られたのかも分かりま
せん。
 さてここで、4人の男がイエスのおられる家の屋根をはがして穴をあけて
この中風の人を床に寝かしたままつり降ろした、とあります。
ずいぶん乱暴なことをしたようですが、このようなことは簡単にできたよう
です。
この当時のパレスチナの家の屋根は、木材の梁と、木の枝を編んだものと、
粘土の覆いから成っていて、ごく簡単にはぐことができたそうです。
そして、一つの階段が家の外を通って、上に通じていたので、外から簡単に
屋根に上ることができました。
とは言っても、屋根をはいで病人をつり下げるというのは、異常な行動であ
ったでしょう。
周りの人々は、この非常識な行動にびっくりしたでしょう。
まして、この家の持ち主であったシモン・ペトロは、屋根が壊されたという
ことで怒りを覚えたのではないかと思います。
 しかし、イエスは彼らの信仰を誉めたのです。
5節。
 
  イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦
  される」と言われた。
 
ここでイエスは、この中風の人に「子よ」と優しく呼びかけられました。
ここにイエスのこの人に対する愛が現されています。
この人は寝たままでイエスの所に運ばれたのですから、恐らく普段は寝たき
りであったと思われます。
普段は周りの人々に面倒ばかり掛けており、いわば厄介者であったかも知れ
ません。
肉体的な苦痛に加えて、人に面倒を掛けているというすまない気持ち、そし
て優しい声を掛けてもらえないという寂しさ、いろいろな苦しみに毎日過ご
していたことでしょう。
それが、初めて会ったイエスに、「子よ」と優しく語りかけられたのです。
 キリストは、私たち人間の苦しみを知っておられます。
そして、苦しみにある私たちに優しく語りかけてくださるのです。
 さて、イエスは次に「あなたの罪は赦される」と言われました。
しかし、この病人は特別に罪を犯していたという訳ではないでしょう。
人間はみな罪人です。
ただこれを自覚するかどうかです。
人間はなかなか自分の罪を自覚しません。
特に何もかも順調にいっている時はそうです。
突然大きな不幸に見舞われる時や、病気の時は自分の罪を自覚する場合があ
ります。
 旧約聖書の時代、病気は神に罪を犯した結果だと考えられました。
しかし、本当は病人が罪人であって、健康な人は罪を犯していないというこ
とではありません。
この中風の人も、自分の病気のことから常日頃自分の罪ということを考えて
いたのでしょう。
そして、この罪が何とかして赦されたら、と思っていたのではないでしょう
か。
そういう時に、イエスが来られたことを聞き、家の人に是非ともイエスの近
くに行きたい、と要求したのかも知れません。
イエスは、この人の罪が赦されたいという思いを知られたのでしょう。
 聖書において、罪を認めるということが非常に大切です。
人間はしばしば高慢で、自分の罪を認めません。
そこで神は、しばしばそのような私たちに試練を与えられます。
パウロは、非常に苦しい病気に悩まされました。
コリントの信徒への手紙二12章7節で次のように言っています。(P.339)
 
  また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そ
  のために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与
  えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるた
  めに、サタンから送られた使いです。
 
病気は決して罪の結果というのではありません。
それは、私たちに自分の罪を自覚させてくれるものです。
病気や災いがなければ私たちは、罪を自覚せず、高慢になりがちです。
病気や災難を通して、私たちは自分の罪に気づかされるのです。
 そして、私たちが自分の罪に気づいて悔い改めるなら、神はそれを必ず赦
してくださいます。
神は、私たちの悔い改めの心を最も喜ばれるのです。
詩編51編は、ダビデが非常に大きな罪を犯した時に、預言者によってその
罪を指摘され、深く悔い改めた時に読まれたものだと言われています。
その18-19節に次のように言われています。(P.885)
 
  もしいけにえがあなたに喜ばれ
  焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
  わたしはそれをささげます。
  しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
  打ち砕かれ悔いる心を
  神よ、あなたは侮られません。
 
