2001年10月14日 室町教会朝の礼拝
マルコによる福音書1章40-45節
「イエスの憐れみ」
私たちは、1章21節以下のところで、イエスが汚れた霊に取りつかれた
男を癒した記事を学びました。
しかしそこでは、癒しということよりも、イエスが真の権威者だ、というこ
とが強調されました。
今日の所は、イエスがやはりこのカファルナウムで一人の重い皮膚病を患
っている人を癒したという記事です。
当時、重い皮膚病の人は、社会的に非常に差別を受けていました。
レビ記13章45節を見ますと、
「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。
とあります。
皮膚病は、皮膚感染ですから、感染することを避けるためにこのような規定
があったのでしょうが、自分自ら「汚れたものです」と叫ばなければならな
かったということは、非常なる屈辱であったでしょう。
彼らは、肉親からも、ユダヤ人の社会からも隔離されていたのです。
彼らは、肉体的にも苦痛であったでしょうが、それ以上に社会から隔離され
て差別されて生きていかなければならないという精神的な苦痛が非常に大き
かったのです。
日本においても、先年「ライ予防法」が廃止され、ハンセン病患者に対す
る長年の隔離政策が間違っていたとして、政府も謝罪し、補償もされるよう
になりましたが、彼らの肉体的・精神的苦痛は計り知れないものがありま
す。
先日召天された夕部雪子姉は、若い頃、親の反対を押し切って、瀬戸内海の
長島のライの療養所で看護婦として働いたそうで、その時の話を伺ったこと
があります。
とても悲惨な状況だったそうです。
将来に希望を持てなく、自殺する人もいたそうです。
さて、イエスの時代においても、重い皮膚病を患っていた人は、そのよう
な社会的差別の中に生き、将来に希望を見いだせず、ただ死ぬことを待つだ
けでした。
しかし、ここに登場する人は、イエスにかすかな希望を抱き、イエスの所に
やって来たのです。
ただ、この時代、重い皮膚病の人が人前に出ることは許されていませんでし
たので、恐らくイエスが町の外にいるのを見つけたのでしょう。
1章35節を見ますと、
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そ
こで祈っておられた。
とあります。
イエスは、祈るために人里離れた所にしばしば行きましたが、そこは神との
出会いの場所であると共に、このような人々から疎外されて生活していた人
と出会う場所でもありました。
40節。
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずい
て願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言
った。
「御心ならば」とありますが、原文からすると「わたしは意志する」という
意味です。
岩波から出ている新しい訳では「もしあなた様がお望みならば」と訳されて
います。
すなわち、この病人が治ることは、イエスの意志、イエスの望むところだ、
というのです。
これを聞いてイエスは深く憐れんだ、とあります。
イエスは、この病人を見て、今までこの人がいかに苦しんできたかを思い、
憐れまれたのです。
ここで、「憐れんだ」と訳されている語は、日本語の憐れみというのよりはも
っと深い意味があります。
先ほどの岩波訳では、「イエスは、腸がちぎれる想いに駆られ」と訳されてい
ます。
原語のギリシア語では、スプランクニゾマイといいますが、これは「内蔵」、
すなわち腸や肝臓・腎臓などを指す名詞(スプランクノン)に由来します。
ですから、「憐れみ」というのは、単に同情するというのでなく、痛みを共
にする、ということです。
ちょうど日本の「断腸の思い」と似ています。
イエスの憐れみは、そのようにご自分の苦痛を伴うものだったのです。
イエスはこの人を見、また「御心ならば」というこの人の言葉を聞いて、こ
の人の今までの苦しみを思われ、そしてその苦しみを共に苦しまれたので
す。
この人は、重い皮膚病を患ったために、人々から嫌がられ、社会から疎外さ
れ、果ては家族からも見放されたのです。
ただ、死ぬのを待っているだけの生活でした。
そのような苦しみをイエスは思われ、まさに腸がちぎれる想いに駆られたの
です。
また、41節の「深く憐れんで」というのが、写本によっては「怒って」
となっているのもあります。
その場合、イエスは何に怒ったのでしょうか。
ここでは、この人を深い苦しみに陥らせた病気そのものに対して怒っている
のでしょう。
このような罪もない素朴な人に病気が取りついたとしたら、その病気は神の
本来の望みでは決してありません。
イエスは決して、人が病気に苦しめられるのを望まれません。
それが「怒った」というところに表されています。
そして、イエスは、この病人が癒されるのを心から願ったのです。
その具体的な表れは、「手を伸ばしてその人に触れた」ということです。
重い皮膚病は、皮膚感染です。
触れることによって移るのです。
それゆえ、皮膚病の人は隔離されたのです。
しかしここでイエスは、自分に皮膚病が移るということは全く考えていませ
ん。
ただ、彼が治ってほしいという願いだけです。
あるいは、イエス自身もこの病人の苦しみを共に担おうとされたのかも知れ
ません。
ここにイエスの大いなる愛、大いなる憐れみというものが示されています。
イザヤ書53章4節のところで、主の僕は「我々の病を負い、我々の悲しみ
を担った」といわれています。
