2001年10月7日         室町教会朝の礼拝
     マルコによる福音書14章22-26節   「契約の血」
 
 10月の第1日曜は、日本基督教団の暦では「世界聖餐日」に当たってい
ます。
そこで、私たちの教会でも聖餐式が行われます。
この聖餐にはどういう意味があるのでしょうか。
聖餐式は、キリスト教会において、昔から説教と共に最も重要なこととされ
てきました。
特に、宗教改革者たちは、これを非常に重んじました。
改革主義の伝統に立つ私たちの教会でも、この聖餐式は非常に重要なもので
あり、洗礼を受ける時は、これに誠実に与るという誓約をしました。
ですから、年4回のこの聖餐式には、教会員は極力与って頂きたいと思いま
す。
 聖餐式がいつ頃から行われていたかということは、正確には分かりません
が、初代教会のごく初期から行われていたと思われます。
聖餐の起原は、主イエスと弟子たちとの最後の晩餐であったということは、ほ
ぼ間違いないように思われます。
そして、この最後の晩餐は、過越の食事であったと思われます。
これは、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では一致していますが、ヨハネ
による福音書ではその前日の食事となっています。
16節には、次のようにあります。
 
  弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだった
  ので、過越の食事を準備した。
 
過越祭というのは、ユダ人が最も重要にしている祭です。
これは、現在でもユダヤ教においても最も重要な祭です。
これは、今から3000年以上も前のエジプト脱出という出来事を記念する祭
です。
今、夕の礼拝では出エジプト記を学んでいますが、今夕はちょうどその
エジプト脱出の箇所です。
ユダヤ人は、3000年の歴史の間、この過越祭を行うごとに、エジプト脱
出の出来事を思い起こしているのです。
 この祭は各家庭で行われました。
その時司会をするのは、大体はその家の父親でした。
そしてその時父親は、子供たちに、神が自分たちの先祖を救った出来事を教
えるのです。
出エジプト記12章26-27節には次のようにあります。(P.112)
 
  また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのです
  か』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。
  主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家
  を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝し
  た。  
 
ここでは、子供が「この儀式にはどういう意味があるのですか」と過越祭の
儀式の意味を問うています。
そしてそれに対して父親が「主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにい
たイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」と答えています。
そして、このやり方は、ずっと続けられているのです。
その場合、父親はエジプト脱出の出来事を詳しく教えたのです。
「過越」というのは、文字通り、通り過ぎる、ということです。
死をもたらす霊が、イスラエルの人々の家を通り過ぎた、ということです。
イスラエルの民は、この頃、エジプトで奴隷として虐げられていました。
神は、そのイスラエルの民の苦しみの声を聞かれ、モーセを遣わして彼らを
エジプトから救出しようとしました。
モーセは、エジプトの王の前に行って、交渉をしました。
しかし王は、貴重な労働力であるイスラエルの民を去らせようとはしません
でした。
そこで神は、最後に、すべての初子が死ぬという奇跡を起こしました。
すなわち、死をもたらす霊を遣わし、それがすべての家に入り、そこのすべ
ての初子が死んだのです。
しかしこの時、イスラエルの人々は家の柱に羊の血を塗ったので、滅ぼす霊
はそこを過ぎ越して行き、イスラエルの人々は助かったのです。
この出来事は、イエスの時代からだと千年以上も昔のことであり、現在から
だと3千年以上も昔のことです。
しかし過越祭で父親がその話をする場合、あたかも現在のことのように思
い、自分たちの信じている神は現在の私たちをも救うお方である、という信
仰を新たにするのです。
過越祭の度に、イスラエルの人々は、最も大いなる神の救いの出来事を思い
起こしたのです。
私たちは過越祭は行いませんが、聖餐式を通して、最も大いなる出来事であるキリストの十字架の出来事を思い起こすのです。
 さて、イエスと弟子たちの最後の晩餐では、イエスがその父親の役目を果
たしたと思われます。
そして、福音書には記されていませんが、イエスがエジプト脱出の出来事に
ついて話されたのではないかと思います。
これは、神が不思議な力によってイスラエルの民を救われた話です。
しかし今イエスは、もっと大いなる救いについて話すのです。
22節。
 
  一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え
  て、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわた
  しの体である。」
 
ここで「食事をしている時」とありますが、この食事は過越の食事です。
12節に「過越の子羊」とあるように、この日には子羊を屠ってそれを食べ
たのです。
そして先ほど言ったこの子羊の血を柱に塗って自分たちの先祖が救われた、
という話をしたのです。
しかし今日の箇所では、その過越の食事については詳しくは言われていませ
ん。
ここで主イエスは、その過越の食事とは別に大切なことを弟子たちに教えた
のです。
すなわち、聖餐です。
 主イエスは、まずパンを取り、讃美の祈りを唱えた、とあります。
主イエスは、5つのパンと2匹の魚で5千人を養った時も、讃美の祈りを唱
えた、と言われています。
マルコによる福音書6章41節。(P.73)
 
  イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、
  パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配され
  た。
 