神は、私たちが心から悔い改める時、私たちの罪を赦してくださるのです。
 今日のテキストにおいて中風の人が悔い改めたということは言われていま
せんが、この人がこんなに無理をしてまでイエスの近くに来たというところ
に、この人の罪を悔い改める思いをイエスが見られたのでしょう。
 イエスは、この罪の赦しをただ口先だけでするのではなく、権威をもって
宣言されたのです。
そして、この罪の赦しの宣言は、また私たちに対してもして下さっているの
です。
この赦しの言葉をイエスは、十字架の上から語られました。
すなわち、ただ口先だけで宣言するのでなく、私たちの罪を実際にご自分の
身に負って、語られたのです。
 ところが、律法学者たちは、このイエスの罪の赦しの宣言に異議を唱えた
のです。
尤も、直接イエスに異議を唱えたのでなく、心の中で考えた、とあります。
7節。
 
  「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神
  おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
 
しかし、この律法学者たちが言っていることは、全く正しいのです。
確かに、人間には誰一人、罪を赦す権威はありません。
どんな偉い人であっても、人間の罪を赦すことのできる人は一人もいませ
ん。
中世において、聖堂の建築のために「免罪符」が売り出されたことに対し
て、マルティン・ルターが反対しましたが、これは全く正しいことです。
お札を買うことによって決して罪が赦されるものではありません。
 しかし、イエスは、神の権威が与えられて、罪の赦しの宣言をされたので
す。
11-12節。
 
  「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」そ
  の人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。
  人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、
  神を賛美した。
 
イエスは、罪の赦しの宣言をしただけでなく、この病人に癒しをもなし給う
たのです。
救いは人間の全領域に及びます。
ここでイエスは、この病人に命じられます。
ある意味では、非常にきつい調子です。
5節の所では、「子よ」と非常に優しく語りかけられました。
しかしここでは、非常にきつい調子で命じられます。
まず、「起きよ」と命じられます。
「起きる」というのは、自立を意味しています。
今まで、この人は寝たきりの病気のため、自分のことも自分でできずに、人
にしてもらっていました。
長い間にそういう癖がついていたのでしょう。
そしてそこには、甘えが自ずと育っていたでしょう。
しかし、今からは、病気が治ったのだから、自分のことは自分でせよ、とい
うことでしょう。
 子供を育てる時、何でも親がしてやると、子供の自立を妨げてしまいま
す。
ある時は、少し厳しく、自分でやらせるということが必要です。
またこれは、未開発国の援助においても言えることです。
日本は、援助をするという場合、すぐお金を出すということを考えます。
日本はお金があるから、未開発国に経済的な援助をするのは、そう困難では
ないでしょう。
しかし、相手国にすれば、ただお金だけをもらっても、住民が本当に自立し
て生活をすることはできません。
そこで最近では、未開発国の人が自分で自立して働くことができるような指
導という形での援助が求められています。
そういう風にして、自立を助けることが本当の援助でしょう。
 イエスも、病人を癒した時は、ほとんど「行きなさい」とか「帰りなさ
い」と言って、後は突き放すような場合が多くあります。
ここでも「家に帰りなさい」と言っています。
家に帰って、自分にできることをせよ、ということです。
今まで家の人に手助けをしてもらっていたが、今度は家の人の手助けをせ
よ、ということです。
今までは、人々の愛を受けるだけであったが、今度は人々に愛を示せ、とい
うことです。
そして、そうすることが生き甲斐なのです。
それが喜びをもって生きることなのです。
イエスは、ただ病気を癒すだけでなく、その人が本当の喜びをもって生きる
ことを願われるのです。
イエスの救いは、人間の全領域にわたるものです。
 私たちの生活もそうです。
私たちは、日曜に礼拝に招かれ、キリストの恵みに与ります。
そして、キリストは私たちにも「家に帰れ」と言われます。
私たちは、キリストによって与えられた恵みを携えて家に帰り、その恵みを
他の人にも与え、それぞれの務めを果たし、喜びをもって1週間を過ごすの
です。
しかし、そのような喜びをもって、生き甲斐をもって、この世の歩みを歩む
ことができるのは、私たちが「罪を赦す権威」のある方から、罪を赦されて
いるからです。
私たちは、キリストから罪を赦されたものであることを覚え、喜びに満たさ
れた歩みを送るものでありたいと思います。