イエスは私たちが病にある時、あるいは悲しみにある時、それを深く憐れ
み、共に担ってくださるのです。
母親は、子供が苦しみに遭う時、自分自身も共に苦しみます。
そしてできることならその苦しみを代わってあげたいと思います。
ここに母親の愛があります。
イエスは、私たちの苦しみを共に負うということを越えて、私たちに代わっ
て苦しみを負ってくださいました。
これが十字架です。
私たちは、十字架を思う時、イエスの私たちに対する愛がいかに大きいもの
であるかが分かります。
私たちの苦しみを共に負ってくださる人がいるでしょうか。
まして、私たちに代わって苦しみを担ってくださる人がいるでしょうか。
42節。
たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
イエスの心からなる願いを神が聞き入れてくださったのでしょう。
これは奇跡と言っていいと思います。
ここでイエスはどんな病気でも治すことのできる超能力者として主張されて
いるのでしょうか。
そうではありません。
43-44節。
イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われ
た。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司
に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明し
なさい。」
イエスはここで、この病人に治ったことを誰にも話さないように命じていま
す。
イエスはよく、癒しをした後、「誰にも言うな」と命じました。
これは一体どういう事でしょうか。
ここでイエスがこの病人を癒したのは、自分の力を人々に示すためではあ
りませんでした。
イエスはただ、この病人を深く憐れんで、この人が本当に癒されることを願
われただけでした。
この当時、ユダヤ人はローマ帝国の支配下にあって苦しんでいました。
そして、自分たちを苦しみから救ってくれるメシアを待望していました。
イエスが病人を癒したという評判で、そのような英雄だと誤解されたくなか
ったのです。
この時既にイエスは、英雄への道ではなく、十字架への道を歩んでいたので
す。
そして、治った病人に対して、「立ち去らせようとした」とあります。
当時、重い皮膚病が治ったかどうかの判断は、祭司がすることになっていま
した。
ここで、祭司にそのことを証明してもらうということは、社会復帰を意味し
ました。
今まで社会から隔離されていた者が、今度は社会に帰って、そこで自分で生
活していくということです。
イエスは、病人を癒した後で、必ずその人に「行きなさい」と言いまし
た。
しかし、弟子たちを選んだ時は、「わたしについて来なさい」と言いまし
た。
1章17節では、シモンとアンデレに「わたしについて来なさい」と言われ
ました。
ところが病人を癒した時は、「行きなさい」と言われます。
「行きなさい」ということは、社会にあって、自分の生活を守りなさい、と
いうことです。
人に依存せず、自分で自立して生きなさい、ということです。
イエスは決して、すべての人が何もかも捨てて、自分に従うという事を言わ
れませんでした。
否むしろ、多くの人には、自分の社会での生活を守れ、社会人としての責任
を果たせ、とおっしゃいました。
45節。
しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い
広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町
の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのと
ころに集まって来た。
しかし、イエスの意図とは反対に、イエスの評判はますます広まっていきま
した。
当時のユダヤ人は、ローマの支配下にあって苦しんでいました。
そこで、偉大な力のある人が現れ、自分たちを救ってくれることを期待して
いました。
そしてその期待がイエスに集まったのです。
しかしこれは、イエスの意図されたことではありませんでした。
そこでイエスは人のいない所に身を隠されたのです。
ここでマルコは、決してイエスが奇跡を行う超能力者だと主張しているの
ではありません。
マルコは、イエスの十字架に到る道を示そうとしたのです。
イエスは華々しく奇跡を行う英雄ではなく、十字架を負うお方です。
十字架に掛けられて、周りの人々が「十字架から降りてきて、自分を救
え」と言った時、イエスはあえてそれをされませんでした。
奇跡がクローズアップされると、十字架が見失われます。
イエスはこの病人を深く憐れみ、手を伸ばしてさわり、彼の苦しみを共に
担おうとされたのです。
イエスは決して、人々からもてはやされることを望まれませんでした。
そこで人々がイエスを求めて集まってきた時は、イエスは人のいない所に退
かれたのです。
しかし、そういう所に退かれても、人々は続々イエスの所に集まったので
す。
それに反して、十字架にかけられたイエスの所には、ほんの2,3人の女の
人だけがそれを見守ったのです。
イエスの弟子たちも皆イエスを見捨てて逃げ去ったのです。
私たちも、イエスにそのような求め方をしてはなりません。
奇跡を行う超能力者をイエスに求めるのでなく、あくまでイエスの十字架を見失ってはなりません。
この十字架にかかられたイエスは、私たちを常に深く憐れんでくださるお方
です。
私たちの病、苦しみを共に担ってくださいます。
そのイエスの愛に、私たちは常に目を向けていきたいと思います。