主イエスは、空腹の群衆にただパンを与えたというのでなく、まず讃美の祈
りをされたのです。
これはただ餓えを満たすというだけでなく、霊的にも満たしてくださるとい
うことです。
私たちは食物が十分にあったらそれで幸せかというと、必ずしもそうではあ
りません。
今の日本は豊富な食料が有り余っています。
しかし、精神的にはかえって荒廃しているように思えます。
確かに物質には豊かですが、霊的には貧しいように思えます。
そこには、神よりの祝福がないのです。
 次に、主イエスは、パンを裂いた、と言われています。
これはどういうことでしょうか。
食べやすいように裂いた、ということでしょうか。
その次を見ますと、「これはわたしの体である」と言っています。
それでは主イエスは、ご自分の体を裂いたということになります。
これは、次の十字架の苦難を暗示しています。
主イエスは、私たちの罪を贖うために、自らの体を裂かれたのです。
そして主イエスは、この自ら裂かれたパンを弟子たちに「取りなさい」と言
われます。
この「取りなさい」という命令は、「恵みに与りなさい」という招きです。
私たちは、この招きを拒んではなりません。
主イエスは、この裂かれたパンを「取っても取らなくてもいい」とか「取り
たい人は取りなさい」とは言っていません。
「取りなさい」と命じているのです。
これは、恵みの押しつけといってもかまいません
人間はしばしば浅はかで、恵みをも拒んでしまうことがあります。
 さて、次は杯です。
23−24節。
 
  また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは
  皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人の
  ために流されるわたしの血、契約の血である。
 
杯にはもちろん葡萄酒が入っていました。
そしてそれは、一つの杯に入っていたのを皆で飲んだ、ということです。
この葡萄酒は「契約の血」と言われています。
この契約は、新しい契約です。
古い契約は、シナイ山において神がイスラエルの民と結ばれたものです。
その時の記事は、出エジプト記24章にあります。
24章6−8節。(P.134)
 
  モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
  契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語ら
  れたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に
  振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたた
  ちと結ばれた契約の血である。」
 
ここでも、「契約の血」と言われています。
この契約は、モーセに率いられたイスラエルの民と、シナイ山に現れた主な
る神との間に交わされた契約です。
これは、旧約と言われているものです。
この時は、犠牲に捧げられた雄牛の血が祭壇に注がれたのです。
契約は、非常に厳粛なもので、血はその厳粛さを表しています。
主はイスラエルの神になってイスラエルの民を守ることを約束し、またイス
ラエルは主の民となって主の戒めを守ると約束したのです。
しかしイスラエルの民は、歴史において、主に従順ではなかったのです。
しばしば主を忘れ、自分の欲に捉えられ、神の御心から遠ざかったのです。
その罪によって、シナイ山で交わされた契約を破ったのです。
そのような中で、預言者エレミヤは、やがて「新しい契約」が結ばれる時が
来ることを予言しました。
そして、この新しい契約は、イエス・キリストによって成就されたのです。
イスラエルの民は主に従順ではありませんでしたが、イエスは最後まで神に
従順に従い、十字架にかかられたのです。
このイエスの十字架は、私たちの罪を贖うためのものでした。
イエスは、神の御心に従って、十字架にかかられましたが、そこで流された
血は、私たちを救いに入れる契約の血だったのです。
 聖餐式は、記念の意味があります。
記念というのは、思い起こすと言うことです。
すなわち、聖餐式においてパンを食べ、葡萄酒を飲むことによって、イエス
が私たちのために十字架にかかられたことを思い起こしそれに感謝をささげ
るのです。
ですから、イエスの十字架が私たちの罪の贖いのためであったという信仰が
なければ、意味のないことです。
私たちは、まず、この信仰を持って与るということが大切です。
 さて、聖餐式に於てもう一つ重要なことは、パンも杯も元は一つと言うこ
とです。
私たちの聖餐式は、パンも葡萄酒も配りやすいように最初から分けています
が、主イエスは一つのパンを裂いて皆に渡し、一つの杯から皆が飲んだので
す。
すなわち、聖餐式に与るものは、一つのものを分かち合うと言うことです。
聖餐式は一致をも表します。
 現在、キリスト教は多くの教派に分かれています。
キリスト教は、イエスの弟子たちから始まった訳ですから、最初は一つでし
た。
それが歴史の流れの中で、分かれていったのです。
それは、その時々の事情を思うと仕方のないことだったかも知れませんが、
人間の罪以外にないでしょう。
20世紀になって、エキュメニカル運動が盛んになり、世界の教会が一つで
ある、という主張がなされてきました。
神は一人、キリストは一人です。
歴史において分かれた教派が、一致を目指す時、まず聖餐式を共にする、と
いうことが試みられてきています。
先週は、市内地区において日韓合同礼拝が、行われましたが、そこではやは
り聖餐式に共に与りました。
日本キリスト教団の信徒も、在日大韓キリスト教会の信徒も、キリストの契
約の血に与る同じ信徒なのです。
私たちは、聖餐式に共に与ることによって、キリストの恵みに与っているこ
とを覚え、また、キリストにあって一つということにも与っていることを覚
えたいと思います。